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家光は同性愛者?天草四郎は存在しない?日本が鎖国し、禁教令を出した背景に何があったのか

『鎖国・禁教令』

徳川家光が『武断政治』の総仕上げとして『幕藩体制』を築き、この世界に『対人恐怖症』が生まれた!

 

上記の記事の続きだ。さて、冒頭の記事で三代将軍家光が行ったことをまとめたが、祖父の家康が土地を開拓して土台を固め、父の秀忠が基礎工事をしてその土地を盤石なものにしたなら、この家光はその基礎工事が済んだ土地の上に、確固たる土台を作り上げた人物だ。それが冒頭の記事に書いたようなシステムの構築による江戸幕府(徳川政権)への貢献である。

 

家光には『六人衆』という側近がいた。

 

六人衆

  1. 松平信綱
  2. 堀田正盛
  3. 安倍忠秋
  4. 安倍重次(しげつぐ)
  5. 三浦正次(まさつぐ)
  6. 太田資宗(すけむね)

 

彼らの身分は低く、小姓だったが、そこからこの六人衆は家光の成長と共に成長し、『若年寄』となり、最後には『老中』となって、家光の側近として力強く働いた。家光は彼らのような実力者に恵まれ、幸運な人生を送ったと見える。が、見えるだけで、実際はそうではなかった。弟の忠長(ただなが)が実母のお江与(崇源院)に溺愛され、家光は愛されなかった。それが原因で、家光は自殺未遂をしたこともある。

 

しかし、乳母であった春日局(かすがのつぼね)が直々に家康のもとに直訴しにいき、それを聞き入れた家康によって、家光は正当な評価を得ることになった。それ以降、家光は春日局と家康を尊敬してやまず、家康に関しては、後に家康の墓となる日光東照宮を改築するときに、その敬意を示すために、『陽明門』等の豪華絢爛な社寺を作らせたという。

 

[日光東照宮 陽明門 筆者撮影]

[日光東照宮 陽明門 筆者撮影]

 

MEMO

しかも家光は、父である秀忠にも愛されず、両親はこぞって忠長をかわいがり、忠長の元には多くの贈り物が届けられた。そしてお江与は家光が将軍となった後も、自分が死ぬまで忠長を愛したという。

 

[日光東照宮 徳川家康の墓に続く階段(相当長い) 筆者撮影]

[日光東照宮 徳川家康の墓 筆者撮影]

 

家光がなぜお江与に愛されなかったかは定かではないが、家光にあったこういう話を聞いたとき、もしかしたらとその可能性を思い浮かべるわけである。参考書『ビジュアル版 日本史1000人 下巻 -関ケ原の戦いから太平洋戦争の終結まで』には、

多くの戦国武将の慣わしと同様に家光も衆道(男色)を好んだ。ただそれが極端で、女性に興味を持たなかった家光に、多くを取り締まる春日局は世継ぎ問題で苦労したという。

 

とある。そしてwikipediaにもこうある。

家光は若い頃は男色家だった為に女性に興味を見せなかった。その行く先を懸念した家臣たちの計らいで、美女と対面する機会を増やされたことで女性にも興味を見せ、側室のお振の方が長女千代姫を産んだのを皮切りに、幾人もの側室を寵愛した。

 

つまり、家光は今でいう『ゲイ』としての一面があった。そう考えると、もしかしたらこの問題がそこに関係しているかもしれないと、想像するのである。それに関しては何とも言えないところだ。私は偉人の多くに同性愛者がいるという事実を知っているし、本も持っている。また、ソクラテスの時代でもそういう風潮はあった。

 

当時のギリシャでは、既婚男性が妻以外の女性と関係を持つことに何の制約もなかった。すべての男性は子供を持つことを目的に結婚していたのであり、並行して別の家庭を持つことは社会的に許容されていたばかりか、推奨されてもいた。だが、ソクラテスはクサンティッペ以外の妻を持つことはなかったとされている。ただし、弟子たちの話から判断すると、ソクラテスが女性たちと親しくなることは稀で、多くのアテナイ市民と同様に若い男性と付き合うほうを好んだ。

 

プラトンによると、『ソクラテスは美青年たちに惹かれて親交を求め、彼らに心をかき乱された』(饗宴216D)ソクラテスが青年を愛していたことは間違いない。しかし、ソクラテスが青年を愛するあまり肉体関係にまで及んでいた、との記述はどこを探しても見つからない。肉体というより魂の交わりを求めていたという。

ソクラテス(Socrates)とはどんな人物か

 

映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』では、コンピューターの概念を初めて理論化し、エニグマの暗号解読により対独戦争を勝利に導いたアラン・チューリングという実在した人物の物語について描いている。

 

映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』予告編

 

彼は同性愛者だった。しかし彼が息をした、戦争真っただ中の1940年代、同性愛はイギリスでは違法であり、逮捕されてしまったのだ。時代や環境によっては処刑されたこともある。それくらい同性愛というのはタブー視されていて、人間として認められた行動ではなかったが、確かにこの世界にはこういう考え方を持った人間が存在していて、しかもなぜかそういう人のクリエイティビティは高いのである。

 

[崇源院像(京都養源院所蔵)]

 

さて、そんなこんなでとにかく実力はあった家光は、冒頭の記事に続いて確固たる土台を作り上げた。それらの問題以外にも『外交』問題も最適化。大きなテーマは、

 

  1. 貿易統制
  2. 禁教

 

だった。こうした問題からも、

 

  1. 一神教の布教による不測の事態
  2. スペイン・ポルトガルのような領土的野心の強い国が驚異となるリスク

 

といったことが問題視され、排除する必要があった。そこで幕府は『禁教令』を出し、キリスト教を禁じたのだ。1596年には26人の宣教師が秀吉によって処刑される『二十六聖人の殉教』があったが、1622年の家光が引き継ぐ直前の時代にも55人のキリシタンや宣教師が処刑される『元和(げんな)の大殉教』があった。

 

[元和大殉教図]

 

では鎖国の理由は何か。それは、このキリスト教やスペイン・ポルトガルへの警戒もあっただろうが、それよりも決定打になったのは、『西日本の発展』だった。

 

冒頭の記事で、外様が礼遇を受けた話を書いた。合戦の後にその領地を削減され、勢力を築きづらい辺境の地に追いやられた。これによって、復讐心に駆られて謀反を起こすことは難しくなる。また、江戸から遠くなるわけだから、参勤交代によって、その分自腹で払う交通費その他が大きくなる。以前から存在し、徳川家に忠誠心の強い人々は優遇され、そうじゃなく渋々従っている可能性が少しでもある人々は冷遇されたのである。

 

しかし、貿易が盛んに行われると、その近辺にいる大名たちが栄えてきてしまう。するとそれは脅威となるわけだ。このような理由があり、幕府は『幕府のみが貿易の利益を独占できる』システムを作る。

 

幕府

大名たちには栄えさせんぞ!俺たち幕府だけが力を持つことが許されるんだからな!今後、貿易の窓口は限定し、我々が貿易を管理する!
わ、わかりました。(…ちっ、幕府めが。)

大名

 

1633年に、家光は海外在住の日本人の帰国を禁止。そして1635年には日本船の海外渡航を全面禁止。ポルトガル船の来航を禁止し、平戸にあったオランダ商館を長崎の出島に移築して鎖国令体制を完成させた。そして、

 

  1. オランダ

 

のみを貿易相手国として、ここから幕府の鎖国は200年以上も続くのである。

 

 

こうしてその二つの外交問題を厳しく取り締まるのだが、『島原の乱(1637年)』という大規模な一揆が長崎で勃発する。天草四郎時貞というカリスマキリシタンが中心となり、改易されたキリシタン大名と家臣が結びついて、キリシタン弾圧に対して戦った。

 

島原、天草の地はキリシタン大名の有馬晴信と、小西行長の領地だった。下記の記事にその両方のことが書いてあるが、小西行長と言えば、関ヶ原でも活躍し、その後の秀吉の朝鮮出兵でも活躍した人物だ。

 

[『太平記英勇伝五十一:加藤主計頭清正(落合芳幾作)』 ]

[『太平記英雄傳小西摂津守行長(落合芳幾作)』]

 

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)

加藤清正と小西行長が先陣を切り、相手を混乱させた。

日本の次は『世界』だ!『太陽の沈まぬ国』スペインを沈めるのはこの豊臣秀吉だ!

 

天草四郎の父は、小西行長の家臣だったともいわれている。このような流れでそのまま『宗教統制』にも着手し、『宗教改め』としてキリストなどを描いた絵を足で踏ませる『踏み絵』が始まったのもこの時期だ。この時期に関する内容は、遠藤周作の『沈黙』、またそれを基にして作られた映画『沈黙 -サイレンス-』で観ることができる。

 

これらの時代背景は、島原の乱が収束して間もないころ。ちょうどこの頃だ。ポルトガルの宣教師が日本でキリスト教を広める為に奮闘する。しかし、ポルトガルもキリスト教も、この時代が最も反発心がピークに達していた時期だ。その時期にあってキリスト教徒は、この日本で何ができるのか。とてもシビアだが、リアリティのある話で見応えのある作品となっている。

 

 

この作品の冒頭にもあるが、人が人ではない扱いを受けているシーンがある。しかしそれは現実にあった話である。キリシタンとして迫害され、重税を課され、『蓑踊り』として蓑に火をつけるなどの悪行が実際に行われていたのだ。

 

[原城包囲の図]

 

圧倒的な幕府軍と、オランダの援軍による砲撃に、一揆軍は太刀打ちできなかった。しかし、最後まで釜な鍋などを投げつけて抵抗して籠城したという。天草四郎は言った。

 

しかし、籠城した者はすべて殺され、首だけになった四郎は、いくつかの首と共に母親のところへ持ち出され、母親はその首の中からどれが四郎なのかを言わなければならなかったという。ここにあるのはあまりにも残虐なストーリーだ。この映画は、天草四郎や島原の乱についての話ではないが、そのすぐ後の話。それらの話と照らし合わせながら当時の日本とキリスト教に関する問題を観ることができるだろう。

 

ただ、この話は『誰も首領である天草四郎の顔を見たことがない』という事実が存在していたからでもあった。そのため、彼が豊臣秀頼の息子だとか、様々な話があり、出生地ははっきりしない。そして実際には享年も諸説あるため、生年も定まらないという。

 

天草四郎のWikipediaにはこうある。

寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱ではカリスマ的な人気を背景に一揆軍の総大将となる。戦場では十字架を掲げて軍を率いたとも伝わるが、四郎本人はまだ10代半ばの少年であり、実際に乱を計画・指揮していたのは浪人や庄屋たちで、四郎は一揆軍の戦意高揚のために浪人や庄屋たちに利用されていたに過ぎないと見られている。

 

もしかしたら下記、卑弥呼の記事で私が推測したように、卑弥呼も彼も、存在すらしていないか、あるいは神輿として担がれ、利用されただけだったのかもしれない。

 

わかっている最古の日本人の名前は『卑弥呼』!ではその前にいた『師升』とは誰か?

 

[競勢酔虎伝:天草四郎(月岡芳年作)]

 

続いて日本は、『寺請け制度』という、民衆全員を寺に所属させ、檀家として寺への布施を義務負づけるシステムを考案。現在においても、

 

うちは浄土宗だね!

わたしのとこは真言宗よ!

 

などという会話があるが、これ以来民衆は必ずどこかの仏教の宗派に属することになり、この宗教改めが戸籍調査、そしてそのリストである『宗門改帳』は戸籍のようなはたらきをした。幕府は、寺社奉行にそれを管理させ、そこを通して全国の民衆を把握、支配するようになった。葬儀や墓の管理などの習慣も、この時の影響から来ているものである。

 

 

 

 

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