『新しい日本の幕開け』
上記の記事の続きだ。さて、明治政府の動きに戻ろう。日本は、欧米列強には従属的だったが、近隣のアジアには強気に出た。まず、江戸時代に清との間に正式な国交が結ばれていなかったので、1871年に『日清修好条規』が締結される。こちらが優位になるようにしようとしたのだが、結果『対等条約』となる。
そして何度か出ている1874年の『台湾出兵』だ。イギリスの介入もあって清は琉球王国を日本の領地だと認める。1875年、日本は朝鮮をわざと挑発し、砲撃を受ける。これを理由に特使を派遣し、軍事的な圧力をかけながら開国させ、ここでは日本が有利な『不平等条約』を締結することに成功する。
また、北方領土問題もこの時にロシアと話を進め始めた。『日露和親条約』で、『日露両国雑居の地』とされた樺太(サハリン)では、両国の移民同士の紛争が相次いでいていたが、1875年に交渉の末、『樺太・千島交換条約』が結ばれ、日本は樺太を放棄する代わりにロシアの概要への出口にあたる千島列島を手にした。
福沢諭吉は1885年に『脱亜論』を発表し、アジアの軽視が一部で問題視された。しかしこれは、清や朝鮮といったアジア諸国が、いつまでも近代化に対する保守的な発想を捨てきれないため、『アジアの成長の歩幅に合わせてはいけない!』という主張が込められていたのだ。事実、その前年の1884年に朝鮮で近代化を図るクーデターがあったのだが、失敗していた。『西洋事情』を著し、世界的な情勢の歩幅を知った福沢からすれば、アジアの成長速度は遅かったのである。それは、現在進行形でそうだと言えるだろう。
さて、そんな中政府では朝鮮半島を巡る『征韓論(せいかんろん)』と言われた外交問題が勃発する。士族たちのやり場のないエネルギーの矛先を朝鮮に向けることで国内の不満を逸らす考え方だ。
しかしそこに『岩倉使節団』が海外から帰国。
西洋の事情を知った彼らは、この『征韓』を巡って対立。福沢諭吉が海外事情を見て『脱亜論』を主張したように、実際に世界の流れを見た人とそうじゃない人との間には、明らかな思想の乖離があった。
[征韓議論図 中央左に岩倉具視、中央右に西郷隆盛、右に江藤新平]
大久保は、とくに鉄血宰相ビスマルクに影響を受け、日本の近代化にむけて富国強兵をするべきだと悟っていた。この時、時代はまさに『ビスマルク体制』。ドイツの鉄血宰相がフランスを倒し、ヨーロッパの覇権を握る時代だった。大久保は生涯に一度だけ引退を考えたことがある。それが、岩倉使節団として欧米先進国の繁栄を目にしたときだ。
日本との差がこれほどまでに開いてしまっているなんて…。
日本は島国であり、だからこそ外敵からの侵攻が少なく、長い間ガラパゴス(陸の孤島)として独自の文化を形成することができた。しかし、やはりデメリットはあったのだ。強豪と切磋琢磨するからこそ限界が更新されて向上していく。大久保利通、福沢諭吉といった識者は、この日本のガラパゴス化現象によるデメリットをいち早く理解し、最適化の必要性を説いた第一人者だったと言えるだろう。
一か月にわたる激しい政争が行われ、結果的に蒔けたのは留守政府の方だった。そして、西郷隆盛、板垣退助は失望し、政府を降りた。『明治六年の政変』である。そしてこれにより、西郷と板垣も別々の道へ行くことになる。
西郷隆盛 | 不平士族と結び反乱 |
板垣退助 | 言論の自由を目指す |
鹿児島に戻った西郷は、銃隊学校、砲隊学校、幼年学校からなる『私学校』を設立し、政府はこれを警戒。
鹿児島は、西郷の指揮のもと、独立国となるんじゃなかろうな。
かつて、『戊辰戦争』五稜郭の戦いでは、旧幕臣の榎本武揚(えのもとたけあき)、新選組の土方歳三らが蝦夷地を占領し、五稜郭を拠点に『蝦夷共和国』の樹立を宣言していた。これが成立していたら、北海道には『蝦夷共和国』という国が生まれていたかもしれないわけだ。幕末の薩摩の勢いを考えても、ここを警戒しないわけにはいかなかった。
[鹿児島暴徒出陣図 月岡芳年画]
そして1877年2月、この政府の動きに反応した私学校の生徒らに担がれる形で『西南戦争』を起こす。この戦争の結果は見えていたが、西郷としては『旧士族の青年たちと共に戦うことが大事』として、信念を貫いたのであった。
といった大きな士族同士の反乱が起きてしまうのだ。これは日本最後の内戦と言われている。しかし、それを鎮圧したのが『徴兵令』で集められた『平民』たちによる軍隊。この『平民が武士に勝つ』という事実は武士の時代の終焉を告げる大きな出来事となった。ここで『弘安の役』のように『役(えき)』ではなく『戦争』と名がついた理由は、ここで初めて徴兵制による近代的な軍隊の出動があったからだ。『日本の近代戦争』はここから始まったということを主張するために、戦争という名がつけられた。
板垣の方はどうか。彼らは土佐藩や佐賀藩などの出身で、政府で発言権が抑えられる傾向にあったことを不満に感じていた。その問題を解決するために、『自由民権運動』を起こす。日本初の政治結社『愛国公党』を結成し、『民撰議院設立の建白書』を政府に提出し、国会の開設を求めた。
[民撰議院設立建白書・序文]
そして、土佐で『立志社』、大阪で『愛国社』と次々に政治結社を立ち上げ、自由民権思想を広げていった。これに対し、世界を目で見た大久保利通は一理あると判断。しかし、士族反乱が起きているようなこのタイミングですぐにそれをやると、会議という会議にならない。そう考えた大久保は、政府を降りていた板垣退助、木戸孝允を招き、『大阪会議』を開催して相談する。そして議会政治の準備のため、
を設置し、『漸次立憲政体樹立の詔(ぜんじしりっけんせいたいじゅりつのみことのり)』をまとめ、『漸次(おいおい)』国会の開設をすることを約束した。板垣退助、木戸孝允はこの妥協案に妥協し、政権へ復帰する。
また、地方では『地方官会議』を開催し、地方の意見を集め、『府県会』という地方議会の設置をし、府や県の予算の審議などが行えるようになるなど、民主的な政策が打ち出されていく。また政府は『新聞紙条例』などの法令を出し、行き過ぎた政府批判などへの弾圧を行い、言論統制を行う。
このように、規制と緩和を交互に行いながら、興奮する国民を『手なずけ』、鎮静化させ、自分たちの都合のいいシナリオを当てはめていこうとしたわけだ。まあそう表現すると政府側が悪人のように見えてしまうが、そもそも民衆という存在自体が『善人』であるかどうかも疑問なので、おあいこである。
群衆とは、それが『善い』か『悪い』かということについて、常に正確に理解できるわけではない、ということである。『会衆、モッブ、パニック』という集団心理があって、『会衆』とは、受動的な関心で集まった人達の事。『モッブ』とは、強い感情に支配された集団の事で、暴動が起きるケースなどにあたる。『パニック』は、突発的な危険に遭遇して、群衆全体が混乱に陥ることであるが、それ一つ考えても、かれら群衆には、まるで『意志』がない。
これらの問題に対し、マキャベリ、韓非子、ナポレオンといった人物は、皆似た発想をしている。
一つ言えるのは、『人間を見下してはいけないが、民衆を過信するのは間違いだ』ということなのである。とにかくこうした対策により、佐賀の乱、西南戦争などの反乱を抑えることに成功し、また、税率が2.5%に下がったのもこのタイミングだった。
ところが、このタイミングには更に大きな問題が次々と起こった。大久保利通は、幼馴染で維新の盟友でもある西郷隆盛を大阪で鎮圧。しかしこの日、木戸孝允が病死。そして西郷も城山決戦で負傷後に切腹した。
彼はそう言い残し、東に向かって遥拝したのちに、切腹したという。
遠くへだたった所から拝むこと。
最後の最期まで自分の信念を貫き、義を守った正義漢、西郷隆盛はここで一生を終えた。
そして、西南戦争の翌年、東京の紀尾井坂で不平士族の手によって大久保利通も暗殺された。つまり、このタイミングで『維新の三傑』全員が亡くなってしまったのだ。1877~1878年のことだった。
その後の政府は、
がリーダーシップを執るが、彼らは仲が悪かった。まず大隈は大蔵卿(財務大臣)の立場として、経済面を最適化。
といった問題によって財政難に陥っていたため、それを何とかしようと『不換紙幣』を大量印刷。これは、『兌換紙幣』は金と同じ量だけしか発行できないので、これで一時的な対処をしたつもりだったのだが、いつでも紙幣の大量印刷というのはインフレのリスクを抱えている。結局この時も、市場に紙幣があふれて紙幣価値が下がり、物価の値は上がるというインフレが起きてしまった。民衆は紙幣をたくさん手に入れたが、政府は『価値の落ちた紙幣』しか集められず、更に財政難に陥った。
[和服を着用した大隈]
しかし、自由民権運動は盛り上がりを見せていた。インフレによって富裕な農民層から提供された資金が民権運動家にわたり、各地で結社が作られ、演説会が開かれ、署名活動が展開される。愛国社は『国会期成同盟』と名を変え、8万7000人分もの署名を集めて国会開設を要求。このあたりから、武力による反乱ではなく言論中心で戦う雰囲気になってきた。
大隈重信 | イギリス流 |
伊藤博文 | ドイツ流 |
大隈重信は、イギリスのように『国民が選挙で選んだ国会議員から内額が組織される』という議院内閣制を主張したが、伊藤博文はドイツのように憲法を時間をかけてつくるべきだと反論し、対立を続けた。
そこに、『開拓士官有物払い下げ事件』が起きる。薩摩出身の黒田清隆が、同じ薩摩出身の五代友厚に、1400万円もかけて政府が整備してきた奥の政府所有物をわずか38万円で売ろうとして、これが『癒着による越権行為』と判断されたのだ。これにより、
と噂され、大隈重信は政府を下ろされた。更に、『国会開設の勅諭』を出し、10年後の国会開設を約束。こうして、政府のトップがおろされ、さらに国会の開設が決まるという大きな変化が起こった。『明治十四年の政変』である。
しかし、翌年1882年の4月6日、板垣退助が岐阜を遊説中、刺客に刺される。
この時に言った板垣の言葉は、自由民権運動に大きな勇気を与えた。しかし、実際にはこの言葉はのちに編纂された『自由党史』のもので、板垣はこの時ただ茫然としていたという。そして病院で治療を受ける際に、
と側近に語り掛けたというのが真相だという。月日が経ち、出獄した加害者がのちに彼のもとへ謝罪に訪れた。板垣は言った。
どちらにせよ板垣は大きな使命を背負った正義の人であったということは間違いないようだ。また、大隈重信も、罷免された翌年の1882年に『立憲改進党』を結成し、『東京専門学校(のちの早稲田大学)』を創立。1898年には板垣退助の『自由党』と合同し、日本初の政党内閣を誕生させることになる。
[板垣退助 1906年頃(70歳頃)]
下記の記事で、新選組を引っ張った近藤勇と土方歳三の二大巨頭は、最後の最期まで武士道精神を貫いた、日本最後の『刀で戦った本物の武士』だったかもしれないと書いたが、彼らがいなくなった後も、本物の武士道精神を持った武士たちはまだいたのだ。
1869年頃から廃刀(刀を捨てるべき)の議論は行われていた。、「廃刀をもって精神を削ぎ、皇国の元気を消滅させるといけない」として否決され、森は退職を命じられた。1870年には一般に禁止し、1871年9月23日には帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発していた。そして、1876年3月28日、廃刀令が発布され、この国の武士は命に等しかった刀を手放すことになった。『徴兵制』によって軍が作られることで、個人が刀を持つ必要はもうなくなったのだ。
だが、西南戦争では刀が使われたわけだ。
[城山の戦い]
日本最後の内戦である西南戦争。ここで反乱を起こした『戦うための武士』として生きてきた者たちは、新選組の土方歳三同様、死に場所を探していたのかもしれない。
渋沢栄一も福沢諭吉も、肩書は『元武士』だ。ある者は武士として最期まで貫き、ある者はその武士道精神を政治や国づくりの為に使い、矛先を器用に変えて生き残った。そして彼らは時代の流れと共にその生き方を変え、これまでこの国に当然のようにあった『刀』と『武士』の時代は、明治維新による近代化に伴い、『歴史の一部』としてこの世界の記憶と記録に組み込まれていった。
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