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蝦夷地、琉球王国が日本に組み込まれる以前の話。世界の小規模で独特な文明の運命とは

『蝦夷地・琉球王国』

家光は同性愛者?天草四郎は存在しない?日本が鎖国し、禁教令を出した背景に何があったのか

 

上記の記事の続きだ。さてそうして鎖国をした日本だが、鎖国中は『四つの窓口』が貿易の窓口だった。

 

四つの窓口

長崎 オランダ・中国
対馬 朝鮮
薩摩 琉球
松前 アイヌ

 

この薩摩と松前の窓口から、北海道(蝦夷地)と沖縄(琉球王国)経由でロシア、中国の物資や情報を得て、貿易利益の独占と外国の情報統制を行った。

 

松前藩主の松前氏は、蝦夷地で狩猟採集生活を基本にしていたアイヌや、和人(日本人)や北方にいた諸民族と交流しながら独自の文化を形成していた。現在世界遺産でもある北海道の北端に『知床』があるが、名前の由来は、アイヌ語の「シリ・エトク(シレトク、sir etok)」または「シリ・エトコ(sir-etoko)」(地山の先、あるいは地山の突き出た所)を意味している。

 

 

アイヌの人々はシマフクロウやヒグマ、シャチなどを神と崇め、狩猟や漁撈、植物採取などをしながら豊かな自然を大切にした文化を育んできた。

 


参考
アイヌwikipedia

 

例えば下記の写真は私が撮った『オシンコシンの滝』だが、その名前の由来はアイヌ語で「川下にエゾマツが群生するところ」を意味する「オ・シュンク・ウシ」から転じた。ちなみに滝がかかる川「チャラッセナイ」の由来は、同じくアイヌ語で「チャラチャラ流れ下る川」からである。

 

[世界遺産『知床』 オシンコシンの滝 筆者撮影]

 

また、下記の写真は『プユニ岬』から見えるウトロ町の景色だが、プユニとはアイヌ語で『穴のある場所』のことである。ちなみに、『ウトロ』の語源はアイヌ語の「ウトゥルチクシ (Uturu-ci-kus-i) 」であり、「その間を-我々が-通る-所」という意味である。

 

[世界遺産『知床』 プユニ岬 筆者撮影]

 

このようにして知床にはアイヌ民族の面影が今の残っている。彼らは現在『北方領土問題』として問題になっている

 

  1. 歯舞群島
  2. 色丹島
  3. 国後島
  4. 択捉島

 

といった地域でも暮らしていて、この独特な地域において、独自の文化を作り上げていた。

 


参考
アイヌwikipedia

 

松前氏はエリア的に、このアイヌ等の民族と交易をし、まとめていたが、そのうち越権的になり、アイヌに不当な条件を負わせるようになる。そして1669年には、首長シャクシャイン率いるアイヌ勢力が松前藩の収奪に対して蜂起し、反乱を起こした。だが、結局シャクシャインは暗殺され、アイヌは松前藩に従うしかなくなった。

 

[アイヌ民族]

源尊敦があの『舜天』ってどういうこと?かつて沖縄に存在した『琉球王国』に眠る数々の伝説と盛衰

 

琉球王国については上記の記事に書いたが、ここでも独特の文化が作られていた。家康の時代に島津氏を通して琉球と交渉していたが、幕藩体制に取り込まれることを警戒し、関係が悪化。1609年には島津氏が家康の許可によって首里城を攻略し、薩摩藩がこれを支配するようになった。

 

ただ、琉球王国自体はまだ存在していた。その方がここで行われていた貿易等がスムーズにいくので、まだこの時点では北海道も沖縄も存在していない。どちらも明治時代から現在の名称となったのである。

 

蝦夷地が北海道に代わった年 1869年
琉球王国が沖縄になった年 1879年

 

琉球王国は、江戸に出向かなければならない義務(慶賀使、謝恩使)を負い、財政難に悩まされたので、清と長江関係を築いて、黒糖などを日本に売却し、そこで得た銀や昆布を清に輸出し、

 

  1. 日本

 

と交易を繰り返しながら、明治時代までつなぎとめていた。

 

[中国への進貢船]

しかし下記の記事を見て分かるように、

 

  • 蝦夷地
  • 琉球王国
  • ハワイ王国
  • インカ帝国
  • アステカ王国

 

といった小さな島国は、独特の文化を築いた小規模な文明は、歴史的に見て、必ずそれ以上の大きな勢力に潰され、支配下におさめられている。フィリピンや東南アジアの島国もそうだが、これを人間の視点ではなく『エネルギー』という規模の視点で俯瞰してみると、エネルギー同士の衝突においては、必ず大きなエネルギーを持った方が勝利するのが物理的な相場なのだ。

 

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もちろん、知恵を使って小規模エネルギーが勝利する事例もあるが、それは私的には、『そっちの方がエネルギーが大きかった』と捉える。下記の記事にある三国志時代の諸葛亮孔明周瑜、そして二代将軍秀忠を抑え込み、家康を自害寸前まで追い込んだ真田幸村は、エネルギーの塊のように見える。

 

あの『赤壁の戦い(レッドクリフ)』があった『三国志』の本当の重要人物は誰?

豊臣秀頼が家康を危惧させ、徳川秀忠が四天王に心中を覚悟させる。だが、真田幸村はその秀忠を抑え、家康を追い詰めた!

 

エネルギーというのは単純に人の数ではなく、

 

  • 武器の数や種類
  • 人の主体性や知恵

 

も含めるので、穏やかな気候で暮らす南国の人々や、長い間ガラパゴス化して進化が遅れた民族は、結果的にエネルギーの拡大化には成功しない場合が多い。もちろん、独自の文明が発達し、それ自体の評価は高い。

 

『宇宙について知っておくべき100のこと: インフォグラフィックスで学ぶ楽しいサイエンス』にはこうある。

マヤ人は、金星を頼りに戦いの計画を立てた。1000年以上前に中央アメリカに住んでいた古代マヤ人は、天文学の達人だった。彼らは、太陽や月、恒星や惑星の周期的な運動を、ほぼ99.9%以上の制度でよ良くすることができたんだ。

 

マヤ人は、地球の365日の周期のはじまりと、金星の584日周期のはじまりとが、8年ごとに一致することを発見し、その時期が敵対する町を攻撃するのに適していたと考えた。このように、独自の文明を築き上げて『専門家』になり、そこで独自の価値を生み出すことは事実だが、例えばそうした文化も『違う大きなエネルギー』によって簡単に壊され、消滅してしまうことを考えると、私は単純にこの『エネルギーの動き』に注目したくなるのである。

 

[バーミヤン渓谷の石仏と石窟(1976年)]


参考
バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群Wikipedia

[破壊後の石仏]

 

MEMO

世界遺産、『バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群』にある『バーミヤン渓谷の石仏と石窟』は、2001年、タリバンによって破壊されてしまった。

アフガニスタンはなぜ常に戦場なの?背後にある『米ソ対立』と『イスラム過激派』の存在

 

 

さて、こうして三代将軍家光の時代は終わろうとしていた。1650年、体調を崩した家光は、世継ぎの家綱に諸儀礼を代行させ、保科正之にまだ幼かったこの家綱を託して、この世を去ったのであった。そして遺骸は寛永寺に移され、その後、彼が敬愛した祖父、家康と同じ日光に葬られた。

 

[日光東照宮 徳川家光の墓に繋がる門 筆者撮影]

[日光東照宮 徳川家光の墓 筆者撮影]

 

この保科正之という人物は、実は二代将軍秀忠の四男だった。正式な側室を持たなかった秀忠だったが、奥女中に産ませた子がいて、それがこの男だったのだ。彼の存在を家光が知ったのは正之が21歳の頃だったという。

 

家光は、春日局に助けられるまで、跡目争いのことで自害寸前まで追い詰められていた時期がある。そういうこともあって、正之の境遇に同情し、彼をとても優遇したという。そして異母弟である正之も家光の配慮に感激し、忠誠心を誓った。

 

この関係は偽物ではなかった。家光は、自分の墓に『肥後(正之)よ、宗家をたのみおく』と遺言し、まだ幼かった四代将軍の家綱を頼んだ。死して尚正之を信頼した家光に義理を通し、その後は将軍家に忠誠を誓って20年もの間、国許(くにもと)の会津へ帰らなかったという。

 

[保科正之像(狩野探幽筆 土津神社蔵 福島県立博物館寄託)]

 

この保科正之が次の家光の『文治政治』のきっかけとなったと言っていい。家康、秀忠、家光は『武断政治』で、半ば力づくで江戸幕府と徳川政権の権威を証明してきて、確かにその基礎・土台を作り上げた。だが、そこからの方向は文治的、つまり道徳を重んじ、法令制度で統治する制度へと切り替えていった。

 

武断政治では、幕府に逆らう大名、あるいは武家諸法度の法令に違反する大名は親藩、譜代大名、外様大名の区別なく容赦なく改易、減封の処置を行った為、失業した浪人が発生し、治安が悪化し、戦乱を待望する動きがみられた。それによって事実、次に説明するように反乱が起きてしまったのだ。

 

とにかく、この保科正之という男は義理堅い人間だった。『明暦の大火』の際には16万両もの救援金を民衆の為に使い、玉川上水を開削して水を供給するなどして民衆にも貢献、また、養父の保科に対しての恩も忘れず、生涯『保科』と名乗り、家紋も徳川家のシンボル『葵』を使用せず、保科の紋を使い続けた。

 

作家、寺山修司は言った。

 

家光は自殺未遂をするまで精神的に追い込まれた時期があった。そして正之自体も、自身の人生が波乱に満ちた異例な人生で、理解者などいないと思っていた。しかし、家光は正之のような境遇にある人間の気持ちがよくわかり、正之もその同情が当たり前ではないと理解していた。

 

こう考えると、かつて体験した不遇の状況は、次の自分の子供の人生の繁栄を支えるために、欠かせなかった出来事。ピンチはチャンス。この言葉の意味は、こういうストーリーから垣間見えるこの世の真理なのである。

 

『ピンチ?逆境?絶体絶命?いや違う。『チャンス』だ。』

 

 

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