『赤穂浪士討ち入り事件』
上記の記事の続きだ。さて冒頭の記事にはこう書いた。
武断政治では、幕府に逆らう大名、あるいは武家諸法度の法令に違反する大名は親藩、譜代大名、外様大名の区別なく容赦なく改易、減封の処置を行った為、失業した浪人が発生し、治安が悪化し、戦乱を待望する動きがみられた。それによって事実、次に説明するように反乱が起きてしまったのだ。
それについて紐解いていこう。ここで『浪人』という新たなキーワードが出てくるようになる。下記の記事で見てきたように、『忍者、侍、武士』といった日本伝統の存在は、このような時期に登場した。
忍者 | 600年頃 |
武士、侍 | 900年頃 |
あれから700年、その二つほどではないが、それに匹敵する『浪人』がここに登場するのである。
忍者 | 600年頃 |
武士、侍 | 900年頃 |
浪人 | 1600年代 |
この浪人とは、主君を持たない武士であり、広い意味では『フラフラしている存在』。ここから『浪人生』という言葉に波及していった。浪人生とは、受かるはずの学校に受からず、もう一度同じ場所をさまようことでもあり、この『行く当てがなくなってフラフラした、かつてやる気のあった人々』の意味である浪人と、近い意味があった。
もちろん浪人も浪人生も、また主君を見つけ、あるいは目的を見つけて歩き出せば浪人ではなくなる。しかし、とにかくこういう中途半端にふらついた状態にある人間を浪人と言い、『失業者』の意味合いもあった彼らを幕府たちは危険視したのである。中には盗賊になる者までいて、大きな社会不安を生み出していたのだ。そこにいるのは、明らかに武士とは違う様相の武装集団である。
そんな時、由井正雪(ゆいしょうせつ)の乱(慶安の変)がおきる。由井正雪は丸橋忠弥等と共謀し、家綱を奪取し、幕政批判と浪人救済を掲げる反乱を企てたのである。つまり、家光が死に、四代将軍家綱がまだ幼いうちに、この隙を突いて反乱し、こうした格差・圧迫的な状況を打破しようとしたのだ。
由井は自害することになるが、これに賛同した者は2000人を超えていて、見てみぬふりをすることができない問題となった。このような反乱と、浪人という危険因子を生み出してしまったことから、幕府は四代将軍家綱の時代から、『武断政治→文治政治』へと切り替えるのである。それは、冒頭の記事にも書いた保科正之の存在も大きかった。
こうした切り替えで何が起こるかというと、やはり戦国時代からの余韻が薄れるというメリットがあった。力づくで権利を勝ち取った戦国時代の影響が大きく、例えば将軍や大名が死んだら家臣も後を追って切腹する『殉死』という風潮があったが、こういったことを禁止し、あるいは家康時代から行っていた『押さえつけの政治』を緩和することで、全体的に『力づく』の気配が薄れていった。
つまり、かつて戦国時代が巻き起こってしまったような禍々しい気配が薄らぎ、次第に学問の発達など、そうした方向に目を向けるようになっていった。
かつて、『武断派』福島正則、加藤清正と、『文官派』石田三成らが対立し、そこに徳川家康が介入して『関ヶ原の戦い』が勃発し、武断派と組んだ家康が勝ったことで、その後の権力者の考え方は力づくの武断派だったが、ここでかつての石田三成らのような人材が重宝される時代になったということだ。
もちろん、徳川三代将軍は、家康が土地を開拓して土台を固め、秀忠が基礎工事をしてその土地を盤石なものにし、家光はその基礎工事が済んだ土地の上に、確固たる土台を作り上げた。彼らの『剛腕工事』があったからこその徳川政権だということを忘れてはならない。その土台の中で、保科正之や四代将軍家綱らが時代や情勢の変化を敏感に察知してシフトチェンジし、破綻することを予防したのである。
こうした文治政治を行ったのは、
といった人物たちで、保科の話は書いたが、例えばこの徳川光圀という人間は、あの『水戸黄門』のモデルとなった人物である。彼が名君として誉れ高かったため、あのような正義の人という人物像が描かれた。あの話もよく見ればわかるが、決して最初から助さん格さんらが力づくで物事を推進しようとするのではない。必ず柔和的に対応し、もうどうしようもなくなったところで実力を発揮して世を治めるというストーリーなのだ。
徳川光圀は水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。徳川とつくから将軍についた者だと勘違いするが、彼は将軍になったことはなく、時代的には三代将軍家光と、四代将軍家綱の時代で活躍した人間である。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。
[徳川光圀]
江戸時代に日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成された政治思想の学問。儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させたもの。その「愛民」「敬天愛人」といった思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。
冒頭の記事に『明暦の大火』の際に16万両もの救援金を民衆の為に使い、玉川上水を開削して水を供給するなどして民衆に貢献した保科正之の話を書いたが、この大事件があったのは、家綱の時代だ。(1657年3月2日 – 4日)火の状況から振袖火事(ふりそでかじ)、火元の地名から丸山火事(まるやまかじ)などとも呼んだ。寺が供養の為に燃やした振袖が出火の原因となったという説から、こう言われているという。これは江戸時代最大の火災で、江戸城の天守閣はこれで焼失し、現在においても再建されないままである。
そうして四代将軍家綱(在任:1651年 – 1680年)の時代は終わり、五代将軍綱吉(在任:1680年 – 1709年)の時代に突入する。ここで、前述した『浪人』の問題が、日本中に衝撃を与えることになるのだ。
[徳川綱吉像(徳川美術館蔵)]
綱吉は、文治政治を更に推進し、武道よりも主君や父祖に対する忠孝や礼儀を第一にするよう主張した。今までの武家諸法度は、『武芸をしっかり磨きなさい』とあったのだが、これが『忠義を尽くし、礼儀正しくしなさい』と変更されたのである。綱吉を支えたのは老中の堀田正敏で、『天和の治(てんなのち)』と呼ばれる健全な政治をしたのだが、彼は暗殺される。それによって綱吉は老中とも距離を置き、側近中の側近である御放任・柳沢吉和(よしかず)を通して『御用人政治』を行った。
この『父祖を大事にする』という考え方は、先ほどの孔子の考え方を見ればよく分かるが、儒教の影響だった。孔子は3歳で父親を亡くし、24歳で母親を亡くしている。儒教が両親や祖先を重んじ、家族愛を優先することを強く主張している理由には、孔子の親に対する深い思いも影響している、という見方が強い。先ほど徳川光圀が『彰考館』を作ったと書いたが、綱吉も『湯島聖堂』を作って、そこを学問所として儒学の指導を行った。
また、『生類憐みの令』を出したのも綱吉だ。保護する対象は捨て子や病人、そして動物である犬、猫、鳥、魚類、貝類、昆虫類などにまで及んだ。こういう考え方は普通、仏教の影響と考えることが多い。事実、7世紀後半から8世紀にかけての律令体制下では、動物の肉食や殺生が制限もしくは禁止を目的とした法令が散見される。これらは殺生を禁じた仏教の影響下にあるとみられている。
また江戸幕府においても慶長17年の農民取締法令において、牛を殺すことを禁じており、また各藩でも殺生や肉食(シカ・ウシ・イノシシ・イヌなど)を禁じる法令が出されている。また津藩では、寛文6年(1666年)にイヌを殺すことを禁じた法令を出している。
日本と同じく大乗仏教の影響が強かった朝鮮半島においても、高麗時代まで同様の法令が発布されている。
[世界遺産『古都奈良の文化財』奈良公園の鹿 筆者撮影]
だが、綱吉は仏教ではなく儒教的な観点からこれを考え出したようだ。
綱吉はそう言って、生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている。儒教を尊んだ綱吉は将軍襲位直後から、仁政を理由として鷹狩に関する儀礼を大幅に縮小し、自らも鷹狩を行わないことを決めている。
孔子が統治の基本理念においたのは『仁』である。仁は最高の『徳』であり、徳を積むことこそが仁に到達する道筋であると説いた。徳を積むためにまず成すべきは『学』にあると孔子は示している。孔子は、こうした学びの先にあるものが『知』であるとした。学ぶことによって正しい道を選ぶ判断の出来る知を獲得するのだと考えたのである。
つまり、武断政治から文治政治に切り替え、戦乱を揉める禍々しい気配を緩和し、学問を推進して平和な社会を築いていく中で、儒教の考え方に賛同したわけだ。そして、学問を学んで『知』と『徳』を得て、最終的には『仁』の心を得るようになれば、どうして社会が平和にならないだろうか、という考えがあったのだろう。
生類憐みの令自体は『行き過ぎた法令』として『悪法』だと揶揄されることもあったが、結果的には保科正之から始まったこうした様々な方向での文治政治は、かつてこの国に存在した戦乱の気配を薄めることに貢献したのである。
『室町・戦国時代』の起因は六代将軍『足方義教』。彼に対する反乱の、
は、下にいる者のリヴァイアサン性(猛獣性)があまりにも侮辱されたことで起きた、リヴァイアサンの暴走だった。そして『応仁の乱(1467年)』を通して全国の日本人のリヴァイアサン性も眠りから覚め始め、戦国時代へと繋がっていったのだ。
戦国時代とは、国家の秩序を維持する能力を失った幕府の正体が露見した『応仁の乱』で、実力で領地を獲得する戦国大名が活躍する時代。それは、上の階層で甘んじる猛者たちが目を離した隙に鼓舞され肥大化した、人間に本来眠っているはずの一大エネルギー(猛獣)が巻き起こした時代だった。
『フランス革命』然り、世界各地の歴史を見ても、人々のリヴァイアサン性(猛獣性)を爆発させないためには、一にも二にも『賢明な政治』が必要。そしてそれはどちらかというならば、武断政治よりは文治政治がそれに該当すると言えるのである。
さて、保科正之はこの『明暦の大火』の際に16万両もの救援金を民衆の為に使ったが、この時、さすがに徳川幕府も財政難に陥った。幕府は金山や銀山を所有していたが、それはもちろん永久ではない。いずれ資源は尽きるものだ。現在においても日本や世界各地の金銀はほぼ取り尽くされたと言われているが、日本においてはちょうどこの頃、それが尽き始めていたのである。
そこで、萩原茂秀という人物が、
と提案。それまでの小判をつぶして銀を混ぜ、水増しして小判を作って小判の量を増やそうとしたのだ。今まで、小判には金が84%含まれていたが、その『元禄小判』は57%に下がった。こうして金と銀の含有バランスが崩れた『純度の低い小判』ができ、それによってその状況を打破しようと考えた。
[元禄小判]
しかし、それは結果的にインフレを起こす原因となった。小判の質が悪化し、小判の量が急増したからだ。インフレと言えばわかりやすい例が、1923年のドイツにあった。戦争に負けたドイツでは、『ルール占領』が発生。フランスおよびベルギーが、ドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出する経済の心臓部だったドイツのルール地方に進駐、占領したのだ。
[エッセン市内を行進するフランス陸軍騎兵(1923年)]
このルール占領が原因でドイツ政府が、
として、大量の紙幣を印刷し、極度のインフレを起こしてしまった。このインフレで、戦後10年間で物価が『1.2兆倍』になるというとんでもない事態へと発展してしまったのである。よく、
と聞く子供がいるが、そうするとインフレが起き、経済が破綻する可能性があるのである。社会にお金が流通し、それが経済を支配している以上、この調整は非常に綿密に行わなければならないのだ。あまりにも広範囲にまで蔓延しているから、どこまでの問題に発展するか予測できないのである。
下記の記事で、
江戸幕府の基盤となったのは『百姓たちが納める年貢米』だったので、幕府としては本百姓が多くなってほしいわけだ。
と書いた。このように、当時の江戸時代は、
という2つの大きな経済の柱が存在していた。だから『関ヶ原の戦い』の後にも以下のように『どれだけ自分の領地でお米がとれるか』ということを表す『石高』の考え方が存在していたわけだ。
人物 | 戦前の領地 | 戦後の領地 |
徳川家康 | 256万石 | 450万石 |
前田利長 | 81万石 | 120万石 |
黒田長政 | 12万石 | 52万石 |
加藤清正 | 24万石 | 52万石 |
福島正則 | 24万石 | 73.8万石 |
上杉景勝 | 120万石 | 30万石 |
毛利輝元 | 101万石 | 29.8万石 |
宇喜多秀家 | 57万石 | 没収 |
この『一定量獲れる米』をお金に換え、米とは交換できないものを交換するわけだ。だから、お金の価値が変わったり、物価が上がると、その『一定量獲れる米』で今まで手に入れられたお金では買えないものが出てくる。
アメリカの作家、ビアスはこう言ったが、
金の役割とは、
であるからして、事実、その通りのことをビアスは言ったわけだが、しかし、それを手放すときに相手が受ける価値は、その都度代わってしまうものなのである。
獲れる米の量が増えれば別だが、土地にも限りがある。この時、鉱山の資源枯渇問題もそうだが、色々と『物事には限界がある』ということを感じ始めた時期だと言えるだろう。
さて、五代将軍綱吉(在任:1680年 – 1709年)の時代が終わろうとしていた。ここでいよいよ『浪人』がなぜ忍者、侍と並んで注目されるかということがわかる一大事件が起きる。時は1701年、場所は江戸城。赤穂(あこう)藩主、浅野長矩(あさのながのり)が、指南役の吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)に、脇差でもって斬りつけたのである。
[浅野長矩]
この理由は未だに正確なところがわかっていない。考えられる理由としては、
というものがあるという。しかしとにかくこの問題に綱吉は激怒し、浅野長矩の切腹と、浅野家の御家断絶が決定。長矩は1701年に、35歳の年齢で生涯を終えることになった。しかし、喧嘩両成敗の法がありながら、浅野は死に、相手の吉良は賄賂か何かでうまくかいくぐったことを知った浅野の旧臣、つまり彼の部下だった者たちは、吉良邸に討ち入り、吉良を殺害した。
これが『赤穂浪士討ち入り事件』である。赤穂藩の旧臣、つまり『主君を失った浪人』の47名の武士が、主君の敵討ちをしたのである。
[吉良邸討ち入り。二代目山崎年信画、1886年]
実は、この事件は忠義にかなった仇討ちか、そうじゃないかというところで幕府も揺れたという。結局彼らは切腹することになるが、この話は『忠臣蔵』として美化され、今では世界中にこの話のファンがいるくらいである。例えばハリウッドでも『47RONIN』として、映画化されている。
wikipediaには『敵討ち』という項目でこう記されている。
『日本書紀』巻十四雄略紀には、456年(安康天皇3年)に起きた「眉輪王の変」の記事があり、これが史料に残る最古の敵討事件とされる。眉輪王の義理の父にあたる安康天皇はかつて眉輪王の父である大草香皇子を殺し、母である中磯皇女を自らの妃とした。安康天皇はある日ふとその事を漏らし、それを聞いた眉輪王は安康天皇が熟睡しているところを刺し殺した。事件後、その動機を追及された眉輪王は「臣元不求天位、唯報父仇而已」(私は皇位を狙ったのではない、ただ父の仇に報いただけだ)と答えている。
その後仇討ちは武士階級の台頭以来広く見られるようになるが、江戸幕府によって法制化されるに至ってその形式が完成された。範囲は父母や兄等尊属の親族が殺害された場合に限られ、卑属(妻子や弟・妹を含む)に対するものは基本的に認められない。又中世の血族意識から起こった風俗であるので、主君のように血縁関係のない者について行われることは少なかった。武士身分の場合は主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取る。無許可の敵討の例もあったが、現地の役人が調査し、敵討であると認められなければ殺人として罰せられた。また、敵討をした相手に対して復讐をする重敵討は禁止されていた。
また、 引用元を失念したが、とある文献にはこうあった。
今からおよそ350年前、 明暦元年(1655年)に、幕府が公布した『江戸市中法度』によれば、 不倫は男女同罪とされ、夫は、 密通した間男をその場で殺してもよいと定められていた。 じっさい、妻を寝取られた武士が現場を押さえた場合は、 即座にその不倫相手を斬り殺すことも許されていたのだ。 さらに、寛保2年(1742年)の『公家方御定書』でも、 不倫した妻と相手の間男は死罪とされた。男は裸馬に乗せられて市中を引き回しのうえ、 斬首した首を刑場で三日間さらす獄門。 女は斬首の刑に処されることになった。 当時の川柳にも「枯れ木の枝と間男は登りかけたら命がけ」と詠まれている。
この『江戸市中法度』も『公家方御定書』も、ほとんど同時代のことだ。そして、『敵討ちじゃなければ殺人として認められる』という風潮。
新渡戸稲造の著書、『武士道』は、実にそうそうたる人物と照らし合わせ、その道について追及していて、奥深い。キリスト、アリストテレス、ソクラテス、プラトン、孔子、孟子、ニーチェ、エマーソン、デカルト、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉、枚挙に暇がない。本にはこうある。
『武士道においては、名誉の問題とともにある死は、多くの複雑な問題解決の鍵として受け入れられた。大志を抱くサムライにとっては、畳の上で死ぬことはむしろふがいない死であり、望むべき最後とは思われなかった。』
武士道が掲げる”7つの神髄”
著書にはこのようなことが書いてあり、『武士道』という道がどういう道であったか、一目瞭然となっている。上に挙げた『7つの神髄』を考えただけで、『武士道』という精神が当たり前に蔓延していた時代の人間が、どれだけ高潔な精神を追求していたかがよくわかる。
『忠義』─人は何のために死ねるか。これを考えてもわかるように、この『忠臣蔵』とは、忠義に厚い家臣たちが、主君の為に命を懸けて仇討ちした、武士道精神から行われた事件なのだ。いや、真相は分からないが、多くの人はそう理解して、この話に心を奪われるのである。そして、『浪人』という存在を世界規模のものに押し上げたのも、この事件だったと言えるだろう。
といった人物も浪人、あるいはその時代を経験した人物である。
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