『寛永・元禄文化』
上記の記事の続きだ。さて、そのようにして武断政治→文治政治にシフトチェンジすることを余儀なくされ、あるいは時代的にもそうするべきだと判断し、保科正之、四代将軍家綱、五代将軍綱吉はその基礎を築いた。そして次に将軍になったのは綱吉の甥だ。子供がいなかったので、甲府の藩主だった徳川家宣(在職:1709年 – 1712年)が六代将軍となった。
[徳川家宣像(徳川記念財団蔵)]
この時、間部詮房(まなべあきふさ)と朱子学者の新井白石(あらいはくせき)が幕府の威信強化と支配秩序の要となり、特に新井による政治を『正徳の治』といった。
を行い、世に貢献。彼は綱吉時代の大老、堀田正敏に仕えていて、その時から有能だった。冒頭の記事にも書いたように、『天和の治(てんなのち)』と呼ばれる健全な政治をした堀田だったが、暗殺される。すると新井も浪人となってしまい、その間に儒学者木下順庵(じゅあん)と門下生となり、儒学者としての実力をつけていたのだ。
五代将軍綱吉は、『生類憐みの令』だけは残すように強く言っていたのだが、新井は綱吉の葬式も済んでいないのにこれを撤廃。当時の人からすればよほどの『悪法』だと考えられていたのだろう。この新貨幣の発行では高純度の『正徳金銀』を発行し、冒頭に書いた、金の含有率が57%に下がった『元禄小判』とは違い、江戸時代唯一の良貨復古政策といわれた。
海舶五市新例では長崎貿易を制限。それまでは戦国時代から引きずっていた『力づく』の気配を武断政治という方向で見せる猛者がいたが、新井は文治政治になってから出てきた『剛腕』という意味でも猛者で、周囲からは『鬼』と恐れられ、自分の政策を徹底したという。
[新井白石]
朱子学というのは南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系で、結局は『儒教』だ。下記の記事に書いたように、ヤマト政権は5世紀後半から6世紀頃にかけて勢力を伸ばした可能性が高いと言われているが、その時に馬術を学び、それだけではなく、朝鮮半島からの『渡来人』によって、大陸の技術や文化も取り入れた。
儒教というのは仏教よりも前にこの日本に伝来しているが、今までは儒教が全面的に前に出て活躍するという話は持ち上がらなかった。
下記の記事に書いたように、仏教や神道ならあったが、儒教がフィーチャーされ、重用され始めたのはこの江戸時代の『文治政治』になってからだ。
冒頭の記事にも書いたが、『父祖を大事にする』という考え方は、先ほどの孔子の考え方を見ればよく分かるが、儒教の影響だった。孔子は3歳で父親を亡くし、24歳で母親を亡くしている。儒教が両親や祖先を重んじ、家族愛を優先することを強く主張している理由には、孔子の親に対する深い思いも影響している、という見方が強い。
新井は朱子学者、つまり同時に儒学者でもあったわけだから、この流れを汲み、『将軍の権威に従うべきだ』という上下関係の徹底を主張し、それによる秩序を重んじた。儀式を重んじ、服装などの決まりを作ってより厳かな気配が漂うように演出したのだ。逆に言うと、これだけ新井が厳しく動き回ったということは、将軍その他の権力者が頼りなかったからだとも考えられる。普通、父親が厳しい家庭では母が優しくなり、父親が何も言わない過程では母が口うるさくなるものだ。
しかし六代将軍家宣は冒頭にあったように(在職:1709年 – 1712年)で、4年も経たないうちに亡くなってしまった。次の家継はわずか3歳。違う理由でまだまだこの新井白石が陣頭指揮を執る時代が続いた。そして実は先ほどの新貨幣の発行等は、この家継の時代にやったことだった。
時代が文治政治になったことによる影響は、文化にも大きな影響を与えた。前述したように儒学や朱子学が、あるいは陽明学といった学問が盛んになったのもその理由の一つだ。この江戸時代初期は寛永文化。
[日光東照宮 筆者撮影]
等、大名主導で豪壮華麗な作品が生み出されたため、桃山文化の最終期にも位置付けられる。豊臣秀吉がいた安土桃山時代にあった『桃山文化』は、
を背景とした、『華麗で壮大な様式』である。かつて、運慶・快慶の『金剛力士像』が作られた鎌倉時代にあったのは、『素朴で豪壮な美しさ』だったが、その背景にあったのは中国の『宋』から移入した『大仏様(だいぶつよう)』と呼ばれる技術と、当時台頭していた武士たちの生きざまが、そこに影響を及ぼしていた。
この桃山文化は、なんといっても『織田・豊臣』という圧倒的権威の象徴であるべきとされ、姫路城や松本城のような華麗な天守が築かれ、内部には障壁画も盛んに描かれ金箔地に青や緑の絵の具を厚く彩色して力強さを出した『濃絵(だみえ)』の技法が発達。東山文化で芽生えた狩野派は、ここで最盛期を迎える。
そしてこの時代、寛永文化があり、そのすぐ後に幕藩体制が安定し、町人中心の元禄文化が生まれた。
等が活躍し、
等が行われ、にぎわった。井原西鶴は俳諧師だったが、43歳の時に2万3500句独吟という記録を打ち立てたあと、俳諧の世界と決別し、作家となる。『好色一代男』を書いたのは41歳の時で、こうした小説も人気だった。『浮世草子(うきよぞうし)』というジャンルを確立し、色とよく、金銭に支配される人間の性を鋭く観察し、好色者の話と同時に人々に多く受け入れられた。
晩年になるとまた俳諧に戻るが、人生を省みるような作風に転じていて、それは多くの人には受け入れられるものではなかった。老いてくると、人は、特にクリエーターはその作品に自らが感じるその感覚を取り入れるようになるのだろうか。例えば現代で考えても北野武の映画を観ているとそれを感じることがある。
彼が老いてから作った『龍三と七人の子分たち』は、間違いなく自分の年齢のことが頭にあるから作られた作品だった。私はファンだから一応観るわけだが、そこから感じ取れたのは時代への迎合ではなく、『ジジイの意地』。キャッチコピーは
このような作品が万人に受け入れられるということはないはずなのだが、しかし、ジジイたちには受け入れられる。高齢にならなければわからない境地に入ったとも言えるが、それは逆に、時代の中心にいる若者との乖離を意味し、それが井原西鶴の晩年の評価に関係しているように見える。
18歳で俳諧に出会った松尾芭蕉は、40歳になる手前で大火事を体験し、そこからは『一所不在』の志を得て、全国に旅に出ることを決意。46歳の時、『おくの細道』への旅に出て、ここで芭蕉は『不易流行』の境地を得た。不易流行とは、変えるべきところは変え、変えるべきではないところは変えないということ。
かつて江戸自体の名刀工、虎徹は、命を懸けて作り上げてきた刀鍛冶という仕事に対し、時代の転換期に直面したとき、大きく舵を取ることを決意した。頑固一徹な職人の匠が、柔軟な対応をして見せた。ここにあったのが不易流行だ。
先ほどの井原西鶴の話にも通じるところがあるが、時代というものは流れていくものであり、それに合わせる柔軟性がなければ淘汰される。高齢になると、『それでもいい』と主張する頑固な人間が見え始めるが、それはそれでいいし、しかし、例えば髪形を時代に合わせて変えても自分の本質は変わらないわけだ。
つまり、名監督小津安二郎が言ったように、
ということなのである。不易流行を意識して生きればいいのだ。それが頑固と『頑迷』の違いを理解する人間の立ち居振る舞いである。
[世界遺産『平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群』中尊寺 筆者撮影]
実は、芭蕉には『忍者』の疑いがかけられている。たしかに彼の家系は伊賀の土豪であり、父の出生がハッキリわかっていない。また、23歳からの6年間に何をしていたのかの記録がなく、奥の細道でもこの紀行文を書くために半年の間、多額の費用をかけて旅をしている。この費用の捻出は一体どこから行ったのか、巨大なバックアップがなければ不可能であるという見解があるのだ。
[中尊寺 松尾芭蕉銅像 筆者撮影]
更に、芭蕉は1日40~50㎞も移動していて、40歳を過ぎた人間がこうしたスケジュールを成し遂げるということは、普通ではないのだ。しかし、これを真っ向から否定する話もあるので、推測の域を出ることはない。
[松尾芭蕉像(葛飾北斎画)]
近松門左衛門は、浄瑠璃の作者だ。処女作は1683年の『世継曽我(よつぎそが)』。その後『出世景清(しゅっせかげきよ)』で浄瑠璃ファンを増やし、上方の歌舞伎俳優坂田藤十郎と出会ってからは、歌舞伎の脚本も手掛けるようになった。彼が作った人間味あふれる奥深いストーリーは、現代人にも通用するほどである。
例えば、先ほどの北野武も、近松門左衛門の『冥途の飛脚』(めいどのひきゃく)という作品をテーマにして『Dolls』という映画を作っている。この映画はとても衝撃的で、私も彼の作品のほとんどを観たが、その中でも心の奥底に深く入り込んで記憶に定着した映画はこれを含めて何本もない。
その坂田藤十郎は、近松門左衛門と出会ってからその地位を不動のものとするが、それを双璧をなすのがあの市川團十郎である。現代を生きる人は『海老蔵』の名前をよく聞くだろうが、彼も現在は團十郎を襲名している。彼は12代目、市川團十郎だ。彼が14歳か、26歳ではじめた『荒事』の歌舞伎は、武士中心の江戸の町によく合い、人気を得た。
当初『段十郎』と名乗っていたが、1693年に『團十郎』と名乗る。彼の最期はなんと舞台の上だ。1704年、市村座に出演中に共演者の生島半六に刺されて死亡。彼の生涯は一貫して『荒事』だった。そう考えると海老蔵も、そうした気風を受け継いでいると言えるのかもしれない。
[初代市川團十郎]
また『関ヶ原の戦い』の翌年から、江戸と地方を繋ぐ『街道』が整備され、現代人が認識する『道路』の原型ができ始めた。
五街道
飛脚や馬などが、各地で作られた特産品や、年貢、書状等を運び、流通した金・銀・銭貨と相まって全国を急速に発展させた。現在においても物流の世界で、長距離トラックが高速道路を走り回る光景が当たり前になっているが、その走りと言える時期がちょうどこの江戸時代前期・中期のあたりだと言えるだろう。そうしたことを考えると、松尾芭蕉が馬と道路を使って移動したのであればその移動距離も説明はできるというものである。
[幕末における東海道の松並木]
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