『化政文化』
『暴れん坊将軍』徳川吉宗は実際には暴れる暇もないほど『米将軍』として微調整を強いられた?
上記の記事の続きだ。さて江戸時代中期・後期のこの時代、江戸町人は、現在『江戸っ子』の代名詞ともいえる『通・粋(いき)』という概念を身に着ける。寺子屋が増加し、庶民の学問・文化水準も上昇。保科正之から始まった『文治政治』の効果が表れ始める一面もあった。
[寺子屋の筆子と女性教師
一寸子花里「文学ばんだいの宝」]
上記までの記事で儒教について触れたが、儒学、洋学、蘭学についても発展することになった。
忍者?侍?我々を忘れてるようだ。我こそは『浪人』!世界が驚嘆した『赤穂浪士討ち入り事件』の主役だ!
上記の記事にも書いたように、徳川光圀が『彰考館』を作り、五代将軍綱吉も『湯島聖堂』を作って、そこを学問所として儒学の指導を行った。その後、
- 会津の日新館
- 水戸の弘道館
- 荻の明倫館
などが建てられ、藩士教育が行われ、さらに同じころ、伊藤仁斎、吉田松陰らが運営する私塾も増えた。更に、蘭学者大槻玄沢、ドイツ人医師シーボルト、福沢諭吉らを輩出した緒方洪庵もこの頃に私塾を開き、蘭学、洋学を学ぶ機会が増えた。
朱子学、仏教、老荘思想を学んだあと、朱子学を否定して独自の学派である『古義学』を提唱した伊藤仁斎(1627年~1705年)は、日常生活のなかからあるべき倫理と人間像を探求して提示した。だが、彼以上に儒教的な方向で影響を与えたのが佐藤一斎(1772~1859年)だ。彼が重んじていたのは伊藤仁斎が嫌ったその朱子学だった。彼の門下生がすごい。
その数は6000人ともいわれているが、錚々たる人物の名がここに挙げられることになる。ちなみに吉田松陰は1830年に生まれ、佐藤一斎が亡くなった1859年に亡くなっている。30歳だった。
[佐藤一斎]
また、伊藤仁斎と同時期に活躍した貝原益軒(えきけん)(1630~1714年)もすごい。儒学者であり、医学、陽明学、朱子学を学ぶが、伊藤仁斎同様朱子学に疑問を覚え、天文・本草学など自然科学に関心を示し、庶民の心身修養書『養生訓』を出版。
という彼の言葉は、中国の王陽明が、
と言ったが、まさにピタリ同じ的を射ている。これを、『知行合一』と言う。
更に、
といった彼の言葉から垣間見えるのは、医学を熟知した人間の知性だ。『病は気から』というよく聞く言葉があるが、これを本気で言っている人間は、相当に医学を勉強した人間である。それは例えば、私がまとめた下記の黄金律でもその片鱗を見ることができるだろう。
更に、この頃、本居宣長(もとおりのりなが)が古事記を再研究し、平田篤胤(あつたね)が儒教・仏教の影響を排除した『復古神道』を提唱し、これによって、日本に『天皇に忠義を尽くし、外国を追い払う尊王攘夷』という考え方が根付くようになった。
[本居宣長]
日本最古の歴史書『古事記』と『日本書紀』、そして日本初の流通貨幣『和同開珎(わどうかいちん)』が発効!
更にそこに、先ほどの徳川光圀の『水戸学』が加わる。最初は儒学を軸にした学派だったはずだが、徐々に『天皇中心に幕藩体制を強化する』という思想になり、こういった思想家たちの解釈と心の動きが、後の幕末の『尊王攘夷論』に影響してくるのである。
尊王攘夷論(幕末のスローガン)
- 天皇>将軍>大名の順に忠義を尽くす
- 日本に近づく異民族は打ち払う
また、そうした堅苦しい学問とは別に、娯楽文化の方も発展があった。江戸時代中期・後期のこの時代にあったのは『化政文化』だ。
- 東海道中膝栗毛
- 南総里見八犬伝
唐の有名な書物も誕生し、『黄表紙』と呼ばれる成人向けの本が出版されるなど、様々な文学作品で賑わった。
- 与謝蕪村(よさぶそん)
- 小林一茶
- 鈴木晴信
- 喜多川歌麿(うたまろ)
- 葛飾北斎
- 歌川広重
- 曲亭馬琴(きょくていばきん)
- 杉田玄白
- 平賀源内
- 東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)
といった文化人が活躍し、化政文化を盛り上げた。
[十返舎一九]
十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が作った『東海道中膝栗毛』は、1802年に発売と同時に大好評を得て、1809年の第8編まで続く人気作となった。それでも続編を望む声は多く、冒頭の記事にも書いたように、この影響で主人公、弥次さん喜多さんの目的地である伊勢神宮を目指す『御蔭参り(おかげまいり)』が流行し全国的に寺社詣や、旅がブームになった。
ダジャレやパロディなどの様々な笑いがふんだんに込められていて、日本中がこの作品を見て腹を抱えて笑ったという。また1938年には、マキノ雅弘という映画監督が『弥次喜多道中記』としてこれをベースにして映画化していて、現在ではその名前で覚えている人も多い。
葛飾北斎に関しては下記の記事にたっぷりと詳細を書いたので、そちらで確認していただくことになるが、少しだけ引用しよう。北斎が描いた『冨嶽三十六景』の『大波』は、当時の人々に、『波がこんな形をしているわけがない』と揶揄、嘲笑された。しかし、現代に実在する『1/5000秒』のハイスピードカメラで波を撮影した写真は、この『大波』に酷似していることが判明した。
これによって北斎は、『天才的観察力の持ち主』だけでなく、もしかしたら『瞬間記憶能力』の持ち主だった可能性があるとも言われた。
北斎は日本よりも海外からの評価が高く、ゴッホ、モネ、ドガ、エミール・ガレ等に大きな影響を与えた。また、2017年2月に行われたアメリカのオークションでは、版画世界最高額の1億円で北斎の絵が落札され、世界三大博物館である『大英博物館』では、『北斎ー大波の彼方へ』特別展が開かれた。
[平賀源内]
平賀源内は、『発明家』としてこの国で有名になった最初の人物だろう。彼以前にもいただろうが、彼が最も有名である。また、彼の死である田村藍水(らんすい)は、日本初の物産会を展開し、有用な動植物や鉱物を展示し、知識を交流するという活動をした。それを受け継いだ源内は、やがて高松藩が注目し、源内は藩の管理下のもと、薬種の探索等の仕事を請け負うことになった。
先ほどあった『蘭学』を発展させた人物の中に、彼とこの後に説明する杉田玄白の存在もあった。だが、自由人だった源内はやがて高松藩に辞職を申し出る。許可はされるるが脱藩後は他藩への仕官は禁止されたため、浪人として生きていくことになってしまった。しかしそれでも源内は、
と言い、自由な道を選択した。もともとクリエーター気質の高い人間とは、そのクリエイティビティをいかんなく発揮するためにも、自由の身であることが至極重要である。例えば、14世紀~16世紀にイタリアを中心に花開いた『ルネサンス芸術』で活躍した芸術家には、『ルネサンスの3巨匠』を含めた偉人たちが大勢活躍した。
ルネサンスの3巨匠
だが、彼ら芸術家たちには『パトロン(出資者、支援者)』のような存在がいた。
芸術家たちのパトロン(出資者、支援者)
- アレキサンデル6世
- コジモ・デ・メディチ
- ユリウス2世
- レオ10世
- ロレンツィオ・デ・メディチ
- ルドヴィーコ・スフォルツァ
- イザベッラ・デステ
- クレメンス7世
こういった存在のおかげで、彼ら芸術家たちは偉大な花を咲かせることができたのである。例えばコジモ・デ・メディチは、父から受け就いた銀行を発展させ、フィレンツェの街に貢献した。また、私財をなげうって芸術家たちを支援し続けた。ユリウス2世は世俗的教皇の一人で、多くの偉大な芸術家たちをバックアップした。
[ラファエロによる肖像画 ユリウス2世]
ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった芸術家たちが『ルネサンス時代』に大活躍できた理由とは
つまり、『自分の作品以外のことを一切考えない状態』を作り上げることが重要で、単純に、そうじゃなければ制作活動はできない。事実、藩士としての定期収入を失った源内は、鉱物資源開発の仕事に精を出すが、毛織物の製造の事業化を失敗。このあたりのことを源内が本当にやりたかったのかを考えると、経済的な理由も絡んでいたと推測できる。厳愛は、設計図を盗んだとして2人の男を殺傷し、小伝馬町の牢屋で獄死した。友人の杉田玄白はその死を悼んだという。
その杉田玄白と言えば、『解体新書』だ。高齢の印象がある玄白は85歳まで生きたが、平賀源内の5歳年下で、彼から影響を受けた人物でもある。当時、多くのオランダ書物があったが、その中に解剖書『ターヘル・アナトミア』があった。解体新書とは、それを4年がかりで翻訳したものだったのである。
[巻の一]
歌川広重は、風景版画の分野であの北斎と肩を並べる実力の持ち主である。1831年の『東都名所』でその地位を不動にし、1834年の『東海道五十三次』では、北斎の『富嶽三十六景』を上回る大ヒットとなった。
曲亭馬琴は作家だ。
- 椿節弓張月(ちんせつゆみはりづき)
- 南総里見八犬伝
を書いたのが彼だ。彼は不遇な一生を送っていた。少年時代は貧乏で、挫折と放浪を繰り返す。妻とは折り合いが悪く別居同然で、長男は医師になったが虚弱体質により先立ってしまった。そのうえ、目も患っていた馬琴は、長男の未亡人・路(みち)を筆記係として、口述筆記させながら前述した大作を描き上げていた。
[曲亭馬琴(『國文学名家肖像集』より)]
この言葉からは、彼が強いられた人生の重荷の部分が垣間見えるのである。例えばリンカーンだ。実は彼の家庭内にも大きな問題があった。長男のロバート以外の3人の子供が、結核や心不全等の不幸によって、成人する前に亡くなってしまったのだ。そして妻のメアリーは、そのために精神疾患に陥った。
だがリンカーンはこう言っている。
彼らの言葉に共通点があるのは、彼らが体験した人生に、共通点があるからだ。
南北が奴隷問題で激突し、アメリカが分裂!リンカーンが『奴隷解放宣言』で『アメリカ連合国』を撃破!
江戸絵画では、鈴木晴信が多色刷りの浮世絵版画(錦絵)を安価で販売して人気を得て、東洲斎写楽の役者絵、喜多川歌麿の美人画なども人気を得た。現在においても、下記のような写楽の絵を見たことがない人も珍しいだろう。
[三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛(寛政6年〈1794年〉5月河原崎座上演の『恋女房染分手綱』より)]
また京都でも、中国南宋の手法を用いる文人画として、旅の山本画家の池大雅(いけのたいが)や与謝蕪村、写生画を確立した円山応挙(まるやまおうきょ)や呉春(ごしゅん)等が活躍した。また、下記の記事に添付した平将門の絵も、この時代に活躍した有名な浮世絵師、歌川国芳(くによし)の作品だ。
[歌川国芳 「相馬の古内裏」]
『武士』の名を轟かせたのは俺だ!死して尚恐れられた『新皇』平将門はなぜ東日本で暴れた?
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