『天保の改革・雄藩の台頭』
上記の記事の続きだ。さて、大塩平八郎が命を賭して起こした騒動によって、幕府は頭を抱えたわけだが、そんな中、12代将軍徳川家慶(いえよし)の時代になる。ここで出てくるのが『水野忠邦(ただくに)』で、彼は『天保の改革』というものを行う。これは、今まであった『享保の改革』、『寛政の改革』と同じように、倹約によって支出を引き締める、『引き締め政策』だった。
同じ方向の政策
享保の改革 | 徳川吉宗 | 8代将軍吉宗時代 |
寛政の改革 | 松平定信 | 11代将軍家斉時代 |
天保の改革 | 水野忠邦 | 12代将軍家慶時代 |
ちなみに、この水野忠~という人物は大勢いるのでまとめておこう。
水野忠成(ただあきら) | 家斉の裏で仕切っていた人物 |
水野忠友(ただとも) | 忠成の養父 |
水野忠邦(ただくに) | 今回登場する家慶時代の老中 |
[水野忠邦]
彼らはすべて血はつながっていない。養父・養子の形上の関係だったり、同族だったりする。しかしどちらにせよ、家斉時代からこの水野氏が将軍の近辺で権力を持っていたということだ。家慶・忠邦の時代は、
唐、内憂外患の危機があり、暇はなかった。
国内にある心配事と外国から受ける心配事。
等の対策を取り、引き締め政策を行った。しかし、株仲間を解散させても物価の上昇を止めることはできず、むしろ上がってしまった。彼らが原因で経済が滞っていたわけではなかったのだ。『人返しの法』では、江戸に入った農民を強制的に故郷に帰し、耕作に従事させるようにした。
上知令とは、江戸や大阪周辺の土地を幕府の直轄領にさせるもの。しかし、そこはすでにその周辺の大名や旗本の領地となっているわけで、彼らはそれを差し出さなければならなかった。その代わり違う土地を得られる話だったが、これに反発。
水野忠邦の『天保の改革』も、もうあまり効力がなかったのである。思えば、織田信長がそのカリスマ性と鬼才ぶりを発揮し、『戦国時代』という力づくでのし上がる時代で圧倒的な才覚を発揮し、
それを豊臣秀吉が受け継ぎ、天下統一を成し遂げた。
更にそれを徳川家康が引き継ぎ、石田三成という頭脳派を羽目ながら徳川時代、江戸幕府を作って、二代将軍秀忠、三代将軍家光と続いて、武断政治によって『力づく』でその地位と権力を誇示・保守してきたわけだ。
そこから、時代に合わせるように四代将軍家綱の時代から、『文治政治』に切り替える。こうした文治政治を行ったのは、
だ。とても賢明で義理堅い保科正之や、『水戸黄門』のモデルにもなった人徳のある徳川光圀といった人物らが、儒教の思想を軸に置いたりしながら思想面でこの国を強化し、戦国時代から続いていた禍々しい気配をやわらげ、この国の気品と知性を引き上げ、あるいは娯楽や芸術といった文化の発展につなげて、国を盛り上げてきた。
しかしその中で、徳川将軍の権威と江戸幕府の権威はもうすっかり失われつつあった。現代の企業において考えてみてもそうだが、スーパー経営者がいる時代の企業価値は高く評価されるが、彼がスーパーマンであればあるほど、彼が引退したときに株価に影響する。そのため、それを見越して『永続的に繁栄する企業』を本気で求めるなら、二代目、三代目は『身内』、つまり『創業者一家』を優遇するのではなく、実力主義で選び、たとえ外国人の方がそれに適しているならその人物につなぐべきだという考え方がある。
しかしこの1800年代の日本においては、まだその考え方を発見することができない。古くは中大兄皇子から続いた『天皇を中心とした集権国家づくり』で皇族が力を持ち、そして彼と一緒に革命を起こした中臣鎌足が『藤原氏』の名をもらって、貴族・藤原氏が躍進。
その後、平氏・源氏といった武家が台頭し、彼らがやがて『幕府』を作る。
日本に存在したこの三つの幕府は、すべて武家が作ったものだ。しかし彼らはすべて、その一族が中心となることを前提として運営していた。源氏が鎌倉幕府において、三代将軍源実頼が死去し、源氏の血筋が窮地に陥り、北条政子を中心として、そこから北条氏が指揮を執ることになるが、続く足利氏、徳川氏は、偶然にも15代将軍まで続き、そこで力尽き、次の時代に移っている。
つまり彼らは常に真理に逆らい、私心に支配されて道を間違え、越権的になり特権の乱用を働いた。つまり、『創業者一家』を優遇することを何よりも念頭に置き、現代で考えられるような経営的な英断はできなかったのだ。そういった越権的な思想、つまり、
という考え方は、間違いなく真理から逸れたものである。神は人の上に人を作らず。『神』の話をするとややこしいが、わかりやすく言うと『真理から逸れると虚無に近づく』のだ。気づけば徳川家も『血筋を守る』ことだけが頭にあるから、実際に政治的な指揮を執るのは徳川ではなく、その周りの人物。正直こうなるともう『創業者一族』は、お飾り以外の何物でもない。彼らは『二世』であり、『十二世』であり、どちらにせよ自分の力でその地位を築いたわけではないので、もうほとんど『創業者とは無関係』に等しいのだ。
そんな人物が一番上に君臨する社会が混沌に陥るのは必然。それは、この世に真理が存在する証拠である。至極必然的に、今まで衰退したすべての創業者一族たちは、破滅の道の王道をひた歩いてきたのである。
そんな中、江戸時代末期にかけて藩ではその『実力者』たちが台頭し始める。
諸侯が治める統治組織。幕府が中央の組織なら、藩は地方を治める有力者。
これも必然的な流れだ。中央でその人物の有能無能に関係なくガチガチに創業者一族の権利が守られ、『上に立つべきではない者』がいつまでもその座にしがみついて執着する場合、それを打破するためには『外』から行う方が易しい。中からもできるが、何しろ外でいくら革命的思想を抱いて生きても目立たない。忍者はいたとしても、この国のすべてを監視することは物理的に不可能であり、中央から離れれば離れるほど、その監視も緩くなる。
あの坂本龍馬が生まれたのは1836年。土佐藩だった彼は、12代将軍家慶の一つ年上だった。そう。この時代、地方にはこの国を立て直そうと決意する人々が次々と現れることになる。そうして実力をつけた藩は『雄藩』と言われ、その代表格は、後のあの西郷隆盛を輩出する薩摩藩だった。その他、
といった雄藩が続出。彼らは独自の考え方で窮地を脱し、状況を打破しながら改善し、最適化して、地域を活性化し、力を蓄えていった。現在で言えば、中小企業の立ち位置にいる彼らは、みるみるうちに実力をつけ、大企業を脅かすほどの力をつけていったわけだ。大企業たる徳川家はまさに『大企業病』に陥り、腐敗し、停滞し、権威を失っていたし、この時日本は、いつでもどこかで冒頭の記事に書いたような大塩平八郎のような革命的な行動が起きてもおかしくはなかったのである。
[龍馬と海援隊士]
その時世界ではこういうことが起こっていた。
1839年、清国政府はアヘンの輸入を禁止し、『林則徐(りんそくじょ)』を広州へ派遣。アヘンの密輸や密売を徹底的に取り締まった。林則徐は皇帝が臨時に全権を与える欽差大臣(きんさだいじん)を務め、地方官を歴任。民衆に慕われる人望のある人物だった。1840年、今回もまさに、8代目皇帝の『道皇帝』から欽差大臣としての特命を受け、アヘンの貿易を厳しく取り締まる。
だが、イギリス人の居住区までも軍隊で取り締まり、イギリス商館立ち入り調査がおこなれると、実力行使に出たことで軋轢が生じる。イギリスがその清王朝の態度に不満を覚え、ついに『アヘン戦争』が勃発してしまうのだ。イギリスは艦隊を出して清を攻撃した。
[イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵]
清とイギリスが『アヘン戦争』を起こし、イギリスが圧勝した。日本からすれば、常に羨望のまなざしにも似た視線を送っていたあの大国である中国が負けたのだ。これは日本にとっても小さな話ではなかった。
かつて秀吉は、『朝鮮出兵』を足掛かりにして、そのまま中国も支配するつもりだった。しかし、その手前の李氏朝鮮に敗北し、『秀吉最大の愚行』と揶揄され、それから日本はキリスト教などへの警戒もあって、全体的に鎖国ムードに陥っていた。ガラパゴス化である。
しかし、その中国を破ったヨーロッパの国が現れたのだ。もはや、日本も時間の問題か、どちらにせよ今まで以上に鎖国モードを引き締める必要がある。そう考えた日本は、『異国船打払令』などをだし、遭難などでやむを得ず寄港する外国船以外には、厳しく対応したのである。オランダ国王は親書を送り、国際状況の変化を説いて開国を勧めたが、幕府はこれを拒否した。
彼らの話は強制的なものではなく配慮があったので、そこに甘えた形でもあっただろう。その後、アメリカのビッドルが浦賀に来航して国交と通商の要求をするが、これも強硬なものではなかったため、幕府はこれを拒否する。これが1846年。
こうした流れの中で、例えば神奈川県横須賀市にある『猿島』は、幕末から第二次世界大戦前にかけて、東京湾の首都防衛拠点となる。幕末の1847年に江戸幕府により国内初の台場が築造され、明治時代に入ると陸軍省・海軍省の所管となり、東京湾要塞の猿島砲台が築造された。
幕末に設置された砲台で、要塞の一種である。
[猿島 筆者撮影]
[猿島 台場跡 筆者撮影]
[猿島から横須賀への景色 筆者撮影]
だがこの7年後、浦賀に再びある船がやってくることになる。『ペリー来航』である。
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこの時代をまとめた人気動画があります。
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