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かつて『お台場』には『台場(砲台・要塞)』があった!『ペリー来航』時に猿島や品川で海防したのだ!

『ペリー来航』

雄藩『いつまでも創業者一族を優遇して特権を乱用してるなよ?』『徳川』と『幕府』崩壊のカウントダウン

 

上記の記事の続きだ。さて、時代はまだ12代将軍家慶。水野忠邦の後に、阿部正弘が指揮を執る江戸幕府だったが、1853年に、神奈川県横須賀市浦賀にペリーの舟が来航した。これは余談だが、みずのただくに、あべまさひろ、このあたりになってようやく現代とそう変わらない名前の付け方になってきているのがわかる。以前であればこれでやけに難しい名前が付けられていた。例えば、

 

  • みずのただのくに
  • あべのまさひろ

 

といった具合に、『の』がどこかに入ったり、『~のすけざえもん』という言葉が入ったりしてややこしかったが、名前の簡易化が見られるようになってきた。下の地図が冒頭の記事に書いた『猿島』の位置である。浦賀も猿島も、ほとんど同じ場所である。

 

 

ペリー率いるアメリカ東インド艦隊、通称『黒船』がは、日部和親条約の締結を求めた。この艦隊の旗艦サスケハナ号は2450トンもあり、日本の100トン程度の舟と比べると、あまりにも規模が違っていた。当時においても世界最大級と言える軍艦の威圧力は大きく、日本は呆然と立ち尽くしてそれを見た。

 

[サスケハナ号]

 

ちなみにペリーは浦賀出現の1か月半ほど前に、琉球王国の那覇沖に停泊し、首里城を訪問していた。王国の謝絶を無視して、武装兵を連れて首里城まで行進し、最後には武装解除を条件に場内に招き入れたが、どちらにせよかなり横柄な態度でこの国に訪問したのは確かなようだ。

 

おそらくは、一度友好的に開国を求めたのにそれを拒否されたので、世界の流れ的にも鎖国が認められた国はなかったため日本も例外ではなく、今度は半ば強制的に行う必要があると考えたのだろう。この時期の開国要求は、最初のものとは違ってかなり強引なやり方だったという。しかし江戸幕府は彼の意向を承諾し、翌年にはアメリカと『日米和親条約』を結ぶ。そして、

 

  • イギリス
  • オランダ
  • ロシア

 

とも同様の条約を結んだ。

 

STEP.1
1853年
浦賀にペリー率いる黒船が来航。日本に開国を求める。
STEP.2
同年
ロシアのプチャーチンが下田に来航。開国を求める。
STEP.3
1854年
『日米和親条約』を結ぶ。下田、函館を開港。イギリス、ロシア、オランダとも条約を結ぶ。
STEP.4
1858年
『日米修好通商条約』を結ぶ。神奈川、長崎、新潟、兵庫を開港。イギリス、フランス、オランダ、ロシアとも調印。

 

[合衆国水師提督口上書(嘉永6年6月8日)
左よりヘンリー・アダムス副使(艦長)、ペリー水師提督、アナン軍使(司令官)]

 

日米修好通商条約というのは簡単に言えば、イギリスが清に求めたような『自由貿易』だ。もちろん、清のように不平等な条約を押し付けられたわけではなく、戦争をして結んだ条約でもないので、条約は友好的に結ばれた。だがもちろんそれは表面的なものであり、実際の主導権(イニシアティブ)や有利性(アドバンテージ)は平等かどうかは違う話となる。

 

また近年では、捕鯨が目的だったという考え方が有力になっているという。捕鯨と言えば日本が叩かれている印象があるが、当時は欧米でも捕鯨が盛んであり、アメリカは捕鯨船の補給基地として、この日本を押さえておく必要があると判断したという。しかしとにかくこうして日本も、とうとう海外諸国の文化と接触するようになっていくのだ。

 

[嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航 ペリーに随行した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ]

世界各国で『開国』や『植民地化』が進む中、日本が取った行動とは!?

 

実は、12代将軍家慶は、在職:1837年 – 1853年だ。このペリー来航の後に死去している。『日米和親条約』が結ばれたときは、もう13代将軍徳川家定(いえさだ)になっている。彼の正室は天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)。彼女の生涯は、2008年の大河ドラマで『篤姫』として、宮崎あおいが主役で放送されている。

 

ちなみに冒頭の記事に書いた猿島の『台場』だが、これを聞いて気になるのは東京都港区にある『お台場』のはずだ。

 

wikipediaを見てみよう。

1853年(嘉永6年)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国要求を迫る。これに脅威を感じた幕府は、江戸の直接防衛のために海防の建議書を提出した伊豆韮山代官の江川英龍に命じて、洋式の海上砲台を建設させた。品川沖に11基ないし12基の台場を一定の間隔で築造する計画であった。工事は急ピッチで進められ、およそ8か月の工期で1854年にペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部は完成し、品川台場(品海砲台)と呼ばれた。お台場という呼び方は、幕府に敬意を払って台場に「御」をつけ、御台場と称したことが由来である 。

 

台場

幕末に設置された砲台で、要塞の一種である。

 

 

そう。あのお台場も、この時に海外を警戒して作られた砲台の跡地だったのである。この江川英龍(ひでたつ)は阿部正弘にも評価され、嘉永6年(1853年)、ペリー来航直後に阿部の命で品川台場(お台場)を築造した。ちなみに江川英龍は世界遺産『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』として、世界遺産に登録されている『韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)』も作った。

 

[静岡県伊豆の国市 韮山反射炉 筆者撮影]

反射炉

金属融解炉の一種。18世紀から19世紀にかけて鉄の精錬に使われた。

 

しかし、阿部のこうした対応を見てもわかるように、何が適正な対応なのかわからないわけだ。

 

阿部正弘

海外か!うーむ、一体どうしたら!とりあえず有事の際の為に砲台を作る必要があるな!

 

阿部は、

 

  1. 朝廷
  2. 諸大名

 

といった幕府以外の権力にも頼り始め、それによって幕府権威の低下と、それ以外の権威の上昇を促進する結果になってしまった。

 

ふむ。これが幕府の対応か。我々の出番が近づいているようだな。

朝廷・諸大名

 

阿部正弘の『安政の改革』

  • 砲台手腕の高い徳川斉昭(なりあきら)、江川英龍といった人物の登用
  • 越前藩主、松平慶永(よしなが)、薩摩藩主、島津斉彬(なりあきら)と『挙国体制』で協調
  • 長崎に海軍伝習所を置いて操船を学ばせ海防力の向上を図る
  • 西洋書物の翻訳、『蕃書調所(ばんしょしらべしょ)』の設置でその技術の習得
  • 伊豆に韮山反射炉をつくり、大砲の製造にあたる

 

実はこの時、日本の人口は約3000万人で、公称石高は3000万石。うち、1000万石は徳川幕府の財源であり、天皇家は宮門家、五摂家、公卿合わせても10万石もなかった。この数字を見れば、徳川幕府がどれだけ権勢をふるっていたかがわかるだろう。しかし、その徳川一強時代も、長く続いてカリスマがいなくなったことにより、文字通り影響力が弱まり、そしてその体制は『殿様商売』に成り下がっていった。

 

阿部正弘は39歳の若さで病に倒れ死亡。そのあとに老中の筆頭になったのは堀田正睦(まさよし)。そのとき、1854年の日米和親条約によって、アメリカのハリスが初代の総領事として下田に着任。下田は日本初の開港地となり、ハリスの任務は日本に通商開始を認めさせることだった。彼もペリー同様強硬な態度を取ったという。やはり、一度目に融和的に交渉し、そして次に強引にいったときにそれで通ったから、

 

日本に対しては強引に行け!

 

という話にでもなったのかもしれない。13代将軍家定に強引に面会して、『日米和親条約』を、更にパワーアップして『通商条約』にしたいと主張。

 

通商

外国と商取引をすること。交易。貿易。

 

そして堀田は、前任の阿部同様、朝廷や諸大名に意見を求める。だが、朝廷にいた孝明天皇は異国嫌いで、『攘夷論』の傾向が強く、反対され、堀田は結局開国反対の勢いに押されてしまい、勢いのある外国と、国内の権力に挟まれ、頭を抱えていた。

 

14代将軍のこともあるし、一体どうすればいいんだ!

堀田正睦

 

攘夷論(じょういろん)

外国人を排撃する考え方。

 

その時、内部にはさらに大きな問題を抱えていた。次の14代将軍を、『一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)』にするか『徳川慶福(よしとみ)』にするかでもめていたのだ。簡単に言うと、

 

  • 実力者:慶喜
  • 創業者:慶福

 

である。冒頭の記事を見れば分かるように、徳川家は『創業者一族』だ。だからその一族の血を何よりも優先して幕府を運営し、政治を行ってきた。慶福はバリバリの創業者一族ではないが、13代将軍家定のいとこであり、血は近い。かつて、8代将軍吉宗も、彼とおなじ紀伊藩主だったため、保守的で権威にしがみついた一派は、この慶福を後継者に考えていた。

 

[徳川家茂像 川村清雄作]

 

だが、実力があるのは慶喜だった。前回の記事で、『企業を永続的に繁栄させるなら外国人であろうが実力者に継がせるべき』という考え方を展開したが、その考え方の中にある『実力者主義』の考え方がこの時にも存在していたのだ。

 

中心人物 掲げる人物
一橋派 松平慶永、島津斉彬 一橋慶喜
南紀派 井伊直弼 徳川慶福

 

開明的な藩主が中心となり、実力者を推して本気で国を再建しようとする動きと、保守的な譜代大名が中心となり、権威にしがみついて創業者一族を死守しようとする動きで板挟みになった堀田は、こうしたあまりにも複雑な問題を処理しきれず、失脚した。

 

親藩 徳川家・松平家
三家 尾張・紀伊・水戸
譜代(ふだい) 関ヶ原以前から徳川勢だった者
外様(とざま) 関ヶ原後に徳川勢になった者

 

そして、この水野忠邦→阿部正弘→堀田正睦の次に政治の中心になったのは、その井伊直弼(いいなおすけ)だった。この人物が良くも悪くも、この国に大きな影響を与えることになる。

 

 

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