『尊王攘夷論の確立』
かつて『お台場』には『台場(砲台・要塞)』があった!『ペリー来航』時に猿島や品川で海防したのだ!
上記の記事の続きだ。水野忠邦→阿部正弘→堀田正睦の次に政治の中心になったのは、井伊直弼(いいなおすけ)だった。
中心人物 | 掲げる人物 | |
一橋派 | 松平慶永、島津斉彬 | 一橋慶喜 |
南紀派 | 井伊直弼 | 徳川慶福 |
彼は前述したように保守派だったのだが、外交的な面においては真逆だった。そして彼は、天皇の許可がないまま『日米修好通商条約』を結んでしまったのだ。それが1858年のことだった。
[『井伊直弼画像』。井伊直安(井伊直弼の三男。越後国与板藩第10代藩主)の作。豪徳寺(東京都世田谷区)所在。世田谷区指定有形文化財(歴史資料)]
これによって、
- 新潟
- 神奈川
- 兵庫
- 長崎
の4港を開港し、通商の開始を約束。しかし先ほどペリー来航のときにこう書いたが、
日米修好通商条約というのは簡単に言えば、イギリスが清に求めたような『自由貿易』だ。もちろん、清のように不平等な条約を押し付けられたわけではなく、戦争をして結んだ条約でもないので、条約は友好的に結ばれた。だがもちろんそれは表面的なものであり、実際の主導権(イニシアティブ)や有利性(アドバンテージ)は平等かどうかは違う話となる。
やはりこの条約も結局『不平等条約』だったのだ。関税自主権もなく、日本国内で外国人が犯罪をしても日本の司法権が及ばない『領事裁判権』が採用されるなど、一方的な条約だった。
安い外国製品の流入を防ぐための関税を自主的に決める権限。
- 天皇の許可なく行ったこと
- 不平等条約を突き付けられたこと
- 元々外国が嫌いだった
こうしたことが相まって、孝明天皇は『尊王攘夷』思想を強めていった。
天皇を敬い、外国を打ち払うべきという思想。
下記の記事に書いたように、本居宣長(もとおりのりなが)が古事記を再研究し、平田篤胤(あつたね)が儒教・仏教の影響を排除した影響を排除した『復古神道』を提唱し、これによって、日本に『天皇に忠義を尽くし、外国を追い払う尊王攘夷』という考え方が根付くようになった。
[本居宣長]
更にそこに、徳川光圀の『水戸学』が加わる。最初は儒学を軸にした学派だったはずだが、徐々に『天皇中心に幕藩体制を強化する』という思想になり、こういった思想家たちの解釈と心の動きが、幕末の『尊王攘夷論』に影響してくるのである。
尊王攘夷論(幕末のスローガン)
- 天皇>将軍>大名の順に忠義を尽くす
- 日本に近づく異民族は打ち払う
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つまり、
- 本居宣長
- 平田篤胤
- 水戸学
- 孝明天皇
こういった人物たちがこの幕末の時代の日本人の思想に『尊王攘夷』という概念を植え付け、後にこれが戦争の種の一つとなってしまうのである。
下記の記事に書いたように、スペイン・ポルトガルが1500年代に『大航海時代』を切り開き、世界は一体化した。もちろん、大陸では『隣に国がある』ので、ひょいと隣に行って攻撃したり、あるいは文化が移ったりと、いい意味だけを見れば切磋琢磨し、向上してきた。そういう背景があるからこそ、ヨーロッパは強国となりえたのである。
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例えば、この時代までにいけるヨーロッパの覇権の推移を見てみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
アッシリアから始まった帝国。国が国を支配して帝国となって巨大化する。こうした動きは大陸ならではのことだ。もちろん後になれば交通の手段が増えて遠い地域まで進出できるが、やはりこうした帝国づくりはまず近隣諸国から攻め落とすことになる。日本もモンゴル帝国の『蒙古襲来』の際に一度その危機を味わっているが、ヨーロッパからすれば東の端『極東』であり、島国である日本は、地の利があり、それがゆえにほとんどこうした外国の脅威と無関係でいることができた。
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帝国を作る過程で問題が起こる。例えばローマ帝国は紀元前800年頃から作られ始めるわけだが、その帝国の中には様々な国家や民族があるわけである。そうなると当然、それぞれが持っている宗教観に違いが出てくる。
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上記の記事に書いたように、各地域には様々な神話や宗教があった。したがって、一つにまとまらない。最初は力づくでまとめていたがそれには限界があり、どうしても帝国をまとめるために『優秀な宗教』の存在が必要だった。それでキリスト教が採用され、現在キリスト教は世界一信者が多い宗教となったわけだ。アメリカ人の実に9割がキリスト教徒である。
だが、今の話を見てもわかるように、
- 国A:思想A
- 国B:思想B
- 国C:思想C
といったように、世界が一体化するまでは、それぞれが独自の文化と思想を築き上げ、独特の思想と民族意識を持つようになった。日本で言うと『神道』だ。Wikipediaの『世界宗教』の分布図をを見ても分かるように、神道があるのはこの国だけである。
大雑把に説明すると、
- 紫=キリスト教
- 緑=イスラム教
- 橙=ヒンズー教
- 黄=仏教
- 青=ユダヤ教
- 灰=無宗教
ということになる。するとどうなるだろうか。先ほどの吹き出しのように、それぞれが自分たちの神や思想を主張し、衝突するリスクが生まれるのだ。現在進行形で世界でテロリズムが起きているが、その大半はイスラム教を名乗るテロリストで、彼らは異教徒を強く憎んでいる。実際にはイスラム教とテロは無関係で、『テロリストが宗教を利用しているだけ』なのだが、パレスチナ問題然り、この世は現在進行形でこの思想問題でトラブルを頻発させてしまっているのだ。
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そして日本はこの時『尊王攘夷』の考え方を強めていった。それは、これから始まる世界的大惨事の一つの種となる、不穏な要因だった。
開明的な藩主が中心となり、実力者を推して本気で国を再建しようとする動きと、保守的な譜代大名が中心となり、権威にしがみついて創業者一族を死守しようとする動きで板挟みになった堀田は、こうしたあまりにも複雑な問題を処理しきれず、失脚し、政治の中心は南紀派の井伊直弼になった。井伊直弼は、譜代大名の最重鎮である井伊家の生まれだ。
書いたように、井伊直弼は天皇の勅許なく『日米修好通商条約』を結び、この国の『尊王攘夷』の思想を煽った。更に彼は推していた徳川慶福を14代将軍にする。そして慶福はそこから家茂(いえもち)と名乗った。これは、15代で終わる徳川将軍の一つ手前の時代となった(1858年- 1866年)。
[徳川家茂像 川村清雄作]
しかし、今書いたようにその時代はわずか8年で終わることになる。では一体その8年に何があったのだろうか。井伊直弼は、『安政の大獄』といわれる弾圧を行い、反対派を鎮圧した。一橋派だった水戸藩主の徳川斉昭(慶喜の父)や、越前藩主松平慶永などは謹慎させられ、越前藩士の橋本佐内、長州藩士の吉田松陰など、藩士レベルの人々の多くが処刑されてしまった。これがこの国に亀裂を生む大きな原因となってしまったのだ。
[攘夷論の風刺図(開港直後の横浜で行われた相撲の模様を描いている)]
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