『桜田門外の変』
世界が一体化するまで各国各エリアで独自の文化と文明が築かれ、それは個性となり、同時に戦争の原因となった
上記の記事の続きだ。井伊直弼は、『安政の大獄』といわれる弾圧を行い、反対派を鎮圧した。一橋派だった水戸藩主の徳川斉昭(慶喜の父)や、越前藩主松平慶永などは謹慎させられ、越前藩士の橋本佐内、長州藩士の吉田松陰など、藩士レベルの人々の多くが処刑されてしまった。
中心人物 | 掲げる人物 | |
一橋派 | 松平慶永、島津斉彬 | 一橋慶喜 |
南紀派 | 井伊直弼 | 徳川慶福 |
[斉彬の写真(1857年撮影、尚古集成館蔵)]
島津斉彬(なりあきら)は有能で、保守層から常に警戒される存在だった。福井藩主の松平慶永は、
松平慶永
と称賛している。
すぐれて賢いこと。
海外の問題があったこの頃、日本の富国強兵は急務となり、冒頭の記事にも書いたように全国に『砲台』等の防衛対策が盛んに行われる。島津はドイツ人医師シーボルトから医学と物理学を学び、西洋の砲術や科学技術、文献の輸入や翻訳などに積極的で、
- 反射炉建設
- 溶鉱炉
- 蒸気機関製造所
- 洋式紡績所
などを設置し、『集成館』と名付けられた一帯は、最先端の技術をもった洋式工業団地となる。それは現在『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』として、世界遺産に登録されている。
島津斉彬は1851年から現在の鹿児島市吉野町磯地区に工場群を設けて軍事強化と産業育成を図った(集成館事業)。製鉄・造船・紡績など幅広い分野を手掛けた。
金属融解炉の一種。18世紀から19世紀にかけて鉄の精錬に使われた。
彼はわずか7年しか在職しなかったが、存命中に下士階級の西郷隆盛、大久保利通といった人物を抜擢し、薩摩藩の地位を引き上げ、その基礎に貢献した。その島津斉彬と共に活躍した『幕末の四賢侯(ばくまつのしけんこう)』というのが以下の4名だ。
幕末の四賢侯
- 福井藩第14代藩主:松平慶永(春嶽)
- 宇和島藩第8代藩主:伊達宗城
- 土佐藩第15代藩主:山内豊信(容堂)
- 薩摩藩第11代藩主:島津斉彬
その中で、山内豊重と言えば、大河ドラマ『龍馬伝』を見たことがある人なら記憶に新しいかもしれない。坂本龍馬のいた土佐を統治する人物で、剛腕を振舞う権力者だった。下記の記事に書いたように、儒学・朱子学の実力者に佐藤一斎(1772~1859年)という人物がいた。彼の門下生がすごい。
その数は6000人ともいわれているが、錚々たる人物の名がここに挙げられることになる。そして吉田松陰は1830年に生まれ、佐藤一斎が亡くなった1859年に亡くなっている。30歳だった。
[佐藤一斎]
『この1000年で最も重要な功績を遺した世界の人物100人』に選ばれた日本人、葛飾北斎登場!
吉田松陰も『龍馬伝』に出ていたが、1857年に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾には、
- 木戸孝允(桂小五郎)(1833~1877年)
- 久坂玄瑞(1839~1864年)
- 高杉晋作(1840~1867年)
- 伊藤博文(1841~1909年)
- 山縣有朋
- 吉田稔麿
- 入江九一
等々の人物がいて、特に太字の四人は有名人物である。井伊直弼に殺害された橋本佐内は、あの西郷隆盛と交友があった。そしてもう一人の吉田松陰の弟子である彼らは、今後の日本の歴史にとって、極めて重要な存在となっていった。
木戸孝允は、1866年に坂本龍馬と中岡慎太郎の斡旋によって、西郷隆盛と京都の薩摩藩邸で会談をした。『薩長同盟』である。優位な立場にあった薩摩の西郷は横柄な態度を取ったが、苦境の長州を代表し、頭を下げて言った。
木戸孝允
薩摩の西郷隆盛と、長州の桂小五郎が、坂本龍馬の立ち回りによって繋がれ、薩長同盟が結ばれ、それが倒幕のための重要な布石となった。
多くの人はこのようなイメージでこの会談について認識しているだろうが、それは間違ってはいない。後は厳密に、細かい部分があるということだけだ。実際にはこの1年前の1865年に、長州藩主の毛利敬親(たかちか)から『木戸孝允』の名をもらっているので、この時には木戸孝允だったとか、そういうことである。彼の話はまだこの後に出てくる。
久坂玄瑞(くさかげんずい)は、師である吉田松陰が殺されて、大いに憤慨した。その後、吉田松陰の遺志を受け継ぎ尊攘運動に身を投じ、高杉晋作と共に『松下村塾の双璧』と呼ばれる秀才。長州藩として幕府軍と戦うが、わずか25歳という年齢で自害。誰もが彼の早すぎる死を惜しんだ。
[木戸孝允(前列中央)と伊藤博文(後列右端)ら。明治3年(1870年)撮影。]
久坂玄瑞が松下村塾の秀才なら、高杉晋作は『奇才』だった。伊藤博文は、
『動けば雷電のごとく、発すれば暴雨のごとし。』
と讃えたが、彼も29歳という若さでこの世を去った。1862年に幕府使節随行員として上海に渡ると、すでに欧米によって半植民地化された清の姿を見て、衝撃を受けた。
アヘン戦争の原因はお茶の値段を吊り上げた『清』、野心の塊だった『イギリス』のどっちにあるか
やはり外国は敵だ!尊攘活動を急がねばならん!
そう考えた晋作は、帰国後にイギリス公使館焼き討ち事件を起こしたりして、過激化していく。まさに、『アヘン戦争』はイギリスが清に勝った戦争だったから、イギリスを敵視するのは流れ的には相場だった。彼の話もまだこれから後に詳しく出てくる。
そして伊藤博文は、この国の初代内閣総理大臣になる男だ。彼は先輩、高杉晋作、木戸孝允といった人物に鍛えられ、彼も伊藤俊輔という名前だったが、明治維新後は伊藤博文と改名する。彼の話もこの後だ。つまり、井伊直弼が殺してしまった吉田松陰、橋本佐内というのは、幕末、つまり『幕府を終わらせ、新しい時代を作る重要人物』たちに完全に火をつける行動になったのである。
やはり彼らに強く影響を与えたのは『アヘン戦争』だった。吉田松陰はこうした事実を知ると、西欧の兵学を取り入れなければ国防が危ういと判断した。そして、同じく佐藤一斎から影響を受けた最高の洋学者、佐久間象山から砲術と蘭学を学ぶ。彼に逮捕歴があるのは、ペリー来航のとき、アメリカに密航しようとしたからだ。アメリカから突き返された松陰は幕府に自首して投獄される。
その後、叔父の玉木文之進が中断していた私塾『松下村塾(しょうかそんじゅく)』を再興し、人々の思想を鍛えた。松陰は、
北はカムチャッカ、南はルソン(フィリピン北部)まで領有するべきだ。
と考えていて、その考え方が弟子を通じて、明治新政府の富国強兵、植民地政策に反映されていった。そう考えると、日本を守ろうとした松陰は正しくもあり、別の面から見ると『帝国主義』の思想を煽ったわけで、ヒトラーその他の帝国主義者と変わらない、度が過ぎた愛国心を持った人物だったと言えるだろう。何しろフィリピンの人はどうする。彼らの国を支配することは、日本の為に仕方ないとでも言うのだろうか。
マイケル・サンデルは言った。
見るべきなのは以下の黄金律である。しかし彼ら先人が日本を守ったから現在の我々があるのも確かだ。
『持つべき愛国心の「国」とは国家のことではない。「地球」のことだ。』
福井藩主の松平慶永が、
松平慶永
といって、鍋島直正の話を出したが、彼も大型反射炉を作ったり、アームストロング砲、鉄砲の製造に成功。松平慶永、島津斉彬と共に幕末の四賢侯に数えられる伊達宗城も、自前で蒸気船を建造したりして、西洋知識を導入して近代化に尽くした。
[徳川斉昭]
水戸の徳川斉昭も大砲を鋳造し、造艦書を翻訳。下記の記事に蝦夷地を調べた間宮林蔵について書いたが、彼に北方調査依頼をし、海防に力を入れた。
『暴れん坊将軍』徳川吉宗は実際には暴れる暇もないほど『米将軍』として微調整を強いられた?
また、水戸(茨城県水戸市)にある『偕楽園』を開設したのも彼だ。1842年のことだった。衆と偕(とも)に楽しむという意味で、この名前が付けられた。彼は将軍ではないが、偕楽園を『徳川将軍の一人が作った巨大な庭園』として認識している人もいるだろう。それは実はそう遠くはない。彼は、徳川最後の15代将軍、徳川慶喜(一橋慶喜)の父親だからだ。
[偕楽園 筆者撮影]
[偕楽園 筆者撮影]
[偕楽園 筆者撮影]
徳川斉昭は、1860年に心筋梗塞で死去した。井伊直弼が『安政の大獄』を行った翌年のことだった。
さた、安政の大獄で、吉田松陰、橋本佐内らが処刑され、一橋派だった水戸藩主の徳川斉昭や、越前藩主松平慶永などは謹慎させられた。孝明天皇は井伊直弼の勝手な行動に激怒し、退位を口にする。そして、一橋派の面々は、以上の理由によって大いに憤慨していた。
尊攘運動は次第に『倒幕運動』へと様相を変えていき、
という声が上がるようになる。そして1860年、それは起こった。『桜田門外の変』である。井伊直弼は江戸城の桜田門外の外で何者かに殺害されてしまった。尊攘派志士十数名から襲撃を受けた供周りの60余名は急襲にたじろぎ、何もできなかった。井伊直弼は駕籠(かご)の外から何度も刀を突きさされ、首を落とされ死亡してしまった。
この歴史的シーンは幕末の時代を描いた『るろうに剣心』など至るところで観ることができるが、2010年に公開された『桜田門外ノ変』では、井伊直弼が暗殺された桜田門外の変とその前後の顛末を、襲撃を指揮した水戸藩士・関鉄之介の視点から描いている。
1860年に老中になったばかりの安藤信正(のぶまさ)は、首のない井伊直弼の遺体の前で、長々と見舞いの言葉を述べ、井伊直弼は『一方的に殺された』のではなく『激闘の末に倒れた』のだと周囲にアピールした。これは彼の戦略だった。
殺害したのは水戸浪士であり、井伊直弼は彦根藩(滋賀県)だ。その武力衝突となれば、余計な二次災害、三次災害となりかねない。彼の機転によって、無駄な争いは避けられた。しかし、この事件によって徳川家康から続いた『圧倒的な徳川一強時代』は幕を閉じたに等しくなる。ここから幕府は朝廷や大名たちと妥協しながら政権運営をしていくことになる。
[桜田門外の変]
『武断派』福島正則、加藤清正、『文官派』石田三成らが対立!そして徳川家康が動き出す!
徳川家光が『武断政治』の総仕上げとして『幕藩体制』を築き、この世界に『対人恐怖症』が生まれた!
信正は朝廷と幕府の融和『公武合体(こうぶがったい)』を目指し、光明天皇の異母妹・和宮内親王(かずのみやないしんのう)と14代将軍家茂の婚儀を実現させたが、1862年、『坂下門外の変』によって彼も尊攘派浪士によってあわや命を落とすところだった。
和宮と家茂は政略結婚による結婚だった。彼はともに17歳で、普通なら学生だ。しかし彼らの場合は特別だ。この国の命運が彼らの肩にかかっていた。彼女にはいいなずけがいたが、この国の未来の為に、大義を取った。ただ、家茂はとてもやさしく誠実な人で、それが不幸中の幸いだったという。残念ながら、1866年に家茂が死去。わずか6年の結婚生活に、和宮は何を想っただろうか。彼女はその2年後、徳川家討伐のためにやってきた新政府軍に立ち向かった。
『官軍(新政府軍)差し向けられ、御取り潰しに相成り候(そうら)わば、私、一命は惜しみ申さず。』
つまり、家茂公に嫁いできた上は、亡き夫のためにも一命をかけて徳川家を守る覚悟だと主張したのだ。新政府軍への手紙攻勢には篤姫も参加。彼女らは最初、嫁姑のような関係で不和があったが、徳川家が滅ぼされようとするその時、同じ目的で気持ちが一つにまとまったのか、最後は戦友として共に立ち向かった。48歳で亡くなった篤姫は、所持金がたったの3円。32歳で亡くなった和宮は、東京の増上寺にて、家茂の隣に葬られた。
[和宮親子内親王の肖像画]
同じく1862年9月14日に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件『生麦事件』が勃発。そして、前述した高杉晋作が起こした『イギリス公使館焼き討ち事件(英国公使館焼き討ち事件)』は、1863年のことだった。
たしかに『アヘン戦争』で清を制圧し、半植民地化したのはイギリスだったが、これは日本人が過剰に外国を警戒し、尊攘思想で頭がいっぱいだったことを意味する、不穏な動きとなった。
この時、アメリカは『南北戦争』で忙しく、貿易する暇はなかった。また、不凍港を求めて南下してきたロシアと揉めていることを考えても、そうした問題があったから、日本がアメリカから狙われなかったのかもしれない。下記の記事に書いたように、近年では『ペリー来航』は捕鯨が目的だったという考え方が有力になっているという。捕鯨と言えば日本が叩かれている印象があるが、当時は欧米でも捕鯨が盛んであり、アメリカは捕鯨船の補給基地として、この日本を押さえておく必要があると判断したという。
南北が奴隷問題で激突し、アメリカが分裂!リンカーンが『奴隷解放宣言』で『アメリカ連合国』を撃破!
かつて『お台場』には『台場(砲台・要塞)』があった!『ペリー来航』時に猿島や品川で海防したのだ!
そう考えると、やはりアメリカは隙があればこの国を植民地化しようとした可能性はある。しかしとにかく、彼らは南北戦争で動けなかった。その代わりに活発に動いたのはイギリスだ。当時、安くて質のいいイギリス産の毛織物や綿織物が輸入され、国内の綿織物業が衰退するほどだった。
また、日本は金と銀の比率が『1:5』だったが、外国は『1:15』で、日本は金が豊富だった。そのため、海外の銀を日本に持ち込み、日本で金貨に交換して海外に持ち出し、海外で銀に交換すると、3倍の銀が手に入った。これはまさに世界が一体化した当時ならではの『裏技』であり、『為替』にも似た問題だった。
例えば1ドルが100円の時に100ドル買えば、1万円だ。だがその後、円高になって1ドルの値段が10円になったとしよう。すると、『10円払えば1ドル手に入る』という状況が生まれる。アメリカに行けば1ドルで売っているものを10円で買えるわけだ。実際には1ドルが10円になることはないが、あくまでもイメージである。
この為替を利用してお金を稼ぐ人は現代においても存在する。とりわけ、日本と外国における為替の端緒となったのは、この時ではないだろうか。
では、イメージを見てみよう。
このようなイメージで『為替利益』を上げることができたわけだ。しかし、そのせいで日本から金が枯渇する問題が起きる。金の流出を防ぐために小判のサイズを小さくした『万延小判』を作るが、それによってインフレと物価の乱効果が起き、問題は悪化してしまった。
このようなことを考えると、確かに開国し、外国と交流することによるデメリットを感じることもあったのだ。様々な問題が入り混じり、この後いよいよ、坂本龍馬が動き出すことになる。そして、先ほど亡くなったとあった14代将軍家茂の後に、最後の将軍となった15代将軍徳川慶喜の時代に突入する。しかし、それは本当にごくわずかな時間だった。260年続いた徳川家の時代が、ついに終幕を迎えようとしていたのである。
しかしまずはそれと同時期に動いていた武士たちの話をする必要がある。『新選組』である。
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