『薩長の確執』
上記の記事の続きだ。1860年、『桜田門外の変』井伊直弼は死亡してしまった。1860年に老中になったばかりの安藤信正(のぶまさ)は、余計な二次災害、三次災害を避ける為に機転を利かせる。しかし、この事件によって徳川家康から続いた『圧倒的な徳川一強時代』は幕を閉じたに等しくなる。ここから幕府は朝廷や大名たちと妥協しながら政権運営をしていくことになる。
信正は朝廷と幕府の融和『公武合体(こうぶがったい)』を目指し、光明天皇の異母妹・和宮内親王(かずのみやないしんのう)と14代将軍家茂の婚儀を実現させたが、1862年、『坂下門外の変』によって彼も尊攘派浪士によってあわや命を落とすところだった。どちらにせよ、幕府側の人間はもう何をしても暗殺されそうになったりして、前に出づらい状況があった。そこでその代わりに前に出るのが、
の2つの雄藩だ。薩摩藩は、その幕府側の安藤の代わりに公武合体政策をしようとしていた。つまり、今まで徳川家の江戸幕府がやっていたことを薩摩藩が筆頭になってやろうとしていたのだ。和宮の姑でもああった、13代将軍家定の夫人、篤姫は薩摩藩島津家の出身で、島津家は何かと幕府と朝廷とも関わりがあったのだ。すると、幕府はこの要求を呑む。
[天璋院(篤姫)]
文久の改革
将軍後見職 | 一橋慶喜 |
政治総裁職 | 松平慶永 |
京都守護職 | 松平容保(かたもり)。会津藩。 |
参勤交代 | 3年に1度へ。妻子を国許に済ませることも可能に |
謹慎者 | 謹慎解除 |
このような条件を整えて、薩摩藩だけじゃなく、有力な大名たちで公武合体の政治を行おうとしていた。これまで、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍が武断政治で徳川家時代の基盤を築き、その後に文治政治に切り替えて柔軟に対応してきたが、やはり最初の3人がやったことの影響は大きかった。
家光がやったのは『参勤交代』だ。これによって、大名の妻や子が江戸の屋敷に住み、大名自身は1年間江戸で暮らし、4月に領地に戻り、翌年4月に再び江戸に向かうというサイクルができる。自国と江戸の往復を義務付けるということ。
こういった目的がこの制度の根幹にあるわけだ。秀吉がかつて行った、
も、二代将軍秀忠がやった、
も、すべて根幹にある目的は『自分の政権の安定化』だ。今までの歴史を考えて、同じ轍を踏まないように、あらゆる方向から脅威となる存在を前始末的に排除し、戦国時代の二の舞にならないことはもちろん、徳川政権が末永く続くように考えたシナリオである。大名たちは、参勤交代の経費を自腹で払う必要があったため、藩財政を慢性的に圧迫した。
つまり、それまではそんな制度はなかったのに、徳川の江戸幕府になってから急に地方の人々の暮らしが窮屈になったわけだ。徳川家自体は『抑え込み』と『謀反の前始末』によってそれをしたかもしれないが、押さえられた方はたまったものではなかった。戦国時代の恐怖の呪縛が解け、文化や娯楽も発達し、多様性が強く芽生えるようになってから個々の主体性が増え、また、長い間押さえつけられていた鬱憤が、この『開国による海外との交流』が始まったこの時期に爆発したのである。
こうして幕府以外の権力とエネルギーを持った人々が動き出したのだ。とりわけ、『雄藩』と呼ばれた発言力のある藩は有力だった。『幕末の四賢侯(ばくまつのしけんこう)』を筆頭に声を上げるようになった。
幕末の四賢侯
この松平慶永というのが、今回政治総裁職についた人物だったわけだ。だが、このとき山口県の長州藩は、独自の行動を取っていた。彼らの藩では中・下級武士の発言力が強く、彼らの主張する尊王攘夷論を採用。つまり、彼らは彼らで、薩摩藩らと同じようなシナリオを遂行させようとしていたのだ。
彼らの場合、同じ思想を持つ公家と手を組んだ。そして、朝廷側と強く結びつくことで幕府その他を黙らせようとしたわけだ。要は、天皇の命令を使えばだれも逆らえないという構図を利用し、尊攘活動を行ったのである。関門海峡を通る外国船を砲撃したりして、『テロリズム』となりうる過激な行動を行った。
薩摩藩 | 幕府側から国を動かす |
長州藩 | 朝廷側から国を動かす |
この長州藩が馬関海峡を通過するアメリカ商船に砲撃を開始したのが1863年(文久3年)7月16日 。これは翌年5月の下関戦争(馬関戦争)の原因となる。この時、多くの日本人にとってなじみ深いある集団が動き始めていた。『新選組』だ。それについては次の記事でたっぷりと書こう。
[連合国によって占拠された長府の前田砲台。フェリーチェ・ベアト撮影。]
次の記事で新選組の話を交えながら『八月十八日の政変』、『禁門の変』について書く。これは、1863年に起きた事件で、いずれも薩摩藩と会津藩が、過激な思想を持つ長州藩を京から追い出すようにして行った事件だ。しかしとにかくこの年代というのは、あちこちで尊攘活動を行う長州藩を筆頭とした過激派と、それを鎮圧するための新選組のような人々がいたのである。
しかし、この冒頭の記事に書いた『生麦事件』の報復でイギリス艦隊は薩摩藩を攻撃し『薩英戦争』が勃発。また、1864年には『下関戦争』の報復で、
の連合軍が長州藩を攻撃。『四国艦隊下関砲撃事件』が勃発する。圧倒的な欧米の軍事力を目の当たりにした長州藩は、『攘夷(外国を討つ)』ではなく、『倒幕』に目を向けるようになった。そして薩摩藩も薩英戦争の影響で同じように考えた。
[フランス艦隊による報復攻撃]
ではここで、ここまでのヨーロッパ、世界の覇権の推移と、当時のヨーロッパの動きを見てみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
そしてこの後だ。規模もヨーロッパから『世界』へと変え、まとめ方は『世界で強い勢力を持った国』とする。
17世紀のイギリス以降世界で強い勢力を持った国
この時、世界をリードしていたのはイギリスだった。しかし、ヴィルヘルム1世が即位し、オットー・フォン・ビスマルクがプロイセンの首相に任命されることで、この後『ドイツ帝国』が力を持つようになる。世界ではそういう動きが存在していた。
ビスマルクは『鉄血政策』によって富国強兵を進め、まずライバルのオーストリアを誘ってデンマークを倒し、更にオーストリアを挑発し、『プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)(1866年)』でヨーゼフ1世率いるライバルのオーストリアを撃破。そして、ドイツからオーストリアを除外し、『北ドイツ連邦』を成立させる。
だが、『北』というぐらいだから、『南』の方の地域はまだ納得していない状態が続く。ビスマルクは、隣国フランスこそがドイツ統一最大の障害であると考えた。1870年、ビスマルクはナポレオン3世を挑発し、普仏戦争を起こす。
ドイツの歴史
ビスマルクは、フランスという『共通の敵』に焦点を当てることで、国民の気持ちを一つにした。そして、鉄血政策によって力強さもアピールし、見事フランスを打ち砕くことで、プロイセン国民から認められたのである。
この絵はプロイセン(紺色)を中心として、ドイツの国家統一が成立したときのヨーロッパを現した風刺画である。各国の視線がプロイセンに集まり、フランス(ピンク)は銃と剣を手ににらみつけ、ドイツ、フランスとの戦争を示唆している。イギリス(黄色)は顔こそ左にあるアイルランドに向いているが、視線はしっかりとプロイセンに向いている。そしてオーストリア(黄色)は戦争に負けたため、プロイセンに足蹴にされている。
そうしてドイツが力を持つのだが、イギリスはイギリスでヴィクトリア女王の時代に『大英帝国』黄金期を迎える。それが1900年頃だ。フランスはそのライバルとしてナポレオンの孫、ナポレオン三世を中心として奮闘するが、結果的にはドイツのビスマルクにやられて勢いを落とす(以来、フランスはドイツ嫌いになる人が続出する)。
しかしまだこの時は、フランスとイギリスはライバルとして競り合っていた。この後、アフリカ大陸を攻める際にスーダンのファショダで接触し、一触即発となった(ファショダ事件)が、フランスの敵はあくまでもドイツだったため、イギリスに一歩譲り、衝突は免れた。
[ファショダ事件(1898年)当時のアフリカ 南北に伸びるイギリスの植民地(黄色)と東西に伸びるフランスの植民地(赤色)の拡大政策が現在のスーダンで衝突した]
そしてこの時の譲歩がきっかけとなり、かつてライバル国だったイギリスとフランスの距離は縮んでいった。これが1898年。ここから25年ほど後の話である。
しかし、この時においてはイギリスとフランスはまだライバル同士。『四国艦隊下関砲撃』の際には共闘したが、実は彼らは水面下ではライバル同士であり、バチバチと火花を散らしていたのだ。
イギリス | 薩摩・長州藩 |
フランス | 幕府 |
実は彼らは日本で利権を得る為に勢力争いをしていて、上のような構図を作り上げ、対立し、水面下で競争していた。イギリスが薩摩・長州の倒幕勢力を支援し、フランスはナポレオン三世が筆頭として幕府に肩入れ。彼らは兵器や軍備の近代化等の支援をし、それゆえにこの日本の倒幕運動は『イギリス・フランスの代理戦争』の一面があったのだ。
代理戦争の他の例を見てみよう。『ベトナム戦争(1955年11月 – 1975年4月30日)』は、アメリカとソ連の『冷戦』の間接的な戦場だった。アメリカは『自由主義』、ソ連は『社会主義国』を拡大させたくてお互いが対立していたが、直接的に戦いあうわけじゃなかったので、それは『冷戦』と呼ばれていた。その後、米ソは1960年代平和共存外交を展開するが、他の地域で代理戦争を起こす。その影響を強く受けたのが、東南アジアだったのだ。
ソ連は『1948~1979年』の約30年間の間に行われた戦争、『中東戦争』でアラブ側の支援を行っていた。アメリカ・イギリス・フランスがイスラエルに、ソ連がアラブ側に対し支援や武器を供給していたことから、この中東戦争も代理戦争の側面も含むと言われていたのだ。
また、『朝鮮半島』は第二次世界大戦の後、北緯38度線を境に、米ソによる分割を受ける。北はソ連、南はアメリカによって支配された。そして東西冷戦が進行する中、南北に分断されて、この2つの国が生まれたわけだ。『北朝鮮』と『韓国』である。
そして1979年にソ連がアフガニスタンを侵攻する。そしてやはりその背景にいたのは『アメリカ』だったのだ。この戦争も、結局は『米ソの代理戦争』になっていたのである。直接の戦争はしないが、裏から操って代わりにその国の人々に争わせ、利権を得る。こうした海外の策略もこの幕末の日本に存在していたのである。
『禁門の変』で、長州藩は京都を奪い返すために御所を攻撃してしまっていた。それによって長州藩は、
の三大勢力を敵に回し、孤立してしまっていた。しかしイギリスは『薩摩・長州藩』を支援したとあっただろう。それはどういうことかというのは、この後に出てくる話で結びついてくる。ここにあったのは『イギリスとフランスの植民地争い』だったのだ。
私は今よりも無知なとき『猿島』に行った。横須賀の港に東郷平八郎の乗っていた軍艦『三笠』があったものだから、ここがあの東郷平八郎と縁のある場所だと気づいた。そして東郷のことや、猿島にあった砲台や要塞等について学んだ。
[佐世保に入港した三笠、1905年2月18日もしくは19日撮影]
そこにいた島民のような詳しい老人と話がはずみ、
と聞いたら、
と言った。私は東南アジアやアフリカ、アメリカ大陸が植民地にされた歴史を学んでいたので、なぜ日本が植民地化されなかったのかが疑問だったのだが、当時に詳しい老人もそれを知らなかった。
そして私が記憶を思い出しながら、
とつぶやくと、
と言った。なるほど。確かに南北戦争は1863年に起きている。ドイツもオーストリアのことがあって、それぞれ近辺問題で忙しかったという話がここで浮上したわけだ。
しかし、イギリスやフランスといった強国はどうか。ビスマルクがフランスにけしかけるのはまだもう少しだけ後だし(1870年)、事実こうしてこちらに攻めてきているわけだ。調べると、やはりこのようにしてイギリスとフランスは日本を植民地化しようと狙っていたというわけだ。その後、それらの国よりもロシアが日本を狙ったり、そのロシアとイギリスは仲が悪かったりなどと、様々な理由があって結局日本は植民地化されなかった。またその後の、
といった戦争において日本が勝利したことも関係しているかもしれない。例えば『イラク人の日本人に対する感想』だが、彼らは日本と言って思い浮かべることは、SONYでもトヨタでもなく、『明治維新』だと言う。多くのアラブやアジアの国々が国を破壊され、植民地化されたなか、日本だけは独自の力で近代化を達成し、国を守り、有色人種の中で唯一列強に加わることが出来たことに、畏怖と称賛の念を抱いているわけだ。
その東郷平八郎を筆頭として巨大なロシア帝国に戦争を挑み、世界最強といわれたバルチック艦隊を撃破したことは驚きの一言。また、結果的には負けたがあのアメリカに攻め込んだのは後にも先にも日本だけだった、というのは、世界中の人々の目を丸くしたわけだ。
そう考えると、『海外に付け入る隙を与えなかった』。そういう日本の光景が浮き彫りになる。600年頃に忍者が誕生し、900年頃、自警団的な武装集団から武士・侍が生まれて、やがてその存在が『幕府』という国の軍事・警察の役割を担うまでに上り詰めた。
忍者 | 600年頃 |
武士、侍 | 900年頃 |
浪人 | 1600年代 |
戦国時代では、
といった武将たちが活躍し、その血を受け継いだ武将や大名、そして多くの日本人が、その血を濃いものにしていった。例えば次で説明する新選組の面々も、坂本龍馬も、剣道の腕前は『免許皆伝』クラスだ。さっと言うが、それがどれだけ大変な努力を必要とするか。私は剣道に本気で携わった時期があるから身に染みて理解するのである。
正直、剣道に真剣に向き合うと、人生がすべてそれ一色になる。それほど奥が深く、時間も心身ものめり込むことになる。武士が生まれたこの国で、『武士道精神』として『罪』より『恥』をさらすことを嫌って生きていた誇り高い日本人を攻略するのは、並大抵の覚悟では不可能だったのかもしれない。
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