『薩長同盟』
新選組登場!『天才剣士』沖田総司と斎藤一、『鬼の副長』土方歳三、『覚悟の人』近藤勇の活躍
上記の記事の続きだ。1860年代前半にはこれだけのことが起こった。
- 『桜田門外の変』1860年3月24日
- 『坂下門外の変』1862年2月13日
- 『馬関戦争』1863年7月16日
- 『八月十八日の政変』1863年9月30日(文久3年8月18日)
- 『薩英戦争』1863年8月15日–17日
- 『四国艦隊下関砲撃事件』1863年、1864年
- 『池田屋事件』1864年6月5日
- 『禁門の変』1864年8月20日
薩摩藩、長州藩、朝廷、江戸幕府、新選組、その他、尊王攘夷派と公武合体派、そして坂本龍馬、中岡慎太郎といったような人物が立ち回り、日本が荒れに荒れたわけだ。そして砲撃を受け、圧倒的な欧米の軍事力を目の当たりにした長州藩は、『攘夷(外国を討つ)』ではなく、『倒幕』に目を向けるようになった。そして薩摩藩も同じように考えた。
薩摩藩 | 西郷隆盛、大久保利通 |
長州藩 | 高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文 |
長州藩
薩摩藩
ここでようやく下記の記事に書いたように、 『イギリス・フランスの代理戦争』の一面が垣間見えるシーンが出てくるようになる。
イギリス | 薩摩・長州藩 |
フランス | 幕府 |
実は彼らは日本で利権を得る為に勢力争いをしていて、上のような構図を作り上げ、対立し、水面下で競争していた。イギリスが薩摩・長州の倒幕勢力を支援し、フランスはナポレオン三世が筆頭として幕府に肩入れ。彼らは兵器や軍備の近代化等の支援をし、それゆえにこの日本の倒幕運動は『イギリス・フランスの代理戦争』の一面があったのだ。
1864年7月、幕府は『禁門の変』を理由に長州藩へ兵を挙げる。この『第一次長州征討』に対し、1865年1月に、『功山寺挙兵』。つまり高杉晋作率いる奇兵隊がクーデターを決行し、これによって長州藩の上層部を倒し、佐幕に傾きかけていた矛先を、『倒幕』へと向ける。しかしそこに参加していた藩の中には薩摩藩の姿もあって、薩長は、その『第一次長州征討』の問題で今まで以上に関係をこじらせてしまった。
[長州奇兵隊の隊士(一部]
そんな中、土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎は、彼ら『薩長』の共通点を見出す。
あの人らは、共に腐敗したこの江戸幕府の時代を終わらせ、次の未来ある時代に変えたいと考えている。
薩長は、もはや一つの『国』として考えられている。『薩英戦争』も『日英戦争』ではないわけだ。龍馬は、
外国勢力と対等に渡り合うためには、薩摩と長州の和解が重要だ。
と考え、彼らを結び付けることを決意した。坂本龍馬と私にはいくつかの共通点があり、またもちろん相違点もあるので、比べながら見ていこう。
龍馬は、土佐の富裕な商人郷士の家に生まれ、武家ではなく、商家の気質があった。私も祖父が中小企業の創業者であり、祖母がそれを支え、父はそれを引き継いだため、商人の血が流れている。だからわかるのだが、私は商人気質ではない。どちらかというともう片方の血筋の方の、戦争時にB級戦犯で捕らわれた経験を持つ祖父の血を引き継いでいるのかもしれない。
つまり私は商売よりも物事を突き詰めるのが好きで、『剣道、ビジネス』と両方をやったが、生きがいを覚えるのは剣道やボクシング、その他このような文章作成やイラストなど、何かに夢中になって打ち込んでいる時である。
アメリカの哲学者エマーソンは言った。
だとすれば、私は商売人ではなく、クリエーターであり、この話で言うなら武家の血筋が流れていると言っていい。17歳の頃、
このまま剣道だけをやっていていいのなら、ただひたすらにこれを極めたい。
と覚悟したことは今でも鮮明に覚えている。あれからもう20年の月日が経とうとしているのにである。そんな私だからわかるのだが、私は龍馬とは違った考え方をして生きている。しかし彼が、
- 洋靴
- ピストル
- 通商貿易
- 新婚旅行(日本初)
- 商社立ち上げ(日本初)
といったことに好奇心満々で向き合ったあたりは共通点がある。私も好奇心は彼と同じくらいある。だからこのサイトも『この世にあるすべての名言と向き合って感想文を書く』という、誰もやったことがないことをやろうとして始まった。(実際には途中で下記の記事にたどり着き、内省は終わった)
19歳で江戸に出て、土佐と江戸を行き来しながら、公武合体と開国を説く佐久間象山の私塾に通い、土佐屋水戸の志士と親交を深める。下記の記事に書いたように、儒学・朱子学の実力者に佐藤一斎(1772~1859年)という人物がいた。彼の門下生がすごい。
その数は6000人ともいわれているが、錚々たる人物の名がここに挙げられることになる。そしてその中にはこの時代を生きる様々な重要人物がいたわけだ。
[佐藤一斎]
『この1000年で最も重要な功績を遺した世界の人物100人』に選ばれた日本人、葛飾北斎登場!
彼が学んだ儒教というのは孔子の教えだ。それについては私もたっぷりと学んだ。また、龍馬は1848年の12、3歳の頃にに日根野弁治の道場に入門して小栗流、つまり武術を学び、非常に熱心に稽古し、5年の修業を経た1853年(17、18歳)に「小栗流和兵法事目録」を得た。小栗流目録を得たその年、剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された、その年に江戸において北辰一刀流の桶町千葉道場(現・東京都中央区)の門人となる。
1858年1月、23歳のとき、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。北辰一刀流免許皆伝と言われることもあるが、発見・現存している目録は「北辰一刀流長刀兵法目録」を与えられたものである。一般にいう剣術ではなく薙刀(なぎなた)術であり、北辰一刀流「初目録」である。ただ、
- 千葉道場で塾頭を務めた
- 「免許皆伝を伝授された」という同時代の証言がある
ことから、どちらにせよ龍馬には武人としての才能もあったことがわかる。
[侍と薙刀(1870年)]
ここまでにおいて、
- 商人家系の生まれ
- 好奇心がある
- 儒学とそれを根幹として思想を学ぶ
- 武道を学ぶ
といったことにおいて、私と龍馬には共通点があるのだ。私も商人の家に生まれ、しかしそれを引き継がずに自分で起業し、段や資格は取らなかったが剣道とボクシングを真剣にやって、今でも運動は続けている。また、下記の記事に書いたように、儒学以外の勉強もしている。
孔子(Confucius)とはどんな人物か
ソクラテス(Socrates)とはどんな人物か
ブッダ(Buddha)とはどんな人物か
キリスト (Christ)とはどんな人物か
しかし、私が彼と圧倒的に違うというところは、彼にある『商人気質』である。龍馬がこれから書くことをやったことを現代で言えば、若干30代前半の人間が、メガバンクのM&Aの調印式の場を設けたようなものだという。
私は正直、そういうことをしようと考えたことは一度もない。確かに少年時代は確執があった友人同士を何人か和解させたが、現在において、龍馬のような方向に熱く突き進もうと考えることはない。私は先ほど多くの名言を内省したと書いたが、偉人の数にしておよそ500人ほどである。その中で、私が深く共鳴する言葉と、そうじゃない言葉がある。私と同じような考え方をする人は、
といった、自分に厳しく、高い目標を持ち、唯一無二の命を意識している人物で、私と明らかに違う発想をする人は、
といった経営者なのである。事実、私は『社長になれないと思い込んでいる周囲』を黙らせる為に、半ば無理矢理23歳の頃に起業したが、いざなってみるともう社長という肩書には興味がなくなり、それで近づいてくる人間の浅薄さも知ったことから、あまりビジネスマンとして生きていくモチベーションがなくなった。
エマーソンの言葉通りなら、私は経営者気質ではなく、クリエーター気質なのだ。こうして文章を書いているとあっという間に時間が過ぎるし、その後に脳を休めるための『脳番地シフト』としてイラストなどを描いて気晴らしをするが、すると一日中何かを製作していることになり、しかしそれでも飽きないのである。
ボクシングも剣道も筋トレもすべて『自分を作りこむ』というクリエイトだが、やはり私は商人気質ではない。正直、ビジネスなどやらなくてもいいならやりたくないのである。それに引き換え、坂本龍馬は商人気質も備えていたようだ。
筆者のイラスト作成の例
彼は1862年、勝海舟と出会う。開国と近代海軍整備の重要性を知り、幕臣でありながらその地位に慢心して腐敗しない心構えに感銘した龍馬は、弟子入りを志願。そこで、勝の片腕として西郷隆盛を知る。その後、龍馬は西郷を頼って長崎へいき、イギリスの貿易商人グラバーらと、土佐の脱藩の志士らとともに、海外との武器屋物産の海運貿易を行う浪士結社『亀山社中』を結成。これはのちに『海援隊』となり、日本初の商社となる。
[海援隊士集合写真。1867年1月頃撮影]
龍馬はその会社を通し、薩摩藩名義で長州の武器を調達したり、長州藩から薩摩藩が兵糧米を購入するなどして、薩長の間に入って彼らが和解しやすいように勤しんだ。1866年1月、『薩長巨頭会談』が行われ、薩摩から西郷隆盛、長州から木戸孝允(桂小五郎)が集うが、両者はなかなか意固地な姿勢を変えられない。すると龍馬は二人にこう言った。
坂本龍馬
木戸は、武士道の意地としてそれでも同盟はできないが、長州が滅びた後に薩摩が国に尽くしてくれればそれでいいと考えていた。龍馬は西郷にその旨を伝え、ついに両者は意地を捨て、薩長同盟が結成。これが現代における『メガバンクの調印式』だ。
そして、これが私にないところだ。そもそも生まれた時代が違うが、商売をして立ち回り、人と人を結び付けて交渉し、取引をして大きな契約を結ぶ。私にはない発想である。私はただ自分の道をひたすらに突き詰めたいと考えるタイプだ。
羽生善治もこう言ったが、
人には色々なタイプがある。しかし、とりわけこの時代のまさにこの時期においては、坂本龍馬のような人物がこの国に必要だったのだ。
- 幕府の腐敗が目立つ
- 海外の脅威が迫る
- 朝廷の立ち位置をハッキリさせる
こうした当時の大問題を早急に解決するためには、間違いなく当時力を持っていた雄藩の『薩摩、長州』の同盟が必要だった。彼らが260年続いた徳川家の時代を破り、次の時代に突入させるだけの力を持っていたことに目をつけ、その関係に亀裂が生じていたとしても、その同盟に貢献し、それを締結させた。
龍馬が本当にこの言葉を言ったかはわからないが、言っていたとしても全く不思議ではない。彼は新選組等といった佐幕派を敵に回すことも覚悟しながら、自分の命を賭してまで、この『薩長同盟』に尽くしたのだ。
私もこの時代を生きていたら命震える大義に燃えただろうか。その時代のことは、その時代を生きた人にしかわからない。一つだけ言えることは、たとえ坂本龍馬が今後、学校の教科書から消えることになったとしても、彼が薩長同盟を結び付け、長く続いた徳川家(江戸幕府)の時代を終わらせたことは間違いないのである。
[坂本龍馬。慶応2年または3年に上野撮影局で撮影された。]
薩長同盟が結ばれたのが1866年1月8日。その2週間後の1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。だがこのとき、伏見奉行が龍馬を捕まえようと準備を進めていたのだ。
明け方2時ごろ、一階で入浴していた龍馬の恋人で、宿の養女であったお龍が窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり、二人に知らせた。しかし、すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。
[京都伏見寺田屋]
お龍の機転がなければどうなっていたかはわからないが、しかしこの安息も束の間であるということを、彼は知っていたのだろうか。龍馬の死は刻々と近づいていた。
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