『戊辰戦争』
上記の記事の続きだ。
こういう流れを見た。だが、実はその間の1867年11月には、多くの日本人がスルー出来ない出来事が起きていた。11月15日、京の宿屋『近江屋』にいたのは坂本龍馬だ。風邪気味で、寒さもこたえる。帯刀もしていなかった龍馬には、油断も隙もあった。そこに現れたのが京都見廻り役と名乗った数人の刺客である。龍馬と中岡慎太郎は頭部や全身を斬られ、そこで命を落とした。
彼を暗殺したのは『見廻組』とされているが、いくつかの説があるようだ。
1870年、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂早之助・土肥伴蔵・桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述しているので、一番濃厚なのは見廻り組である。
2010年に放送された大河ドラマ『龍馬伝』の最終回(11月28日放送)では、坂本龍馬を暗殺する実行犯として、京都見廻組の与力頭・今井信郎役に歌舞伎俳優の市川亀治郎が演じた。その他、今井と共に襲撃する京都見廻組の2人には、主役の福山雅治と縁深いミュージシャンが名を連ねている。
佐々木只三郎役には、元BLANKEY JET CITYのドラマーで俳優の中村達也が務め、渡辺篤役にはシンガーソングライターのSIONが起用。このSIONは、福山にとっての恩人のような人で、上京するきっかけや影響を与えてくれた敬愛する人物。このドラマにおける龍馬の最期にとって、相応しい人物だったようだ。この渡辺篤は、桜井大三郎の代わりに他の供述で名が挙がった人物だ。
見廻組は新選組と同じく、反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したが、管轄と身分の違いから、あまり共闘することはなかったという。
見廻組 | 御所や二条城周辺の官庁街 |
新選組 | 祇園や三条などの町人街・歓楽街 |
坂本龍馬が教科書から消える理由は、30年で4300もの新しい用語が足され、日本史の教科書が67ページも増えたことが原因だという。吉田松陰、武田信玄、上杉謙信といった人物もそれが原因で今後教科書から消えてしまう可能性があるという。だが私は歴史を調べなおして、安堵した。
何だ。確かにスポットライトを当てないと見つからない場所で動いた人たちだが、確かに存在し、そして極めて重要な存在だったんだ。その真実が消えることはないんだ。
元来私は、学校に過度の期待をしていない人間だったということを忘れていたようだ。彼らのことを知りたければいつでも知ることができる。かつて、一冊の本を手に入れるのに苦労した時代を生きた人からすれば、この時代はまさに天国だ。歴史の探究に主体性を持ったとき、彼らはいつでもそこで待ち受けてくれているだろう。
何がどうあれ、彼は自分の命を、使い切ったのだ。
高杉晋作も『第二次長州征討』の後、結核に倒れて死んだ。坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作という重要人物を失った討幕派。だが、『王政復古の大号令』と『辞官納地(じかんのうち)』、つまり慶喜に官職と所領の返上を行わせ、パワーバランスは俄然討幕派にあった。
しかし、これによって旧幕府軍が激怒し、1868年1月、鳥羽・伏見で『薩摩、長州、土佐、肥前(薩長土肥)』主体の新政府軍と武力衝突が起こった。『戊辰戦争(ぼしんせんそう)』である。明治元年の干支が戊辰であることに由来している。
[戊辰戦争中の薩摩藩の藩士(着色写真)。フェリーチェ・ベアト撮影]
戊辰戦争の動向
鳥羽・伏見の戦いでは、旧幕府軍が講義をする形で新政府軍に戦いを挑んだ形だ。しかし、新政府軍には最新兵器があり、圧倒的な戦力の差に旧幕府軍は太刀打ちできなかった。
[豊後橋で発生した戦闘]
江戸城無血開城は、新政府軍の西郷隆盛が、旧幕府軍の勝海舟が会談して成立した。それがなければ、江戸城は総攻撃され『無血』では済まなかっただろう。この時、消滅していく徳川側にも大きなドラマがあった。
『公武合体』を目指し、光明天皇の異母妹・和宮内親王(かずのみやないしんのう)と14代将軍家茂は政略結婚で結ばれていた。和宮と家茂は政略結婚による結婚だった。彼はともに17歳で、普通なら学生だ。しかし彼らの場合は特別だ。この国の命運が彼らの肩にかかっていた。彼女にはいいなずけがいたが、この国の未来の為に、大義を取った。
残念ながら、1866年に家茂が死去。彼女はその2年後、徳川家討伐のためにやってきた新政府軍に立ち向かった。
『官軍(新政府軍)差し向けられ、御取り潰しに相成り候(そうら)わば、私、一命は惜しみ申さず。』
つまり、家茂公に嫁いできた上は、亡き夫のためにも一命をかけて徳川家を守る覚悟だと主張したのだ。新政府軍への手紙攻勢には篤姫も参加。彼女らは最初、嫁姑のような関係で不和があったが、徳川家が滅ぼされようとするその時、同じ目的で気持ちが一つにまとまったのか、最後は戦友として共に立ち向かった。48歳で亡くなった篤姫は、所持金がたったの3円。32歳で亡くなった和宮は、東京の増上寺にて、家茂の隣に葬られた。
[和宮親子内親王の肖像画]
上野戦争(彰義隊の戦い)では、慶喜の警護として1000人の彰義隊が形成されたが、大村益次郎の指揮する新政府軍に1日で敗れた。大村は、23歳で蘭学を学び、伊達宗城に招かれて蘭学の教授を行い、軍制改革に参画。その活躍を知った木戸孝允から招かれ、36歳の頃に長州藩士となった。その後も、
など、確実に長州藩の『ブレイン(頭脳)』としての役割を果たしていた。この上野戦争では、アームストロング砲を使って布陣を組み、敗走路をあえて作って長期戦を避けるなど抜け目ない兵法を駆使し、新政府軍を勝利に導いた。
[110ポンド(7インチ)アームストロング砲]
[上野戦争の図。画題は『本能寺合戦の図』となっているが、実際には上野の戦闘を描いている。]
会津の戦いでは、『新選組』結成にも関わりが深い松平容保らと交戦した。松平は『逆族』として扱われ、新政府軍に攻撃されるが、圧倒的な兵力差の中、松平は1か月も籠城を続けた。これは、江戸城を総攻撃しようと考えていた新政府軍の部隊が、そのエネルギーの落としどころを探して戦いを始めた形だ。
五稜郭の戦いでは、旧幕臣の榎本武揚(えのもとたけあき)、新選組の土方歳三らが蝦夷地を占領し、五稜郭を拠点に『蝦夷共和国』の樹立を宣言していた。これが成立していたら、北海道には『蝦夷共和国』という国が生まれていたかもしれない。
[1864年オランダのハーグにて]
榎本は、
を学び、オランダに留学した後は、
を学び、軍人としての能力を確実につけていた。5年の留学後、オランダから軍艦『開陽丸』に乗って1868年の1月に帰国するが、その時はすでに『鳥羽・伏見の戦い』が始まっていたのである。しかし彼はこの決定に納得できなかった。そして、交戦派の幕臣らを仲間に入れ、蝦夷地へ向かい、函館を占領して五稜郭を本営とし、松前城、江差地方を攻略。そして、1868年12月に最大投票を得て、『蝦夷共和国』の初代総裁となる。
[五稜郭本陣 (明治元年冬撮影)]
その頃、新選組の二大巨頭、近藤勇と土方歳三は何をしていたか。実は、近藤勇は旧幕府軍として新政府軍と『鳥羽・伏見の戦い』から敗北し続け、1868年4月25日に35歳の人生の幕を閉じていた。首は板橋と三条河原で晒されたという。その右腕だった土方歳三は何を想っただろうか。先頭の激しさに敵前逃亡した味方を斬り、
と言い放ったという。新選組『鬼の副長』はまだ鼻息が荒かった。だが、あれよあれよという間に旧幕府軍は敗北を続け、そして兄貴分の近藤の斬首を知る。土方は、榎本武揚とともに蝦夷地へ渡り、大いに活躍した。
そう日ごろから口にしていた土方は、
このような言葉を死ぬ前に残したという。
[蝦夷へ向かう旧幕府軍]
新渡戸稲造の著書、『武士道』は、実にそうそうたる人物と照らし合わせ、その道について追及していて、奥深い。キリスト、アリストテレス、ソクラテス、プラトン、孔子、孟子、ニーチェ、エマーソン、デカルト、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉、枚挙に暇がない。本にはこうある。
『武士道においては、名誉の問題とともにある死は、多くの複雑な問題解決の鍵として受け入れられた。大志を抱くサムライにとっては、畳の上で死ぬことはむしろふがいない死であり、望むべき最後とは思われなかった。』
武士道が掲げる”7つの神髄”
著書にはこのようなことが書いてあり、『武士道』という道がどういう道であったか、一目瞭然となっている。上に挙げた『7つの神髄』を考えただけで、『武士道』という精神が当たり前に蔓延していた時代の人間が、どれだけ高潔な精神を追求していたかがよくわかる。この後、まだ武士の残党は日本に生き残るが、新選組を引っ張ったこの二大巨頭は、最後の最期まで武士道精神を貫いた、日本最後の『刀で戦った本物の武士』と言えるかもしれない。
『明治維新』とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいうが、薩長土肥の四藩中心に行われた江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。つまり、黒船来航に象徴される欧米列強の経済的・軍事的進出に対する抵抗運動(攘夷運動)に起源を持つため、明治維新は『江戸時代から明治時代になるまでの幕末と明治初期』の時期だ。
ペリーが来航し、この国に『尊王攘夷』の考え方が沸き上がったときから、明治維新は始まっていたのだ。そして薩長同盟、大政奉還、戊辰戦争が終わったとき、1868年から1912年までおよそ40年続く『明治時代』が始まった。
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこの時代の新選組をまとめた人気動画があります。
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