『伝統と革新』
上記の記事の続きだ。
などについて見てきたわけだが、まだまだ明治維新で変えるべき点がある。次は税制問題だ。これまで、年貢米を納めることが納税の中心だったが、米の不安定さは今までたくさん経験してきた。そこで、『価値が変わらないものを基準にし、定額の税をかけ、それをお金で納めさせる』ことにしたのだ。
『地租改正条例』が交付され、土地制度と税制度を一体化した『地租改正』が始まる。
これによって政府は安定した収入を得ることができるようになり、地価を定めたことで土地の売買が可能となり、これ以降土地は『不動産資産』として数えられるようになる。だが、負担が増した農民の一揆が相次ぎ、政府は税率の引き下げを認め、2.5%に下がった。
徴兵令や地租改正など、明治維新のこうした急速な近代化の要求は国民にストレスを与えたが、最初はいつも生き慣れた生活習慣にしがみつくものだ。人は現在の生活習慣の善悪に関係なく、その居心地がいいと思っている生活習慣に依存してしまうのである。
ただし、ストレスなく変化を楽しめるものもあった。それは例えば、坂本龍馬が初めて新婚旅行なるものをし、そして銃という珍しいものを手に入れ、写真というそれまでの常識を覆す新しい文化に好奇心がわいたように、髪形や食べ物、建築物などは別に変ってもよかったのだ。明治初年のこの頃、洋服、洋風建築が普及し、ガス灯が灯り、1872年には新橋・横浜間に鉄道が開通した。
また、次の新紙幣の顔、渋沢栄一もここで活躍した。『国立銀行条例』を制定し、紙幣の安定度を高める為に『国の法律に基づいて設立された民間銀行』という意味の国立銀行を設立し、いつでも額面と同額の金貨と交換可能な『兌換紙幣(だかんしへい)』を発行した。
引き換えられる、という意味。
これで紙幣が金と同等の価値を持ったのだが、人は紙幣よりも金を持ちたがったので、すぐに金貨に換えられてしまい、中止となった。また、この時期、主力輸出商品だった生糸の品質改良と増産を目指して『官営模範工場』の代表、『富岡製糸場』が設立された。ここにフランスの最新の技術が導入され、ここでトレーニングを受けた『工女』たちが全国の製糸工場に技術を伝えた。
[富岡製糸場 筆者撮影]
[富岡製糸場 工場内 筆者撮影]
[富岡製糸場 庭の桜 筆者撮影]
渋沢栄一は、三井、住友、三菱といった財閥形成をやろうと思えばできたがしなかった。私利を捨て、信念に生きた大実業家の名前にふさわしい人物だ。大蔵官僚となり、様々な面で国に貢献。その後、大久保利通と予算の編成で対立して辞職してからは、実業界で活躍する。
等、現在の日本人にとってはすっかり馴染みのある『あって当たり前』の国内必需施設とも言える会社の設立や経営に関わった。第一国立銀行は日本最古の銀行であり、日本郵政会社というのは、三菱の郵便汽船三菱会社と三井の共同運輸会社を合併したものだ。
この『義利合一』の教えを彼に教えたのは孔子と孟子だ。渋沢栄一の著書『論語と算盤』にはこうある。
(かの孔子、孟子の教えを、孔孟教というが、これは『儒教』のことである。儒教は別名『孔孟教』、つまり『孔子と孟子の教え』だ。)
その孔孟教の誤り伝えたる結果は、『利用厚生に従事する実業家の精神をしてほとんど総てを利己主義たらしめ、その念頭に仁義もなければ道徳もなく、甚だしきに至っては法網を潜られるだけ潜っても金儲けをしたいの一方にさせてしまった。従って、 今日のいわゆる実業家の多くは、自分さえ儲ければ他人や世間はどうあろうと構わないという腹で、もし社会的及び法律的の制裁が絶無としたならば、かれらは強奪すらし兼ねぬという情けない状態に 陥っている。
(中略)義利合一の信念を確立するように勉めなくてはならぬ。富みながらかつ仁義を行い得る例は沢山にある。義利合一に対する疑念は今日直ちに根本から一掃せねばならぬ。
だが、その三菱グループを作った岩崎彌太郎もすごい。坂本龍馬と同じ土佐出身の彼は、龍馬とほぼ同年代だ。事実、龍馬らの要請に応じたグラバーらと倍国人商人との貿易をし、三菱グループの基礎を作った。その後『九十九商会』を起こし、海運業に生きる。下記の記事で、清に琉球が日本に属することを直接認めさせた『台湾出兵』について書いたが、この軍事輸送を成功させ、大久保利通の信任を得ると、政府の海運助成政策の保護下で郵便事業などを任される。そしてこの九十九商会はのちに『三菱商会』となる。
また、後に書くが西南戦争の軍事輸送でも実績を積み、瞬く間に三菱を大企業へと押し上げていった。1929年にアメリカは『世界恐慌』を引き起こし、一時壊滅的な状況に陥る。そこでフランクリン・ルーズベルトが『ニューディール政策』によって回復を試みるが、実際にアメリカが回復できた理由は1939年の『第二次世界大戦』で武器生産体制が強化されたからだ。
戦争と武器。これに関わって大きな財産を得た三菱やアメリカは、確かに『巨大』である。だが、渋沢栄一のような人間がいる中で、真理と照らし合わせて考えると、渋沢栄一は『偉大』で、岩崎弥太郎は『猛者』となるだろう。猛者は強力だが、真理から愛されるのは偉大な人物である。
[グラバー(右)と岩崎弥之助]
とにかく、18世紀にイギリスで起こった『産業革命』が、19世紀になって日本でも巻き起こった。1880年代には次々と民間に事業が売却され、機械化された大規模な工業が発展。渋沢栄一の主導で1882年に大阪紡績会社、富岡製糸所などが設立される。
産業革命(第一次) | 繊維など軽工業中心 |
産業革命(第二次) | 重化学工業中心 |
1901年には官営八幡製作所など、世紀転換期に重工業が興り始め、日露戦争後に急加速した。『羽嶋炭鉱(軍艦島)』も、三菱所有となった1890年から捕獲的に稼働し、主に八幡製作所へ石炭を供給した。
彼と同い年の1834年生まれには、福沢諭吉もいる。福沢も日本の近代化を啓蒙思想家という立場で支えた。1858年に作った蘭学塾「一小家塾」がのちの学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。勝海舟などと共にアメリカに渡り、その体験を著した『西洋事情』を出版。これは大ヒットとなった。更に、1872年の『学問のすすめ』もベストセラー。明治政府からは何度もオファーがあったが断り、市井にて啓蒙していく立場を貫いた。
庶民。
明治の文化は西洋の刺激を受けながら発達した。1885年に坪内逍遥(しょうよう)が小説理論書の『小説神髄』を発表し、それまでの滑稽かつ勧善懲悪的な大衆文芸を脱却し、感情が写実的に描写される『近代小説』が唱えられる。これを皮切りに、近代文学が次々と登場。夏目漱石の『吾輩は猫である(1904年)』もそのうちの一つだ。
日清戦争後にはロマン主義の与謝野晶子、日露戦争後の社会問題の深刻化があった時代には、人間や社会の矛盾を突く、田山花袋等の自然主義文学が目立つようになる。
西洋が評価されたことにより、新し物好きの人間の習性が関係して和風の価値が落ちたので、それを回復させる運動も起きた。東大の教師として来日したアメリカ人フェノロサは日本美術を評価していて、弟子の岡倉天心とともにその復興に務めた。
ということだったわけだ。イェイツにも絶賛された代表作『ギータンジャリ』によって、1913年に東洋人初のノーベル賞となるノーベル文学賞を受賞したインド最大の詩人タゴールは、日本の美を愛し、日本に対する親しみも深く、岡倉天心らと親交があり何度も来日した。
彫刻では高村光雲(こううん)が木彫を復興し、洋画ではフランスに留学した黒田清輝(せいき)らが日本における洋画の基礎を築く。政府が招いた外国人建築家の尽力で、西洋建築も発展し、ニコライ堂、旧岩崎邸、東京駅などの豪華な建造物が作られた。旧岩崎邸は鹿鳴館を設計したイギリス人コンドルが設計し、東京駅はその弟子の辰野金吾が設計した。
[東京駅 筆者撮影]
等、様々な文化人が、活躍し、色々な方向からこの国に貢献した。
正岡子規は言った。
『明治維新の改革を成就したものは、20歳前後の田舎の青年であって、幕府の老人ではなかった。何事によらず、革命または改良ということは、必ず新たに世の中に出てきた青年の力であって、従来世の中に立っておったところの老人が、説をひるがえしたために革命または改良が行われたという事は、ほとんどその例がない』
江戸幕府があったときもそうだし、明治維新後の政治家もそうだが、そこにいたのは『老害』にも似た『権力を持った中高年』の姿だった。彼らは経験豊富であり、積み上げたものが違うからして、信頼も厚い。しかし、そこに同時にあるのは『年寄りの傲慢』だ。この後、資本主義が急速に進展し、労働者が劣悪な環境に置かれるなどして、社会主義者が出始めたとき、明治天皇の暗殺を計画する人間が現れる。これにより、社会主義者の一斉逮捕と処刑が行われた。
1910年、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)とその仲間合計26人は、大逆罪で多補された。大逆罪とは、
『天皇や皇太子などに対し危害を加えわるいは加えようとしたものは死刑』
というもので、証拠調べの一切ない、非公開の裁判で裁かれるしかも1回のみの公判で、上告なしである。社会主義者たちの一掃をはかった権力により、幸徳らは大逆罪に問われ、処刑された。1947年改正前の刑法第73条がこれだ。
天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ
危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス
そして現在は廃止されている。
第二次世界大戦後、日本国憲法の制定とともに関連法制の改正が行われた際に、大逆罪などの「皇室に対する罪」の改正は当初予定されてはいなかった。なぜならば、新憲法でも天皇は国家及び国民統合の「象徴」であり、それを守るための特別の刑罰は許されると解釈されていたためである。これに対して、GHQは大逆罪などの存続は国民主権の理念に反するとの観点からこれを許容しなかった。当時の内閣総理大臣吉田茂みずからがGHQの説得にあたったものの拒絶され、ついに政府も大逆罪以下皇室に対する罪の廃止に同意せざるをえなくなった。
この『大逆事件』を受けて、日本の革命家、徳富蘆花(とくとみろか)は、
『死刑ではない、暗殺である』
と意見を主張し続けた。長い徳川時代が1867年に終わり、日本の『天皇崇拝』の思想が蔓延する敬意を随所で見てきているが、もう一度まとめてみよう。本居宣長(もとおりのりなが)が古事記を再研究し、平田篤胤(あつたね)が儒教・仏教の影響を排除した影響を排除した『復古神道』を提唱。
尊王攘夷論(幕末のスローガン)
つまり、
こういった人物たちがこの幕末の時代の日本人の思想に『尊王攘夷』という概念を植え付けた。そして『天皇を中心とした集権国家づくり』、そして『天皇の権限が強い憲法をつくる』。こういう流れになったわけだ。この国は生まれ変わった。だが、それは同時に『試行錯誤が始まった』とも言えるわけだ。この国はこの後、
という世界規模の戦争を繰り広げ、中大兄皇子が645年に『大化の改新』で始めた『天皇を中心とした集権国家づくり』の『行きつく先』をついにその目に焼き付けることになるのである。
次の記事
該当する年表
SNS
参考文献