『国会建設への道』
上記の記事の続きだ。
などがあった。そして、大隈重信は政府を下ろされた。『明治十四年の政変』によって10年後の国会開設を約束。それが1881年のことだ。大隈重信がいなくなったので、もうリーダーは伊藤博文しかいなくなったわけだ。そして冒頭の記事で少し触れたが、板垣退助は『自由党』を作り、大隈重信も、罷免された翌年の1882年に『立憲改進党』を結成する。今までのように『非公式的』に集会を行っていた人々は、徐々に『公式的』な存在になっていく。こうして『政党』がこの国に台頭し始めるのである。
リーダー | 党名 | 影響 | 方向性 | 選挙方法 |
板垣退助 | 自由党 | フランス | 急進主義 | 主権在民・普通選挙 |
大隈重信 | 立憲改進党 | イギリス | 漸進主義 | 君民同治・制限選挙 |
フランス、イギリスのやり方はそれぞれ違っていて、同じように発展していた。この時は、フランスとイギリスはライバルとして競り合っていた。ヨーロッパの覇権の推移を見てみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
そしてこの後だ。規模もヨーロッパから『世界』へと変え、まとめ方は『世界で強い勢力を持った国』とする。
17世紀のイギリス以降世界で強い勢力を持った国
状況的には、ちょうどフランスがドイツのビスマルクに負け、『ビスマルク体制』に入っていた時期ではあるが、フランス、イギリス、ドイツといった三国がこの世界をリードしていた。この後、アフリカ大陸を攻める際にスーダンのファショダで接触し、フランスとイギリスは一触即発となった(ファショダ事件)が、フランスの敵はあくまでもドイツだったため、イギリスに一歩譲り、衝突は免れた。これが1898年。
だからこの両国は模範の対象だったのである。フランスのように民衆が権利を強く持つ国か、イギリスのように納税額が多い人ほど貢献度が高く、選挙権が得られるという考えがある国か、どちらの方向性で行くかによって、意見が割れたのである。
とにかくまずは国会建設に備えて憲法作成をする必要があり、伊藤博文はヨーロッパに渡ってドイツのベルリン、オーストリアのウィーンの大学で憲法の理論を学んだ。そして、もう一つの強国であったドイツの憲法を見習い、天皇の権限が強い憲法をつくるべきだと考えた。ドイツの憲法は君主権が強いので、それに影響を受けた形だ。
明治維新の流れ的に考えても、佐幕(公武合体)と倒幕(尊王)の対立によって多くの人が幕末に倒れたわけだ。『天皇を中心とした集権国家づくり』をする方向でまとまったことを考えても、伊藤博文がそう考えるようになるのは自然な流れだった。
徳川・江戸幕府の腐敗があったこと、そして本居宣長(もとおりのりなが)が古事記を再研究し、平田篤胤(あつたね)が儒教・仏教の影響を排除した影響を排除した『復古神道』を提唱し、これによって、日本に『天皇に忠義を尽くし、外国を追い払う尊王攘夷』という考え方が根付くようになり、
[本居宣長]
更にそこに、徳川光圀の『水戸学』が加わって、徐々に『天皇中心に幕藩体制を強化する』という思想になり、こういった思想家たちの解釈と心の動きが、幕末の『尊王攘夷論』に影響し、そしてそれが明治のこの時代にも強く影響していたわけである。
尊王攘夷論(幕末のスローガン)
つまり、
こういった人物たちがこの幕末の時代の日本人の思想に『尊王攘夷』という概念を植え付けたわけだ。そしてこの時伊藤博文は、この『天皇を中心とした集権国家づくり』、そして『天皇の権限が強い憲法をつくる』ということが、後の日本にどういう影響を与えるかということについてはわかっていない。未来がわかる人間など存在しないからだ。
少なくとも、後にこれが戦争の種の一つとなってしまうとは考えず、『戦争はすでに始まっていて』、その脅威から自分たちを守るために、民族性を再確認し、自らを鼓舞し、『徴兵制』等を用いて主体的に富国強兵し、心身ともに強くなり、
と言って、一つにまとまることを念頭に置いていたのだ。それは、多くの戦友とこの国の仲間を失った生の経験が色濃く存在する、彼ら最前線にいく為政者たちの使命でもあった。
彼らの死を、決して、決して無駄にしてはいかん。
この時、『日本銀行』が作られる。『国立銀行条例』を制定し、紙幣の安定度を高める為に『国の法律に基づいて設立された民間銀行』という意味の国立銀行を設立し、いつでも額面と同額の金貨と交換可能な『兌換紙幣(だかんしへい)』を発行し、第一国立銀行という日本最古の銀行も作った。
その銀行と紙幣のシステムを更に改良したのが松方正義だ。冒頭の記事で、大隈重信が『不換紙幣』を大量印刷してインフレを起こしてしまったと書いたが、この時大蔵卿だった松方の場合、最適化に成功する。歳入の一部を銀貨に替えて蓄え、銀貨を十分に貯める。そしてその銀貨と交換できる新しい『兌換紙幣』を作った。その発行の為に作った銀行が『日本銀行』だ。紙幣の価値が銀と結びつけられているこの仕組みを『銀本位制度』という。
[日本銀行]
国・地方公共団体の一会計年度における一切の収入。
これにより、インフレが改善。紙幣の流通量が減少し、お金の価値が戻った。だが、そうなると今度は民衆が困りだす。お金がなくなるので、支払いの負担が大きくなり、借金をしたり土地を売ったりする人々が現れ、生活苦によって暴動も起きるようになった。しかし、お金の価値自体は上がったので、経済的にはこれで正常となったのだ。そもそもが、『お金が必要以上にある』状態が、社会を壊す元凶となるのである。これによって経済が回りだす。
お金を稼がなければならない!
とみんなが考えるから、活発的にビジネスをやるようになる。企業は銀行や資本家から資金調達しやすくなり、会社設立のブームが訪れ、日本の産業化が進むというメリットも生まれたのである。
では、『岩倉使節団』が失敗した外国との『不平等条約』の問題はどうなっただろうか。外務卿だった井上馨は、まずは『形から』彼ら欧米に肩を並べようとし、『鹿鳴館』という洋館を作って、そこで連日舞踏会を開き、欧米の外交官を接待して、優雅に振舞った。
[鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵]
等の様々な『接待』をして外国人を持ち上げたのだが、国内からは批判され、『領事裁判権』の撤廃の交渉もうまくいかなかった。
日本国内で外国人が犯罪をしても日本の司法権が及ばない取り決め。
安い外国製品の流入を防ぐための関税を自主的に決める権限。
この時日本は、
もっとこの国を強くしなければならない!このままでは外国に負け、最悪の場合は植民地化もあり得る!
という強い気持ちに駆られていた。、『奇才』高杉晋作も、1862年に幕府使節随行員として上海に渡ったとき、すでに欧米によって半植民地化された清の姿を見て、衝撃を受け、日本がこの二の舞になってはならないと判断し、この国の改革をするべきだと決意し、過激なテロ活動を行ったのだ。彼に取ってはそれはテロではなく、『開かない金庫を無理矢理開ける爆破作業』のようなものだった。幕末にあった革命は、すべてそう例えられる行動だった。
目を覚ませ!腐敗している場合じゃない!今すぐ富国強兵に動き出すんだ!
そういう叫び声が、幕末の日本全国で響き渡ったのである。
まずは穏便に欧米の機嫌をうかがったが駄目だった。では次にやるべきなのは何か。『日本の強化』だ。1853年、ロシアは聖地エルサレムの管理権を要求し、ロシアは自ら戦争を起こし、オスマン帝国を正面から潰そうとする。『クリミア戦争』である。しかし、オスマン帝国がフランスとイギリスに支援を要求し、ライバルではあったが利害関係が一致した両国は、
ロシアにこれ以上力をつけられては困る
ということで、オスマン帝国側につく。ヴィクトリア女王、ナポレオン3世を味方につけたオスマン帝国に、敗北してしまう。それでも徴兵制を実施したりして国力を強化したロシアは、1877年、ロシアはまたオスマン帝国と戦争を起こす。『露土戦争』である。今回はロシアの勝利に終わった。
[露土戦争最大の激戦地シプカ峠の戦いシプカ峠は現在のブルガリアに位置する。1877年7月の戦いでロシア軍が確保、その後2度にわたるオスマン軍の攻撃から峠を死守し、1878年1月にはオスマン軍を完全に撃退した]
を独立させ、ロシアの保護国とすることをオスマン帝国に承認させた。しかし、やはり列強はこれを面白く思わなかった。ドイツのビスマルクが仲介役となり、
といった列強の同意をとりつけ『ベルリン会議』を開催し、『サン・ステファン条約』でロシアは利権を大幅に縮小され、南下政策は再び失敗してしまった。
[会議における各国代表の様子]
地中海に出ると、ヨーロッパが敵になるか…。
そう考えたロシアは、方向転換して東アジア方面の不凍港を見つけようとする。そこにあったのが朝鮮半島だ。しかし、ロシアが朝鮮半島を制圧したらどうなる。この国は更に海外からのリスクにさらされることになる。
ロシアが朝鮮半島を落とす前に、我々が朝鮮半島を支配下に置かなければまずいぞ!
そう考えた日本は、朝鮮半島に目を向けるようになる。日本は、1875年に江華島事件を機に朝鮮を開国させ、近代外交の主導者となり、日本が朝鮮の独立を約束した条件である『日朝修好条規』を結んでいた。しかし朝鮮内では、『親日派』と『親清派』に分かれて、対立してしまう。つまり、『日本と中国のどちらに付くか』ということが問題視されたのである。
独立を約束した条件と言っても、日本は朝鮮を植民地化しようとしていた。しかし、そうなれば清が黙っていない。当時、朝鮮は清の属国だったのだ。朝鮮としては、清、日本、どちら側も捨てがたかった。清と関係を断ち切りたいという人もいたし、そうでない人もいたのである。
1884年、朝鮮半島で開化派の朝鮮独立党によるクーデターである『甲申政変(こうしんせいへん)』が起きる。この甲申政変(甲申事変)は失敗の形に終わった。『親日派』の勢いが抑えられたので、朝鮮に進出することができなかったからだ。そして、日清はあわや軍事衝突の危機となる。その後、伊藤博文が清に向かい、清末政界の最大の実力者と言われた李鴻章(りこうしょう)と『天津条約』を結んで、双方とも軍隊を引き揚げる。
日本の国力を疑う国内の声が上がった。冒頭で書いた福沢諭吉も1885年の『脱亜論』は、このときの朝鮮の対応に対して疑問視したことで生まれたものだった。清や朝鮮といったアジア諸国が、いつまでも近代化に対する保守的な発想を捨てきれないため、『アジアの成長の歩幅に合わせてはいけない!』という主張が込められていたのだ。この甲申政変は近代化を図るクーデターだった。『西洋事情』を著し、世界的な情勢の歩幅を知った福沢からすれば、アジアの成長速度は遅かったのである。それは、現在進行形でそうだと言えるだろう。
日本の強化を急がねば!
至る所で為政者を筆頭とするこの時代の日本人たちが、この国の悲惨な未来を重い描き、その方向へ行かないように、あらゆる手を考えて軌道修正を試みた。それはもちろん、幕末の時代に死んだ大勢の人々の命の温度が、彼らの体温に生々しく残っていたということも大きな理由の一つだった。
次の記事
該当する年表
SNS
参考文献