『帝国議会開幕』
上記の記事の続きだ。天皇が『天皇大権』を得て、内閣との『二重権力構造』になったのはいいが国民との距離は広がる一方だ。国民の権利の規定はあったが、『法律の範囲内』での保障に過ぎず、この時点ではまだまだ格差が広がっていた。議会は『帝国議会』と呼ばれ、
の二院制を取った。議会制度発祥の国であるイギリスでは、世襲貴族からなる『貴族院』と、選挙によって選ばれた『庶民院』の2つを設け、身分の異なる人々から募った多角的な意見を政治に反映させる仕組みを取り入れていれた。つまり、
ということである。この二院制も、イギリスのそれに近いかっちだ。これが戦後になると、華族などの身分制が撤廃されるため、現在では身分ではなく、任期、定数、被選挙権など『選ばれ方』に違いを設け『参議院』が加わって、衆議院との二院制となっていく。これらは天皇の協賛機関とされ、法律や予算を決定することで天皇の政治運営に協力していく、という位置づけだった。
しかし憲法と同じ日に公布された『衆議院議員選挙法』は、『地租や所得税など『直接国税』とされる税を15円以上納めている25歳以上の男性』に選挙権を与え、その条件をクリアする人はわずか1.1%。それに該当するのは広大な土地を持つ大地主くらいのものだった。明治30年(1897年)頃で庶民にとって当時の1円は『2万円』程度だったとされているので、15円というのは『30万円』だ。この時代なら月にそれくらいの給料を貰っているのでも高給取りなのに、その額の『税金』を納めている人なのだから、それはわずかしかいなかったのである。
翌日、黒田清隆は『超然演説』を行い、
と宣言。つまり、特定の政党が有利にならないように、政党の外に立ち、公明正大な判断をするということだったが、実際の意味は『民衆たちの意見に耳は傾けない』という意思表明だったという。まだまだこの時点では、最下層にいる人々の意見はないがしろにされたのである。これは、前任の伊藤博文の考えでもあった。伊藤も最初、政府と政党は相いれないものとし、『国政は特定の党派的な利害を代表する政党が行うものではなく、常に中立の立場にある政府が執行するべきものだ』と考えていた。
その頃、黒田内閣の外務大臣として条約改正交渉をしていたのが大隈重信。アメリカ・ドイツ・ロシアと条約改正の合意をこぎつけるが、条約の補足の条文中で現在の最高裁判所にあたる『大審院』における外国人の判事の任用を認めていたことが明らかになり、反対派に襲撃され、爆弾を投げつけられて右足を切断し、外務大臣を辞職する。条約改正問題は再度足踏みとなり、黒田内閣も辞任することになった。
ただ、大隈重信は中々の人物で、
と笑い飛ばしたという。彼が死ぬのは1922年だが、その葬儀には20万~30万人ともいわれる人々が集まり、その死を悼んだという。多くの人に愛され、信頼された人物だったのである。
三代目総理大臣は山県有朋(ありとも)だ。この時、第1回衆議院議員選挙が行われ、結果『民党』といわれる反政府的な自由民権派の政党勢力が過半数を占めた。選挙権を持つ人の大部分は大地主なので、地租が軽くなれば都合がいい。当戦した議員の過半数は民衆の側に立ち、減税を求めた。
[山県有朋]
山形は『THE・軍人』のような人物で、天皇中心の絶対的専制主義国家を確立するために奮闘した。軍を陸海軍に分け、徴兵制を導入し、軍隊の近代化を進めたのも彼が中心となってやったことだ。自由民権運動など、反政府活動を徹底的に弾圧した。そのシビアな考え方はこの時代の日本にとって当てはまる面もあったが、大隈重信と違って、葬式に参加したのは文官・武官の大物と軍人だけだったという。葬式に来た人の数はその人物の価値と比例しないが、彼はそれだけ厳格で、徹底的だったということだ。
内閣ができ、憲法が制定し、衆議院議員選挙が行われ、国会の準備が整ったところで、いよいよ第1回議会が開かれる。
を訴えた国民は、とにかく国民に負担がないように求めるが、海外事情のことを考えるとむしろ軍事費を拡張したいと考えていた。
といった外国の脅威は、取り急ぎの問題として早急に何とかする必要があったのだ。
結局第1議会から話は平行線でまとまらず、予算が成立しなかった。そして、その不名誉を避けようとした政府は民党の議員を買収し、無理矢理予算を成立させた。最初の議会から、すでに金を使った政治が行われていたのである。政治と金が切っても切れない状況にあるのがよくわかるワンシーンである。
更に言えばこの100年前、10代将軍徳川家治(いえはる)の時代(在職:宝暦10年(1760年) – 天明6年(1786年))は、老中の田沼意次(おきつぐ)が実権を握る『田沼時代』と言われた。田沼政治は『金に汚い』という悪評をつけられてしまう。しかし実際には彼一人が『賄賂政治』の悪名を負っただけで、この時代は賄賂政治は当たり前のように行われていたという。
もっと言うなら、1400年代あたりの室町時代に貨幣が浸透して貨幣経済が発展したとき、この国の表舞台に『庶民』が登場し、『力づくで成り上がる武士』とは違う方向で、『金の力で成り上がる豪商』という存在が台頭するようになった。
室町時代の庶民たちの変化
[左:初鰹を売る振売。「守貞漫稿」より 右:箱詰めのすしを売る振売。「守貞漫稿」より]
時代劇でよく見るこうした行商人がこの頃になると頻繁に見られるようになるわけだ。そして、高利貸しをした酒屋・土倉(どそう)は莫大な営業税を払う代わりに幕府の保護を受け成長し、後の戦国末に台頭する『豪商』の先駆けとなった。
鎌倉時代および室町時代の金融業者。現在の質屋のように物品を質草として担保とし、その質草に相当する金額の金銭を高利で貸与した。
明治維新の中で『徴兵令』が出て、『もう国民が刀を持つ必要はない』として『廃刀令』が出る。そうしてこの国から武士が少しずついなくなる中で、『武力』ではなく『知力』によって国を変える雰囲気が作り上げられていった。
そして、『武力以外の力』の中には『財力』もあったのだ。政治と金問題の根幹にあるのは『力の利用と融合』。かつて、戦国時代に政略結婚をさせて権力者の後継者となり、その大名の支配下を得ながら権力を拡大していき、競り合ったように、時代が変わっても人がやることは変わらないということだ。『力の利用と融合』によって『より大きな力』を得て、都合のいい方向に話を進めていく。それははるか昔から行われてきたことだった。
もちろん、だからといってそれが『正しい』ということではない。『昔からやっている』ということで、生贄や晒し首をしてみればよくわかるだろう。すぐに逮捕されて、社会不適合者の烙印を押され、檻のついた病院生活を送ることになる。
さて、四代目総理大臣は松方正義だ。しかし第2議会も民党と政府が対立して平行線となる。薩摩出身の松方に対する批判も集まった。
政府と民党の対立は深まるばかりだった。この第2議会では、栃木県出身の議員、田中正造が『足尾銅山』の排水が渡良瀬川に流れ込み、魚の死滅や田畑の荒廃などを招いているとう意見もあった。この時、産業が発展すれば環境も悪化するという問題が表面化するという、重要な事実を思い知ることになる。しかし、当時の人々はそこまでこの問題を重視していなかった。
[松方正義]
五木寛之の著書、『大河の一滴』にはこうある。
当時の行政官の告白…『自分たちは分かっていた。あの工場が有明海に有毒な汚染物質を流しだしていたことは、当然のように理解していた。けれど、その時点では止めることが出来なかった。なぜかというと、それは当時の日本が飢えていたからだ。食糧増産のためには、農村に科学肥料を送る必要があった。もしもあの時点で汚染を恐れて工場の操業を止めていたならば、日本の復興は二十年ほど遅れていただろう』
環境問題に少しでも興味がある人は、聞き捨てならない出来事だった。
後にこの国の人々に大きな影響を与え、現在進行形で映画の興行収入国内ランキングで圧倒的1位を確保し、10位までのほとんどをその作品で占める監督になる、宮崎駿は言った。
『僕等自身がこの時代を生きてきて、ビニールが出来た時にすごい物ができたと感動し、アメリカの自動車ラッシュの渋滞の写真を見てすごいなと感動したり、農薬が出来た時に日本の米は助かったって思い、化学肥料が出来た時もそう思った。しかし、全部裏目に出ちゃったわけですね。誰か責めるわけにはいかなんですよ。僕ら加担したわけですよね。』
この環境問題から生まれた名作が、あの『風の谷のナウシカ』である。人々が躍起になって『富国強兵』と『国民の権利』を主張する中、そのエゴイズムにも似た人間の欲望の犠牲になったのは、まぎれもなくこの『地球』だった。
インディアンのクリー族にはこういう言葉がある。
しかし、この時のこの星に住んでいる人間たちは、自分たちのエゴイズムを満たすことで頭がいっぱいだった。海外ではすでに多くの戦争が行われてきたが、モンゴル帝国の『蒙古襲来』、豊臣秀吉の『朝鮮出兵』以降、いよいよこの国も海外との本格的な戦争を始めていくのである。
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