『日清戦争』
上記の記事の続きだ。さて、『日清戦争(1894年7月25日 – 1895年11月30)』が始まる前にあった出来事を見てみよう。イギリスは、ロシアの南下政策を警戒し、日本との関係を改善して日本を『盾』にしようと考えた。世界史だけ学ぶと、ここは『日本がイギリスと協力し』とだけあるのでわからないが、更に厳密に紐解くと、こうした事情が垣間見えることになるのだ。
青木周蔵は、兼ねてから問題視されていた『領事裁判権』と『関税自主権』の撤廃をこのタイミングで一部だけ成功させる。
日本国内で外国人が犯罪をしても日本の司法権が及ばない取り決め。
安い外国製品の流入を防ぐための関税を自主的に決める権限。
しかし、日本を訪れていたロシア皇太子が滋賀県の大津で日本の巡査に斬りつけられる『大津事件』が発生。青木周蔵は責任をとって辞任し、イギリスとの交渉が再び中断してしまった。この皇太子はのちに『皇帝ニコライ2世』となる人物。日露戦争の際に指揮を執る人物だった。
[事件前に訪問した長崎でのニコライ皇太子(上野彦馬撮影)]
松方内閣は第2回総選挙にて民党に敗北し、警官を使って選挙干渉して邪魔をしたこともあって責任を問われ、総辞職。次の内閣を組閣したのは、再び伊藤博文だった。伊藤は、
を大臣として内閣入りさせ、民党対策を講じた。彼らは共に明治維新で戦った功労者(元勲)だったため、『元勲内閣』といわれたが、そうでもしなければ目の前の問題を解決できそうもなかったのだ。民党を含めた多くの国民は、もちろん『国家優先』の考え方をするが、政府は政府で同じように『国家優先』の考え方をしていた。つまり、
という二方向の『国家優先』の考え方があり、これがいつまでも対立して足踏みしていたのだ。むしろ、民党が優先になりがちだった。しかし実際には、目の前に外国の脅威が迫っている。上の者は俯瞰的に、下の者は近視眼的的にこの国を見ていて、この時ばかりは俯瞰的な視野を持っていた上の者の意見が正しかったと言えるだろう。
何しろ、彼ら国民は間違いなく戦争が起きあとに、後手に回る政府を、後で厳しく批判するからだ。いや、批判する人間も残らないかもしれない。それが戦争というものなのである。この時、清は『洋務運動』を行って近代化政策をとり、艦隊の整備を積極的に行い、兵器工場の建設や鉱山の開発などを通じて、富国強兵を進めた。
このままでは清に負けるぞ!ロシアに負けるぞ!
そもそも戦争自体があってはならないが、こう判断して富国強兵に目を向けた判断は間違っていなかっただろう。
[福建省福州の造船所・福州船政局]
では、頓挫したイギリスとの交渉はどうなったか。青木周蔵の次に交渉にあたった陸奥宗光(むつむねみつ)は、イギリスと交渉し、『領事裁判権』と『関税自主権』の部分的回復を認めた『日英通商航海条約』を締結させる。イギリスとしても、ロシアの勢いを止める為に日本の協力を得ないわけにはいかなかった。そして日本は、アメリカ、フランス、ドイツなどとも同じように不平等条約項を撤廃させ、欧米諸国と対等な立場に近づけたのである。
このように、世界的な勢力問題に乗じて日本が権力を得るという事例は、この後も発生することになる。『第二次世界大戦』の後、問題になったのはアメリカとソ連の『冷戦』だった。彼らの水面下での戦争はそこかしこで行われ、代理戦争として様々な国も巻き込まれることになる。
『ベトナム戦争(1955年11月 – 1975年4月30日)』は、アメリカとソ連の『冷戦』の間接的な戦場だった。アメリカは『自由主義』、ソ連は『社会主義国』を拡大させたくてお互いが対立していたが、直接的に戦いあうわけじゃなかったので、それは『冷戦』と呼ばれていた。その後、米ソは1960年代平和共存外交を展開するが、他の地域で代理戦争を起こす。その影響を強く受けたのが、東南アジアだったのだ。
ソ連は『1948~1979年』の約30年間の間に行われた戦争、『中東戦争』でアラブ側の支援を行っていた。アメリカ・イギリス・フランスがイスラエルに、ソ連がアラブ側に対し支援や武器を供給していたことから、この中東戦争も代理戦争の側面も含むと言われていたのだ。
そして1979年にソ連がアフガニスタンを侵攻する。そしてやはりその背景にいたのは『アメリカ』だったのだ。この戦争も、結局は『米ソの代理戦争』になっていたのである。直接の戦争はしないが、裏から操って代わりにその国の人々に争わせ、利権を得る。こうした海外の策略もこの幕末の日本に存在していたのである。
また、『朝鮮半島』は第二次世界大戦の後、北緯38度線を境に、米ソによる分割を受ける。北はソ連、南はアメリカによって支配された。そして東西冷戦が進行する中、南北に分断されて、この2つの国が生まれたわけだ。『北朝鮮』と『韓国』である。
といった反米親ソ勢力を作ってしまったアメリカは、1951年に『サンフランシスコ講和条約』を結び、1960年(昭和35年)1月19日にワシントンで『日米安全保障条約』を締結し、日本を東アジアにおけるアメリカの有力な同盟国にしたのである。
これを、今回のケースと比較して考えてみよう。
日本を本当に見下しているなら、戦争を引き起こして叩き潰し、属国にすればいいわけだ。しかしそうはせずにこの国の存続を許し、関係改善を認めた。誰がどのように立ち回り、このような結果に導いたかはわからないが、自然にそうなったにせよ、外国がある種の評価をこの国にしたにせよ、あるいは何らかの戦略のもとにそうしたにせよ、誰かが上手に立ち回ったにせよ、いずれにせよ、この国の人間は『こういう結果を導くだけの賢さ』を持ち合わせていたということになる。
さて、いよいよ『日清戦争(1894年7月25日 – 1895年11月30)』が始まる。1894年、『甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)』という大規模な農民の反乱が起き、日清の関係が悪化することになる。そして朝鮮は清に出兵を要請し、日本も朝鮮にある自国公使館を守るなどの名目で出兵し、日清両国は、一触即発となる。そしてついに、1894年8月、日本が清に宣戦布告し、『日清戦争』が始まる。しかし、富国強兵に努めた日本軍が圧倒的に強く、日清戦争は日本の圧倒的に有利に進んでいく。
実に半年足らずの時間で、日清両国の講和条約が下関で結ばれた。1895年の『下関条約』である。清を破って有利な条件を突き付けたイギリス同様、日本も戦争に勝ったことで、遼東半島を領土化し、賠償金2億両(テール)を支払い、朝鮮は独立を認められた。
[日本軍歩兵の一斉射撃]
世界史的な視点から見た話は上記の記事に書いたが、この『下関条約』によって朝鮮が独立し、清から離れたことにより、日本は朝鮮半島に進出しやすくなった。そして朝鮮はこのあと『大韓帝国(1897年~1910年)』と改称することになる。しかし、見てのとおりたったの13年だ。その後1910年~1945年までの間は、朝鮮は『大日本帝国』の一部として数えられることになる。
しかしロシアは、フランスドイツとともに『三国干渉』で日本に圧力をかけ、遼東半島を清に返還させた。そんなロシアをよく思わなかった日本は、イギリスと『日英同盟』を結び、そこにアメリカも参入。日本とイギリスは、ロシアの勢力拡大を拒絶した。そしてそれが後の『日露戦争』に繋がっていく。
[ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている]
遼東半島を手放すことになったが、台湾は日本が領有することになった。『台湾総督府』が置かれ、日本の領地が拡大化していく。この時点で、蝦夷地、琉球王国、台湾と、次々と領地を拡大していた日本。明治維新で新しい日本を作り、日清戦争にも勝ち、実に大船に乗ったような安心感と、同時に優越感という『思いあがり』を持ちながら、刻々と『帝国日本』の考え方を強化していくのである。
蝦夷地が北海道に代わった年 | 1869年 |
琉球王国が沖縄になった年 | 1879年 |
台湾総督府が置かれた年 | 1895年 |
かつて伊藤博文、高杉晋作、木戸孝允といった幕末・明治維新の重要人物を指導した吉田松陰は、『松下村塾(しょうかそんじゅく)』を再興し、人々の思想を鍛えた。松陰は、
北はカムチャッカ、南はルソン(フィリピン北部)まで領有するべきだ。
と考えていて、その考え方が弟子を通じて、明治新政府の富国強兵、植民地政策に反映されていった。そう考えると、日本を守ろうとした松陰は正しくもあり、別の面から見ると『帝国主義』の思想を煽ったわけで、ヒトラーその他の帝国主義者と変わらない、度が過ぎた愛国心を持った人物だったと言えるだろう。何しろフィリピンの人はどうする。彼らの国を支配することは、日本の為に仕方ないとでも言うのだろうか。
マイケル・サンデルは言った。
見るべきなのは以下の黄金律である。
しかし彼ら先人が日本を守ったから現在の我々があるのも確かだ。ここまでのヨーロッパの覇権の推移を見てみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
そしてこの後だ。規模もヨーロッパから『世界』へと変え、まとめ方は『世界で強い勢力を持った国』とする。
17世紀のイギリス以降世界で強い勢力を持った国
この頃、時代はまさに『大英帝国』の『パクス・ブリタニカ』。そして同時にドイツ帝国の『ビスマルク体制』が存在していた。
この風刺画では、世界中の視線が紺色のプロイセン(ドイツ帝国)に向けられている。19世紀後半のこのヨーロッパの国際秩序は、『ビスマルク体制』と呼ばれるほど、ドイツ(ビスマルク)の影響が強かった。
イギリス帝国の最盛期である19世紀半ばごろから20世紀初頭までの期間を表した言葉。特に「世界の工場」と呼ばれた1850年頃から1870年頃までを指すことも多い。
世界にこうした『帝国主義』かつ『勢いのある国』が存在する以上、そして植民地化された国々が実在してしまっている以上、日本もそれに対抗しなければならなかった。そういう時代背景も、もちろん考慮しなければならないだろう。真理の面からすればすべて間違いだが、この時代を生きる世界のすべての人々は、1500年代にあったスペイン・ポルトガルの『大航海時代』で始まった『世界の一体化』からまだ慣れていなかったのだ。
冒険心や好奇心的といった純粋な探求心もあっただろうし、それに交じって強欲も存在していた。
この時点ですでに『戦争』という間違いを犯してしまっていた人間だが、そうなると紀元前7世紀の最初の帝国アッシリア、いや、それよりももっと前から争いや犯罪は存在していた。この後起こる『世界規模の戦争』は、はるか昔にこの星に住む人間が始めた『暴力』を含めた様々な『不義』に大きな一段階をつける、重要な出来事だったと言えるだろう。
アインシュタインは言った。
行くところまで行かないと人間は軌道修正ができない。人間にその大きな欠点を自覚させたのは、『戦争』だったのである。
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