『政党内閣誕生』
上記の記事の続きだ。『日清戦争(1894年7月25日 – 1895年11月30)』に勝ったことで、対立していた政府と政党の関係が良くなった。第2次伊藤内閣は自由党の板垣退助を内務大臣に加え、自由党も政府を支持するようになり、日本が一丸となっていく。元々、『国を守り、国を良くする』ということを考えていた彼らは、そのやり方に対する考え方だけが異なっていたわけで、『日本以外の国を倒す』という一つの共通目的を果たした今、彼らに元々あった共通項を確認でき、それで一心同体となれたのだろう。
その後、もう一度松方正義が総理大臣となる。松方は4代目であり、今回の6代目で二度目の総理大臣だ。進歩党の大隈重信を外務大臣として入閣させ、どちらにせよ政府と政党の関係は良好だった。戦争に勝つと『賠償金』という報酬を得ることができる。例えばドイツなどはこの20年後に起こる『第一次世界大戦』で敗戦し、連合国と結んだ『ヴェルサイユ条約』で、国土の1割以上を失い、巨額の賠償金を科せられた。その額は現在の日本円にして『1260兆円』ほどであり、これを支払い終えたのは2010年10月3日だった。
戦争というものはそういうものである。勝てば天国、負ければ地獄。この表現は適切ではないが、当時の人々の感覚はまるでそういうものだったのだ。だがもちろん、それを『天国』だと誤解し、有頂天になり、足元が緩くなったところに『地獄』が待っているということは、この時はまだ知る由もなかった。
とにかくそのお金で日本は以下のような『金本位制』に変更する。
かつて『日本銀行』を作って『銀本位制』で経済面を強化したが、銀から金に代わった。つまりこの時日本は金が豊富に存在したのである。
ただ、松方正義、そして7代目に3度目に総理大臣となった伊藤博文も、『地租の増額』を図り、国民の反感を買ってしまう。そして、それまで協力的だった板垣退助と大隈重信はこの時ばかりは政府を打倒するために立ち上がり、『自由党・進歩党』を合併させ『憲政党』を結成し、総選挙にて300座席中260座席獲得し、伊藤博文を退陣させた。そして8代目総理大臣になったのは大隈重信だ。この内閣が『初の政党内閣』となった。
つまり、『民衆が選挙で選んだ結果に基づく内閣』であり、この国にようやく民主主義の光が差し掛かった瞬間だ。最初に『内閣制度』に強く影響を与えていたのが『元老』だ。この有力者たちは元々『元勲』と言われ、国政に対して大きな功績があった者をさす。例えば、岩倉具視などは元勲であり、その後元老となった人物だ。
その元老を含めた『権力者』の中でも競い合いがある。第一次伊藤博文内閣は長州出身だったが、長州・薩摩出身の者が多く、これに反発する者もいた。
明治維新後、有力な特定藩の出身者が政府の要職を独占して結成した政治的な派閥!
このように、明治維新の立役者たちを中心となって始めた国づくりだが、その設定した方向性が『民主主義』だったわけで、いつまでも特定の権力者の独裁政治は通用しない流れがあったわけだ。それでは徳川時代と同じになる。だからこうして国民代表として『政党内閣』が誕生するのは、この国に民主主義の光が差し込んだ瞬間でもあったわけだ。
しかし、尾崎行雄文部大臣が、
と発言し、この時すでに大きな権力者となっていた財閥や『お金』を批判する演説を行うと、その共和政という発言をしたこと自体が問題視され、辞職に追い込まれる。
さて、雲行きが怪しくなってきた。徳川の江戸幕府が終わってまだ30余年。わずかこれだけの時間の中で、日本にはすっかり『天皇崇拝』の思想が蔓延し始めていた。本居宣長(もとおりのりなが)が古事記を再研究し、平田篤胤(あつたね)が儒教・仏教の影響を排除した影響を排除した『復古神道』を提唱。
尊王攘夷論(幕末のスローガン)
つまり、
こういった人物たちがこの幕末の時代の日本人の思想に『尊王攘夷』という概念を植え付けた。そして『天皇を中心とした集権国家づくり』、そして『天皇の権限が強い憲法をつくる』。こういう流れになったわけだ。天皇の存在は神聖なもので、何人たりともそれを侵害することはできないというただならぬ気配をまとうようになった。これは、現在でもその余韻が残っているほどだが、この当時はこうした発言をするだけでも不謹慎だとして、バッシングを食らうことになったのだ。
[大礼服に勲一等旭日大綬章を着用した尾崎行]
ただ、この尾崎行雄というのはなかなかの人物で、日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれた男だ。文部大臣はやめたが、政治家を辞めたわけではないということである。大隈重信も一目置いた63年間という議員史上世界一の貢献をし続けた、賢い男だ。
これは余談だが、ある日この尾崎が福沢諭吉に、
と話したところ、福沢は、
と一喝した後、こう言った。
福沢諭吉は『筆一本で生きていこうとした尾崎行雄』に、的確な助言をしたのだ。この話はとても奥が深いので、興味がある人は下記の記事で更にこれを掘り下げるといいだろう。取り急ぎ理解するべきなのは、この尾崎行雄よりも賢かったのが、福沢諭吉だったということだ。
[明治24年(1891年)頃の肖像]
さて、とにかくこの『共和演説事件』後に、自由党系の憲政党、進歩党系の憲政本党に分裂し、政党が解散してしまって大隈重信は終わってしまった。そして9代目総理大臣になったのが、3代目だった山県有朋である。彼は下記の記事で書いたように『THE・軍人』のような人物で、天皇中心の絶対的専制主義国家を確立するために奮闘した。したがって、今回も同じように軍備を拡大させるために地租を地価の2.5%→3.3%に増徴させる。
戦争は金になる。倫理的な話を無視すればそれが現実だ。1929年にあったアメリカの世界恐慌を回復させるために、フランクリン・ルーズベルトが当選し、『ニューディール政策』を進めるが、これに対する効果は未だに議論があり、実は一番有力なアメリカの景気回復の決め手となる話は、1939年の『第二次世界大戦』で武器生産体制が強化されたからだという。
[米国の実質GDP(1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (1929–1939)、ルーズベルトの大統領就任は1933年]
アメリカは現在もサウジアラビアに武器を売って大金を得ているが、暗黙の部分で現実に存在している金儲けというものが存在するのだ。それがこの世界の現実なのである。この時も、山形の意見に賛成する企業経営者の声が溢れた。だから、そういう『金社会』を批判した尾崎行雄は、本当はとても賢明だったことがわかる。しかし、時代に合っていなかったのだろう。この時支持されたのは、『イケイケどんどん』の山形のような考え方だった。
といっても、彼が別に圧倒的な支持を得たわけではない。彼は政党嫌いで、次々とシビアな対策を作り出していき、人々に窮屈さを与えてもいた。『文官任用令』を改正し、斉党員の就任を困難にさせたり、『軍部大臣現役武官制』を定め、正党の影響力が軍に及ぶことを防ぐ。また、治安警察法も制定され、政治活動が制限され、労働運動も大幅に制限された。
また、当初憲法と同じ日に公布された『衆議院議員選挙法』は、『地租や所得税など『直接国税』とされる税を15円以上納めている25歳以上の男性』に選挙権を与え、その条件をクリアする人はわずか1.1%だった。それに該当するのは広大な土地を持つ大地主くらいのものだったからだ。明治30年(1897年)頃で庶民にとって当時の1円は『2万円』程度だったとされているので、15円というのは『30万円』だ。
しかしこれを『10円』に引き下げ、新たな支持層を得ようとした。軍需産業などの産業資本とのかかわりが深い『都市の小豪族』を取り込むことで、自分の立場を優位にしようとした。少しでも自分に理解がある層の支持を集めれば思い通りになる。そう考えて剛腕をふるって政治を進めたのだが、やはり政党に大きく反発され、予算が成立せずに第2次山県内閣は、次の伊藤博文へとバトンタッチすることになった。
これが4度目、10代目総理大臣となった伊藤博文にとって、最後の総理大臣となる。この時1900年、清の排外運動を退ける『北清事変(ほくしんじへん)』があった。またの名を『義和団事件(義和団の乱)』。外国人への反発から起きた『義和団』という宗教結社が中心となって起きた事件だ。西太后はそれを指示して諸外国に宣戦布告するが、英米仏露日等の、列強8か国連合軍になす術はなかった。その後ロシアが満州を占領し、朝鮮半島に一歩前進。これによって、日本とロシアの衝突は秒読みとなっていった。
[天津の戦い(義和団の乱)]
伊藤博文は、これまでの『超然政治』に限界を感じ、政党を無視する政治は時代遅れだと悟る。そこで、『政権与党』である『立憲政友会』を発足させる。これによって、政党の中に自分の政治を支持する団体が出現するわけで、政権運営が優位になると考えたわけだ。これは、憲政党のメンバーたちを説得して作ったものだった。
憲政党は、板垣退助が作った『自由党』が源流である。元は自由民権運動の主軸であった彼らを取り込んだこと新しい局面を迎える。この立憲政友会は政党であり、選挙で選ばれる性格を持つ衆議院だから、これで今までの問題を解決したかと思いきや、今度は貴族院に猛反対される。更に、立憲政友会の内部からも、藩閥の伊藤博文が総裁であることになっとくがいかず、政権運営は不安定となり、11代目総理大臣の桂太郎へと受け継がれる。
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