『日露戦争』
上記の記事の続きだ。さて、11代目総理大臣の桂太郎は、3代目、9代目に総理大臣となった山県有朋の系統だった。山県も伊藤も長州出身。藩閥。まだまだこの時は、明治維新の立役者、薩長の藩閥が力を持っていた。簡単に言えば創業者だ。企業の創業者が、その企業の運営にしがみつくのは当然。そして本人たちは『しがみつく』などとは考えていない。新しい国を作り上げた自負と、死んでいった多くの敵・味方の命を背中に背負い、大義を燃やして生きていただけだったのだ。
[桂太郎]
近くには、『日清戦争(1894年7月25日 – 1895年11月30)』もあった。そして『日露戦争(1904年2月8日 – 1905年9月5日)』ももうそこまで近づいている。現実として、心身に実感する温度が違う。熱い熱い時代を生きていた。それがこの時代の彼らが実感する体温だった。しかし、そんな体温の上がり方も、人によって異なった。山県有朋と伊藤博文のやり方は違い、それぞれに派閥ができた。
山県有朋 | 藩閥政治、官僚と軍を背景に政党勢力を排除 |
伊藤博文 | 政党の総裁として、調整を図る |
彼らは引退し、元老として背後から政治を行い、山形の後継には桂太郎。伊藤の後継には西園寺公望(きんもち)に受け継がれる。この両者は11代目~14代目の総理大臣まで交互に務めることになり、『桂園時代』と言われた。
[西園寺公望]
11代目総理大臣、桂太郎の時代は『1901年6月2日 – 1906年1月7日』。冒頭で書いたように、この時に起こるのが『日露戦争』だ。そしてこのロシアの脅威という問題に対し、日本国内では意見が割れていた。
流れを見ていればわかるが、伊藤系は比較的、融和的に物事を進める考えがあり、山形系は比較的、力づくで物事を進める考えがあった。この両者が台頭した『桂園時代』に起きたロシアとの問題は、その最善の解決策に対する答えが割れてしまったのである。しかし、海外の事情が優先されて話が進んでいく。
日本はそうだが、ロシアは『満韓交換』のつもりはなく、韓国にも勢力圏を作るつもりだった。そしてイギリスは南アフリカでの植民地戦争に苦戦し、『大英帝国』としての勢いを失いかけていた。また、下記の記事で書いたようにオスマン帝国を破り、力をつけたロシアを、『ベルリン会議』の『サン・ステファン条約』で押さえつけた流れがあった。
[会議における各国代表の様子]
ロシアは利権を大幅に縮小され、南下政策は再び失敗。そしてこの方角に進路変更して、今回の問題が発生していたわけだ。ロシアとしても、ヨーロッパの列強を相手にするのは骨が折れると考え、まずはアジアを制し、力をつけるつもりだったのだ。そうなると当然、ベルリン会議同様の動きをしなければならない。イギリスは、
イギリスの植民地を守るためにも、日本と提携する必要があるな…。
と考える。そして『日英同盟』が締結されたのだ。
[ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている]
これによって、
という約束が交わされる。つまり、
という流れが完成したのである。更に、日本に勝ってほしいイギリスは何もしなかったわけじゃなく、援護射撃として、新聞の報道で日本を有利になるように情報操作し、また、ロシアの艦隊にイギリスの港を貸さないなどの支援を行った。
1904年2月、ついに『日露戦争』が始まる。世界的な下馬評では、強国ロシアが勝つことが予想された。
などで軍事的勝利を重ねるが、他偉大な人的・物的犠牲を払った。下記の記事で、世界史の立場から見た日露戦争については書いたので、詳細は合わせて見ていただくとしよう。
日露の間にセオドア・ルーズベルトが入った理由は、『日露戦争の勝者が満州利権を独占する』という権利が面白く思わなかったことも関係していたしかし、賠償金が皆無という結果になり、日本国民が激怒し、米国公使館が襲撃される事件が起きた。
確かに日本の劇的な活躍はあった。海戦史上前代未聞の『トーゴー・ターン』で世界最強といわれたバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎は、「東洋のネルソン」と呼ばれ、世界三大提督に数えられる世界的な海軍大将となった。
世界三大提督
[東郷平八郎の戦艦『三笠』(本物) 筆者撮影]
[東郷平八郎の戦艦『三笠』(本物) 筆者撮影]
下馬評を大きく覆し、多くのアラブやアジアの国々が国を破壊され、植民地化されたなか、日本だけは独自の力で近代化を達成し、国を守り、有色人種の中で唯一列強に加わることが出来たことに、世界の人々は畏怖と称賛の念を抱いた。
だが、戦争が行われた時間自体は、1年7か月。日本は常備兵力約20万人のところ、100万人を超える兵力を動員し、大きな損害を被った。また、そのときロシアは、『第一次ロシア革命』、つまり国内での内乱によって、体力を消耗していた。つまり、『戦争どころではなかった』のだ。これらの理由から、
本当に日本はロシアに勝ったと言えるのか?
という疑問が多くの人の頭をよぎったが、結果主義のこの世界だ。勝ったのは勝った。事実、ロシア内であったデモやストライキも、『長引く戦争』に対する反発だったりして、そうした国政を上手くコントロールすることも『国同士の戦い』なわけだから、日本はとにかく戦争に勝ったのだ。しかし、『戦争に勝った』からどうした。ある種のトランス状態に陥っていたこの時代を生きた人々がそれを理解するのはまだまだ先の話だった。
私がこの戦艦の写真を撮ったとき、そのまま近くの猿島に行ったわけだが、そこにいた島民のような詳しい老人と話がはずみ、老人は、
と言っていた。確かに、戦争に勝ったから我々の国は植民地化されなかったと言えるだろう。沖縄もそうだが、現在、横須賀には、地元では「ベース」、アメリカ軍関係者などからは「横須賀ベース」と呼ばれている『横須賀海軍施設』として、アメリカ軍の基地がある。
[米海軍横須賀基地に入港したUSSジョージ・ワシントン]
その横須賀や沖縄に住んでいる人なら知っているが、街の至る所で彼ら外国人に合わせた仕様が多く見受けられるわけだ。つまり、アメリカニゼーションが行われている。支配されたわけじゃないのに、まるで『半分外国』なのだ。もちろんそれは街の日本人が中心となって、考えがあってやってきたことだろうが、もしこれが『支配』のもとで行われたのなら、我々が多くのロシア語を知っていて、それを口にする現在があってもおかしくはないのである。
しかし日本は勝った。
等を得る。しかし、日清戦争の時のような『賠償金』は得られなかった。それは、セオドア・ルーズベルトが介入してこの戦争を『判定勝ち』として平定したからだ。国内ではこの条約が不平等だとして『日比谷焼き討ち事件』が起こるが、軍を出して鎮圧し、条約は成立した。ちなみにこの時の韓国というのは『大韓帝国』だ。『北朝鮮』と『大韓民国』に分かれるのはまだ先の話であり、朝鮮半島は大韓帝国として存在していて、日本はそこを支配下に収めた。
[焼き打ちに遭った施設]
また、日露戦争中に第1次日韓協約を結び、韓国に財政・外交顧問を派遣することを認めさせ、桂太郎首相とアメリカの陸軍長官タフトとの間で『桂・タフト協定』が結ばれ、太平洋に進出を図るアメリカと条約を結ぶ。
桂・タフト協定
日本 | アメリカのフィリピン進出を認める |
アメリカ | 日本の韓国の保護国化を認める |
第2次日韓協約では、韓国の外交権が日本に移り、日本は韓国を、その政府に成り代わって外交を行う『保護国』とした。
その『桂園時代』が続く。西園寺公望と桂太郎が首相を交互に行う。その間に、伊藤博文が初代の統監として韓国に派遣され、韓国の外交事務を行った。韓国は抵抗したが、日本は力づくでこれを制圧。
日露戦争で得た遼東半島南端の年と、鉄道権益によって、日本はそこから『帝国日本』の拡大を画策。満州へ進出し、『関東都督府』を設置し、遼東半島南端の関東州を統治し、『南満州鉄道株式会社』を設立し、鉄道経営を始める。国内では『鉄道国有法』が公布され、私鉄を買収して日本の幹線となる主要な鉄道はすべて国のものとなる。
[南満洲鉄道株式会社]
これによって日本国内では負担に苦しむ声が上がっていた。日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、日露戦争では直接的な賠償金が得られなかった。そのため、国内世論の非難が高まり、『日比谷焼き討ち事件』にも発展していたわけだった。
[大韓帝国皇太子李垠(右)と伊藤]
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