『韓国併合・大正デモクラシー』
上記の記事の続きだ。『日露戦争(1904年2月8日 – 1905年9月5日)』に勝利した日本だったが、アメリカが介入したことで直接的な賠償金が得られなかった。そのため、国内世論の非難が高まり、『日比谷焼き討ち事件』にも発展していたわけだった。そうした不満があるなか、世間では『社会主義』の声が上がっていた。
社会主義 | 利益は均等に配分され、消費も個人に任される |
共産主義 | 利益は均等に配分され、消費も平等であるべきだと規制される |
資本主義 | 競争に勝てば多くの富を得るが、貧富の差は拡大する |
1872年に近代的な学校制度に関する日本初の法令が出て、反発を受けながら7年後に新たな教育令が公布される。自由民権運動に対抗し、国家主義(個人の自由より国家の発展を優先する考え)に基づく教育を国民に施そうとした。1886年、『学校令』が公布され、教育は国家主義的なものになってしまっていた。その後、改正を続けながら20世紀初頭には義務教育の普及がほぼ達成された。
資本主義が急速に進展し、労働者が劣悪な環境に置かれるなどして、社会主義者が出始める。
そして明治天皇の暗殺を計画する人間が現れる。これにより、社会主義者の一斉逮捕と処刑が行われた。この『大逆事件』によって社会主義者はいったん冬の時代を迎えることになる。
政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理する一審制(「第一審ニシテ終審」)となっていた。これまでに知られている大逆事件には、
の四事件がある。単に「大逆事件」と呼ばれる場合は、その後の歴史にもっとも影響を与えた1910年の幸徳事件を指すのが一般的である。1910年、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)とその仲間合計26人は、大逆罪で多補された。大逆罪とは、
『天皇や皇太子などに対し危害を加えわるいは加えようとしたものは死刑』
というもので、証拠調べの一切ない、非公開の裁判で裁かれるしかも1回のみの公判で、上告なしである。社会主義者たちの一掃をはかった権力により、幸徳らは大逆罪に問われ、処刑された。1947年改正前の刑法第73条がこれだ。
天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ
危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス
そして現在は廃止されている。
第二次世界大戦後、日本国憲法の制定とともに関連法制の改正が行われた際に、大逆罪などの「皇室に対する罪」の改正は当初予定されてはいなかった。なぜならば、新憲法でも天皇は国家及び国民統合の「象徴」であり、それを守るための特別の刑罰は許されると解釈されていたためである。これに対して、GHQは大逆罪などの存続は国民主権の理念に反するとの観点からこれを許容しなかった。当時の内閣総理大臣吉田茂みずからがGHQの説得にあたったものの拒絶され、ついに政府も大逆罪以下皇室に対する罪の廃止に同意せざるをえなくなった。
この『大逆事件』を受けて、日本の革命家、徳富蘆花(とくとみろか)は、
『死刑ではない、暗殺である』
と意見を主張し続けた。長い徳川時代が1867年に終わり、日本の『天皇崇拝』の思想が蔓延する敬意を随所で見てきているが、もう一度まとめてみよう。本居宣長(もとおりのりなが)が古事記を再研究し、平田篤胤(あつたね)が儒教・仏教の影響を排除した影響を排除した『復古神道』を提唱。
尊王攘夷論(幕末のスローガン)
つまり、
こういった人物たちがこの幕末の時代の日本人の思想に『尊王攘夷』という概念を植え付けた。そして『天皇を中心とした集権国家づくり』、そして『天皇の権限が強い憲法をつくる』。こういう流れになったわけだ。天皇の存在は神聖なもので、何人たりともそれを侵害することはできないというただならぬ気配をまとうようになった。尾崎行雄文部大臣が、
と発言し、この時すでに大きな権力者となっていた財閥や『お金』を批判する演説を行うと、その共和政という発言をしたこと自体が問題視され、辞職に追い込まれる。
この当時はこうした発言をするだけでも不謹慎だとして、バッシングを食らうことになった。(共和演説事件。1898年8月21日)
そしてそれから12年。日本はその間に日清戦争、日露戦争を行い、勝利。そうした背景も手伝って、日本の『天皇崇拝』の思想は更に進行。1910年に大逆事件は起こった。しかし一部の人間らはその時からすでに、この国の人々の『狂信的』な一面を垣間見ていたのである。だが、それを思い知るのはまだ先だ。多数の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まったのは5月25日。そして、8月には『韓国併合条約』が結ばれ、韓国は日本の領土となった。日本は『朝鮮総督府』を置き、首都のソウルは『京城』と改められる。
[大韓帝国皇太子李垠(右)と伊藤]
蝦夷地が北海道に代わった年 | 1869年 |
琉球王国が沖縄になった年 | 1879年 |
台湾総督府が置かれた年 | 1895年 |
朝鮮総督府が置かれた年 | 1910年 |
日本は確実に『帝国日本』の道へと駒を進めていた。
更に、日露戦争における勝利によって『列強』の仲間入りをした日本は、国際的な地位を向上させることに成功し、政治的にも優位な方向に進めることができるようになる。小村寿太郎外務大臣の交渉で『日別通商航海条約』が結ばれ、兼ねてから問題視されていた『関税自主権』がここでようやく解消されることになるのだ。
国内はある種のトランス状態に陥っていた。興奮し、覚醒し、傲岸不遜に陥っていた。
これでいいんだ。これで合っているんだ。明治維新は正しかった!海外の脅威からこの国を守り、列強の仲間入りを果たしたんだ!
彼らのそういう肌で感じる確信が、この後の『大正、昭和』時代に巻き起こる世界的な大惨事の一つの要因となっていった。
大正 | 1912年7月30日~1926年12月25日 |
昭和 | 1926年12月25日~1989年1月7日 |
大逆事件から2年。1912年から日本は『大正時代』へと突入した。陸軍は数万人規模の兵員の増加を要求するのが、第2次西園寺内閣はこれを拒否。
等の理由からそれをする必要があった陸軍は、清王朝が倒れた当時、不安定な中国にも進出できると考えたのだ。しかし、
等ですでに財政難に陥っていた政府は断るしかなかった。しかし、それによって組軍大臣の上原勇作が天皇に単独で辞表を出す。これにより西園寺内閣のメンツが潰れることになった。そして、軍部が支持する桂太郎が、もう一度政権を担うことになる。だが、それも問題だった。
という声が上がり、立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅を中心に『閥族打破・憲政擁護』というスローガンを立て、政府批判を行い、『第一次護憲運動』が勃発。これには多くの民主も加わり、数万の群衆が議会を包囲し、警察署や政府系の新聞社が襲撃される事件へと発展した。そして、桂太郎の弁解も虚しく、総辞職となった。
この『大正政変(1913年)』は、民衆の力が強くまかり通った事例となった。かつて、6代目総理大臣、松方正義、そして7代目に3度目に総理大臣となった伊藤博文も、『地租の増額』を図り、国民の反感を買ってしまう。そして、それまで協力的だった板垣退助と大隈重信はこの時ばかりは政府を打倒するために立ち上がり、『自由党・進歩党』を合併させ『憲政党』を結成し、総選挙にて300座席中260座席獲得し、伊藤博文を退陣させた。そして8代目総理大臣になったのは大隈重信だ。この内閣が『初の政党内閣』となった。
つまり、『民衆が選挙で選んだ結果に基づく内閣』であり、この国にようやく民主主義の光が差し掛かった瞬間だ。最初に『内閣制度』に強く影響を与えていたのが『元老』だ。この有力者たちは元々『元勲』と言われ、国政に対して大きな功績があった者をさす。例えば、岩倉具視などは元勲であり、その後元老となった人物だ。
その元老を含めた『権力者』の中でも競い合いがある。第一次伊藤博文内閣は長州出身だったが、長州・薩摩出身の者が多く、これに反発する者もいた。
明治維新後、有力な特定藩の出身者が政府の要職を独占して結成した政治的な派閥!
このように、明治維新の立役者たちを中心となって始めた国づくりだが、その設定した方向性が『民主主義』だったわけで、いつまでも特定の権力者の独裁政治は通用しない流れがあったわけだ。それでは徳川時代と同じになる。だからこうして国民代表として『政党内閣』が誕生するのは、この国に民主主義の光が差し込んだ瞬間でもあったわけだ。
これが1898年。あれから15年。この大正政変で、ますます民衆の存在感が強くなったのだ。『天皇崇拝』思想が進行して『大逆事件(1910年)』などが起こる中、それと同時に民主主義の光も徐々に力強くなっていくのであった。
1800年頃、ナポレオンの影響力も手伝って、フランス革命後に広まった自由主義やナショナリズムは、度重なる弾圧にもかかわらず各地で広がり続けていた。せっかく革命を起こし、王を引きずり下ろし、『共和政』の国を作って自分たちの自由と権利を主張してきたのに、またここで元に戻るなんていうことは、受け入れられなかった。
昔の政治体制に戻そうとする政治思想およびその勢力。
そしてそれはフランスだけではなく、ヨーロッパ中に広まっていたのだ。これがナポレオンの影響力だと言っていいだろう。ナポレオン戦争はフランス革命の理念を全ヨーロッパに広めていたのだ。そのため、
というように、ヨーロッパ中で自由や権利を主張する『自由主義運動』が行われた。この時代のヨーロッパは『革命』に憑りつかれていて、
革命をすれば世界を変えられる!
と考えて行動する人々で溢れたのである。まるで『革命ブーム』である。それと似た動きが、100年経った後のこの日本でも行われ始めていた。18世紀にイギリスで起こった『産業革命』が、19世紀になって日本で巻き起こったことを考えても、日本はこの時常に、西洋から色々と100年ほど遅れていたとも言えるのである。
[ダヴィッド『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』]
民衆運動が勃発するようになった当時の日本は『大正デモクラシー』という大きなうねりになっていく。第16代総理大臣、山本権兵衛(やまもと ごんのひょうえ。ごんべえ)は、海軍大将だった。あの東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命した人物で、明治天皇にその理由を尋ねられ、
と答えた逸話が残っている。1904年(明治37年)、東郷と同時に海軍大将に昇進し、日露戦争で活躍した。山本は立憲政友会の第3代総裁となった原敬(たかし)を入閣させて政党勢力を取り込み、『軍部大臣現役武官制』を改正し、現役じゃなくても軍のOBであれば陸海軍大臣になれるとして、軍優勢な政治を行った。
しかし『シーメンス事件』が発生。山本おひざ元の海軍高級将校が、ドイツのシーメンス社から賄賂を受けていて、国民が抗議。国会は包囲され、第1次山本内閣は総辞職に追い込まれた。1914年1月に発覚し、4月に辞職となった。
色々な騒ぎですっかり権威が低下しつつあった山県有朋は、ここで大隈重信を天皇に推薦。これによって、立憲同志会を立憲政友会の対抗馬として大隈重信の与党とし、その背後から操ろうと画策した。政党嫌いだった山県も、こうして時代の流れに合わせながら、徐々にその頑迷さを薄めていく。『頑固』と『頑迷』は違う。頑固でなければ何も成し遂げられないが、時代を無視した強行突破は頑迷である。
その点において、頑迷さを捨てた山県は、さすが「日本軍閥の祖」の異名をとった政官界の大御所、「元老中の元老」ということになるだろう。1922年に83歳で亡くなる、8年前のことだった。
しかし1914年のこの年、世界では『膨らみ続けた風船がついに破裂する』イメージで、ある事件が起こっていた。オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・ヨーゼフ1世の甥であるフランツ・フェルディナントとその妻が、ボスニアの都サライェヴォにて、パン・スラヴ主義のセルビア人学生プリンツィプにに暗殺された。この『サライェヴォ事件』が世界を巻き込む大戦争、『第一次世界大戦』のきっかけとなってしまうのである。
[サライェヴォ事件 暗殺場面を描いた新聞挿絵, 1914年7月12日付]
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