『第一次世界大戦』
上記の記事の続きだ。1914年、『サライェヴォ事件』が世界を巻き込む大戦争、『第一次世界大戦(1914年7月28日 – 1918年11月11日)』のきっかけとなってしまった。この戦争の世界史的な視点からについては下記の記事に書いたが、この戦争は『三国同盟』と『三国協商』が軸であり、『連合軍VS連合軍』の戦いとなった。
ドイツ側
三国同盟 | ドイツ、オーストリア、イタリア |
バルカン半島での同盟国 | ブルガリア、オスマン帝国 |
ロシア側
三国協商 | ロシア、イギリス、フランス |
バルカン半島での同盟国 | ルーマニア、セルビア、ギリシャ |
[東部戦線のガス攻撃。右側は後続攻撃を準備している歩兵]
では、日本はどうしただろうか。日露戦争時に『日英同盟』を組んでいた日本は、このときイギリスの味方となった。イギリス、日本、ロシアは戦争で戦った者同士だったが、このときは利害の一致で同盟を組むことになったのである。しかし、基本的には言ったように『軸同士』の戦いだ。日露戦争時にイギリスが中立的な立場で日本を見守ったように、今回は日本がその立場に近い形をとることになる。
日露戦争とは規模が全く違う今回の場合はどうかというと、日本は『三国協商』と共に戦うという大義名分を背負うが、しかし実際には敵である『三国同盟』は日本やアジアには注意が向いていない。つまり日本は、三国協商いった強国を味方につけ、
と言って兼ねてから標的に定めていた『中国』に進出しようとしたのだ。井上馨は、かつて織田信長が今川義元を討ち取るとき、義元本隊が、桶狭間の北『田楽狭間』で休憩をしているという話を入手し、
と叫んだように『天佑だ』と表現した。
思いがけない幸運、天の助けのこと。
を攻略した日本は、勢いに乗り、かつてあった陸軍の2個師団増加の約束を果たした。この時、中国『清』は孫文らの『辛亥革命』によって『中華民国』となっていた。しかし、革命ほやほやのこの時期は混沌としていて、状況は不安定だった。
大隈内閣の外務大臣、加藤高明はこの混乱を利用し、中華民国の大総統であった袁世凱の政権に『二十一カ条の要求』を突き付ける。中国には、青島(チンタオ)を中心とする山東半島、赤道以北の南洋諸島といったドイツ領の島があったが、日本はここを狙って中国で自国の領土を拡大しようとしたのだ。
遼東半島や山東半島での日本の利権を拡大するという内容のもの。
小池張造(1873-1921) 明治-大正時代の外交官。加藤高明外相秘書官などをへて、ニューヨーク・奉天などの総領事をつとめる。大正2年外務省政務局長となり、加藤外相のもとで対華二十一ヵ条要求の原案作成にあたった。のち久原本店理事。福島県出身。東京帝国大学卒。
簡単に言うと、この『天佑』を利用して日本は『帝国日本』の構想を着々と現実化させていったわけである。ロシア、中国といった近隣諸国に領土を拡大する。今まで、
を領地としてきたように。
蝦夷地が北海道に代わった年 | 1869年 |
琉球王国が沖縄になった年 | 1879年 |
台湾総督府が置かれた年 | 1895年 |
朝鮮総督府が置かれた年 | 1910年 |
『二十一カ条の要求』の中には、『中国そのものの保護国化』を狙うようなものもあった。しかし、それにアメリカやイギリスが反発し、日本がこれ以上『帝国化』しないように注意した。結果、それらの日本の希望条項を削除した『16カ条の要求』を中国に突き付けるが、どちらにせよ中国はこの要求を不満に捉え、反日運動が勃発した。
そんな中、日本では『ビリケン宰相』の異名を持つ寺内正毅(まさたけ)が第18代目総理大臣となっていた(1916年10月9日 – 1918年9月29日)。寺内の頭の形がビリケン人形にそっくりだったことから、これに超然内閣の「非立憲(ひりっけん)」をひっかけて「ビリケン内閣」と呼ばれた。元老として裏で糸を引く山県有朋は、加藤高明が総裁になってしまうと『政党政治』が作られるので、その対抗馬として陸軍大将で、朝鮮総督でもあった寺内を推薦したのである。
[寺内 正毅]
袁世凱に対して出した『二十一カ条の要求』は強引すぎたため、反日感情を煽った。そこで『火消し』の為に、袁世凱のあとに実権を握った段祺瑞(だんきずい)には、無担保でお金を貸し付けるなどして支援し、事態の緩和を狙った。
そんな中、これまで中立的な立場をとってきたアメリカが、『三国協商』側につくことになった。それまで、ライバル同士であったアメリカと日本だったが、これを機に『石井=ランシング協定(1917年11月2日)』を取り決め、利害を調整し、
という話を軸にして、『経済面で自由競争をしよう』という平和的な解決策を見つけた。
[1917年協定締結時のワシントンにおける石井菊次郎とロバート・ランシングによる記念写真]
日本とアメリカはこの時、ちょうどライバル関係にあった。アメリカも、まだできたばかりの国であり、島国でガラパゴス化してきた日本と同じように、『中立的・孤立的』な立場を取って、独自の運営をしていた。
といった順序を踏まえ、アメリカは確実にこの世界の覇権を握りつつあった。
[ゴールドラッシュ初期にカリフォルニアに向かう船]
そして日本も今見たように、明治維新を成功させて外国の脅威を追い払い、むしろ自国の領土を着々と広げていき、力をつけていった。同じアジアの人々は、明治維新や東郷平八郎のバルチック艦隊撃破などを『東洋の奇跡』と呼び、日本に対して畏怖と称賛の目を向けた。
スペイン・アメリカ・キューバ戦争(米西キューバ戦争)で勝利したアメリカは、フィリピンやグアムを足掛かりに、アジアへの進出も視野に入れていたので、日本とアメリカはこのあたりの時期に、ちょくちょく衝突することが多くなってくるわけだ。そしてお互いに『自国の領土を戦場にしない』という点において、共通点があった。
アメリカは更に、この『第一次世界大戦』でフランスとイギリスにお金を貸して力を得る。この頃から、かつて世界をリードしていたこれらの大国の雲行きが怪しくなってくる。彼らは戦争を繰り返し、リソース(ヒト、モノ、カネ)の浪費・消費を余儀なくされていた。そして自国の領土も戦場と化し、ダメージを負う。更にこの後、『植民地によって成り立っていた栄光』も崩れるわけだ。倫理的な問題で独立していく植民地という収入源がなくなる強国は、みるみるうちにその勢いをしぼめていき、最後には『ノーダメージでお金を貸していた国』、つまりアメリカにまくられることになる。
ヨーロッパの覇権の推移
17世紀のイギリス以降世界で強い勢力を持った国
だが、この時はまだヒトラー率いるナチス・ドイツが台頭する前だ。アメリカと日本は確実に次の覇権候補にあった。しかし、日本がナチスと手を組み、アメリカが最後まで『負け戦』に参戦せず、賢く立ち回ったことにより、最終的にはアメリカ一強時代が到来することになるのである。
日本が好景気だった時代を思い返すと、多くの人が『バブル期』、つまり『第二次世界大戦』の後の復興の、高度経済成長期の昭和時代を想像するかもしれないが、実際にはこの時にも好景気があった。
これによって、
形になり、日本に多くのお金が入った。アメリカ同様、この国は『他国にお金を貸し付ける』レベルにまで成り上がったのである。この『大戦景気』があったからこその軍の強化であり、中国への支援だったわけである。
だが、恩恵を受けたのは一部の資本家たちだけだ。労働者の実質賃金は逆に低下し、大戦後の『世界恐慌』の影響で更に状況は悪化した。大量解雇、工場閉鎖など、大きな格差が目立つようになった。
当時の最高紙幣である百円札を燃やして灯りをとる成金。1920年の日雇い労働者の賃金は1日1.6円。
こうした中、
といた『社会的弱者』の立場にいる人たちの決起が至る所で行われた。
労働者が統一して権利要求と行進など活動を取り行う日。1920年5月2日日曜に第1回のメーデーが上野公園で行われ、およそ1万人の労働者が「八時間労働制の実施」「失業の防止」「最低賃金法の制定」などを訴えた。翌年からは5月1日となり、開催地や参加人数も増えていった。
更にこの後、1923年には震災恐慌、1927年には金融機関の破綻が相次ぐ金融恐慌など慢性的な不況に陥り、1930年代初頭は世界恐慌の影響で「娘の身売り」や「大学は出たけれど」のことばで知られる昭和恐慌の時代であった。
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