『韓国併合・大正デモクラシー』
上記の記事の続きだ。『大戦景気』によって一部の資本家は裕福となる一方、労働者の実質賃金は逆に低下し、大戦後の『世界恐慌』の影響で更に状況は悪化した。大量解雇、工場閉鎖など、大きな格差が目立つようになった。だが、一方には『金持ち』たちがいるわけだ。環境を汚染したり戦争の道具を売ったりして財を得た人と、そうじゃない人らを『勝ち組、負け組』と分けるわけにはいかないが、事実として日本人の間にも格差が開くようになった。
かつて、日本史の表舞台に初めて『庶民』が登場したときにも、そこにいたのは『金持ち』だった。高利貸しをした酒屋・土倉(どそう)は莫大な営業税を払う代わりに幕府の保護を受け成長し、後の戦国末に台頭する『豪商』の先駆けとなった。
鎌倉時代および室町時代の金融業者。現在の質屋のように物品を質草として担保とし、その質草に相当する金額の金銭を高利で貸与した。
その記事にも書いたが、日本マクドナルド創業者の藤田田はこう言った。
『GHQのGIたちはユダヤ人を軽蔑しながら、彼らに頭が上がらなかった。彼らに金を借りていたためである。ユダヤ人は浪費家のGIたちに高利で金を貸し、金銭的に優位に立っていたのだ。それはまるで、幕末期の商人が武士に金を貸して、経済的な実験を握ってしまったのと同じであった。敗戦国日本に駐屯し、我が物顔で闊歩しているGIの、そのまた上を行く人種がいたことは、私には痛快な驚きであった。敗戦で生きていくための精神的な支柱を失っていた私の前途を示す、一筋の光明にも思えた。』
かつて、平将門が武士としてこの世界に大きな産声を上げ、西日本の天皇に対する『新皇』という存在になり、力づくで成り上がろうとした動きがあった。それが939年だ。
[豊原国周「前太平記擬玉殿 平親王将門」]
あれから実に1000年。その間にも、源氏の作った鎌倉幕府、武士たちが暴れ回った戦国時代とあったが、水面下で着々と力を蓄えていたのが『お金持ち』という武士とは違う種類の人間だった。坂本龍馬と同時代を生きた岩崎彌太郎が三菱グループの基礎を作り、同じように三井、住友もこの国の『三大財閥』となり、力を得ていった。
当初憲法と同じ日に公布された『衆議院議員選挙法』は、『地租や所得税など『直接国税』とされる税を15円以上納めている25歳以上の男性』に選挙権を与え、その条件をクリアする人はわずか1.1%だった。それに該当するのは広大な土地を持つ大地主くらいのものだったからだ。明治30年(1897年)頃で庶民にとって当時の1円は『2万円』程度だったとされているので、15円というのは『30万円』だ。
しかし9代目総理大臣となった山県有朋は、これを『10円』に引き下げ、新たな支持層を得ようとした。軍需産業などの産業資本とのかかわりが深い『都市の小豪族』を取り込むことで、自分の立場を優位にしようとした。原敬率いる立憲政友会は、この『大戦景気』によって一部の富裕層からの『高額納税』を得て、有権者を増やすことにも成功し、力をつけていった。
このとき、ロシアでは『ロシア革命』が起こっていた。1905年、ロシアは日本と『日露戦争』を起こしていが、そのときロシアは、『第一次ロシア革命』、つまり国内での内乱によって、体力を消耗していた。つまり、『戦争どころではなかった』のだ。
[1917年のペトログラード・ソヴィエト会議]
ロシアはその後『ソビエト連邦(1922年 – 1991年)』へと移り変わっていくことになる。そして、史上初の社会主義革命が達成されたのであった。その後、ソヴィエト(自治政府)は国家を動かし、『社会主義政策』を進める。この時期のロシアのキーマンは、
の3人である。
社会主義 | 利益は均等に配分され、消費も個人に任される |
共産主義 | 利益は均等に配分され、消費も平等であるべきだと規制される |
資本主義 | 競争に勝てば多くの富を得るが、貧富の差は拡大する |
史上初の社会主義革命が達成されたのはいいが、社会主義国家というのは問題も多く抱えている。イギリスのロバート・オーウェン、フランスのサン・シモン、フーリエらもかつては社会主義国家を目指したが、実現しなかった。社会主義社会になると貧富の差がなくなり、人の間に格差がなくなるのはいいが、努力しても、怠けても、何をしても評価や財産が平等になるということは、必ずしもメリットだけではない。
このような人間が出てくることになれば、それは社会全体の活力が失われることを意味する。国力発展の停滞につながってしまうリスクがあるのである。だから、正直『フランス革命』や『ロシア革命』のような国家が丸々転覆する革命は、国家にとっては迷惑でしかない。とりわけ、この話を受けた外国人為政者たちは、そう考えた。
うちでフランスやロシアのような革命が起きては困るぞ…。
したがって、他国はこうした動きを自国で起こさせないように画策するが、まず大一手としてこのケースの場合は『ロシア革命を止める』という手段に出る。
などが中心となり軍隊を派遣し、この革命を潰す干渉戦争を起こす。日本ではこの時の出兵を『シベリア出兵』と言っている。『シベリア出兵』は、1918年から1922年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つである。
[1918年、ウラジオストクでパレードを行う各国の干渉軍]
この時、『米騒動』が起こる。好景気で民衆のコメの消費量が増え、米の値段は上昇していたが、シベリア出兵の話がまとまったとき、
よし!これでまた米が高く売れるぞ!
と見込んだ米問屋が米を買い占めし、更に米の価値が上昇。これにより、庶民は米が食べられなくなり、全国で暴動が起こり、精米所や米の取引所などが襲われた。これからおよそ100年後の『東日本大震災』の時も被災者に物資はなく、違うところでも『買占め問題』が浮上したが、店が襲撃されるほどではなかった。その後、その『誇り高き民族』である日本人に対し、世界の人々が称賛。以下の動画は、スティービー・ワンダーが震災後の日本人に向けて送ったメッセージだ。
日本語訳も動画の概要欄にある。一部を紹介しよう。
日本の力と忍耐強さは、地震と津波の影響を乗り越えるということを私は信じています。本当に、日本人の方々の勇-気と品位には心を打たれます。今、世界中の人々が、祈りと希望、そして、夢を日本の方々に託しています。最も礼儀正しく、美しい-国の方々へ。 私は、あなた方と共にいます。あなた方を愛しているから。
こういうとき、人々が利己的になり、暴動が起こるのが世界の相場だ。しかし現代を生きる日本人はなかなかこういう恥ずかしい行動を取らない。北野武は震災に対する対応で世界中から日本が称賛されている中、空き巣に入った日本人のニュースを受け、
と生放送のニュースで言った。しかし、それに対する苦情は思ったよりなかった。むしろ、『よく言った』という声が多かったのだ。だが、100年前のこの段階ではまだ日本人にそういう矜持は普遍的ではなかったようだ。確かに、この少し前まで『一揆』という暴動に近いデモ活動が多な割れていた。
土一揆/徳政一揆 | 民衆を中心とした蜂起。借金の帳消しなどを要求 |
国一揆 | 国人(土着の武士)を中心とした蜂起 |
一向一揆 | 一向宗(浄土真宗の信者)を中心とした蜂起 |
いつの間にか日本でこの一揆は行われなくなり、大人しくなった。それはもちろん『それだけ平和で豊かになった』ことの証拠でもあるだろうが、世界で唯一核爆弾を落とされ、『地震大国』とも言われるこの国で多くの悲観的な景観をしてきた我々には、無意識の部分でいつの間にかこのニーチェの言葉の意味を身に染み込ませたのかもしれない。
さて、寺内内閣は米騒動を抑えきれずに、責任をとる形で総辞職することになった。そして、国内情勢に従うしかなくなった元老たちは、衆議院で多数を占めていた立憲政友会の総裁、原敬を首相にし、『本格的な政党内閣』として知られる『原敬内閣』が発足した。
『平民宰相』と言われた原敬は庶民的なイメージがあり、幅広い層から支持を集めた。四大政網を中心として政治を行い、資本家と地方の商工業者や地主たちをつないで経済を回し、産業を復興しながら政治基盤を固めた。
四大政網
ただ、『すべての男性に選挙権を与える』という『普通選挙運動』は拒絶。15円→10円と来ていたわけだが、これを3円にまで下げ、あくまでも納税資格の一定ラインはキープした。そうしなければ、彼ら立憲政友会の支持層ではない人々(低所得者層)の選挙権を認めることになり、自分たちのリスクが増えるからだ。
彼ら低所得者は我々を支援しないかもしれないからな…。
ただ、10円から3円に下がったことでまた一歩この国は民主主義に近づいた。『すべての男性』という女性差別の発想や、問題は山積みだが、俯瞰的に見ると時間をかけてこの国は民主主義に向かって歩き始めているのがわかる。
1918年11月11日、第一次世界大戦は終結した。その後を調整する『パリ講和会議』で、『ヴェルサイユ条約』が結ばれ、日本はドイツが持っていた中国の権益や太平洋の島々の統治権を得た。
蝦夷地が北海道に代わった年 | 1869年 |
琉球王国が沖縄になった年 | 1879年 |
台湾総督府が置かれた年 | 1895年 |
朝鮮総督府が置かれた年 | 1910年 |
ヴェルサイユ条約で支配下が増えた年 | 1918年 |
こうしてまとめて考えれば、この国がなぜ野心を持ってあのヒトラーらと手を組んだかということが見えてくるはずだ。しかし、そうした『帝国日本』を良く思わない国は存在していて、
といった形でそれは表面化していた。ヴェルサイユ会議で決まった『民族自決』の考え方が、この時世界にあった植民地化された国々の考え方に変化をもたらしていったのである。
[デモ行進する北京大学の学生]
このパリ講和会議の後のヨーロッパの国際体制は『ヴェルサイユ体制』と言われ、1920年代の国際秩序の基盤となった。日露戦争で強国ロシアに勝った日本。常に戦争のキーパーソンとして関与するアメリカ。これらの列強がこれから始まる『第二次世界大戦』の主役(悪役)となっていくことになる。そして、『ドイツ暴走の封印』を目的として『ヴェルサイユ体制』が組まれたわけだが、当のドイツの牙は完全には折れていなかった。そう。ドイツにはまだヒトラーという男がいたのである。
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