『満州事変』
上記の記事の続きだ。浜口雄幸第27代目総理大臣は、『ロンドン海軍軍縮会議(1930年1月21日から4月22日)』に参加し、海軍の同意を得ぬまま海軍軍縮条約を結び、これに憤慨した右翼の日本人男性に狙撃され、死亡してしまった。国のトップが死亡し、更に国内も国外も『恐慌』一色。不安定な情勢が続く中、若槻礼次郎が第28代目総理大臣になり、内閣を構成した。
その頃、満州では『抗日』的な動きが見え隠れしていた。『張作霖爆殺事件』で爆殺された張作霖の息子である張学良は、日本が嫌いだった。彼は、抗日の為に蒋介石の国民政府の支配下に入る。そして、命令によって共産軍の討伐をするが、内戦の停止を呼びかける共産軍の方に同調することになり、蒋介石を西安で拉致して監禁し、説得。内戦停止と共産軍との共闘を約束させる。そして『第2次国共合作』を成立させることになる。
そしてそのあと、日中戦争の原因になる『満州事変』が巻き起こってしまうのである。
日本嫌いの張学良は、日本の南満州鉄道と並行する鉄道を敷設して南満州鉄道の儲けを横取りしようという強硬手段に出ていた。若槻礼次郎らの立憲民政党は、満州での張学良の強引な動きに穏やかな姿勢で対応。交渉によって権益を守ろうとした。しかし、
と批判され、満州権益と、その獲得の為に戦った『日露戦争』で犠牲になった多くのリソース(ヒト、モノ、カネ)を想像するように主張した。日本にとって満蒙(南満州、東部内蒙古)は、『我が国の生命線』と言われるほど、重要な地域で、すでに多くの日本人が満蒙に渡って土地を開拓し、ここからとれる豊富な資源も大きな権益だった。
そして1931年に『柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)』が起こった。
[事件直後の柳条湖の爆破現場]
満州の日本軍である関東軍は、柳条湖のほとりで日本が経営していた南満州鉄道を爆破し、それを中国軍のせいにして軍事行動を開始し、奉天と大連を制圧し、満州を占領した。これが『満州事変』である。
アメリカ、イギリスといった中国に利害を持つ国との不和を恐れた若槻内閣だったが、世論はこうした満州に対する強硬手段に賛成。若槻内閣は総辞職に追い込まれた。この時の日本は、日露戦争で列強ロシアに勝利したことも大きく手伝って、『帝国主義』を捨てられなかった。
蝦夷地が北海道に代わった年 | 1869年 |
琉球王国が沖縄になった年 | 1879年 |
台湾総督府が置かれた年 | 1895年 |
朝鮮総督府が置かれた年 | 1910年 |
ヴェルサイユ条約で支配下が増えた年 | 1918年 |
日本はせっかく260年続いた徳川の江戸幕府を倒して、明治維新を成功させて尊王攘夷の考え方を軸にして外国の脅威を打ち払い、それどころか幾多もの戦争に勝利して領土を拡大し、ついには『列強』の仲間入りを果たしたのだ。
自分たちがやらなくても、どうせ外国がやる。外国を野放しにすれば、やがて日本も支配される。やられる前にやれ!
平和ボケした現代の学者は、その植民地化された人々の権利や、戦争で巻き起こった甚大な被害を見て、淡々と戦争や帝国主義を否定するが、この時、彼らの頭をよぎったこういう考え方は、確かに一理はあったのだ。このタイミングで世界の中心だったヨーロッパの覇権の推移を見てみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
そしてこの後だ。規模もヨーロッパから『世界』へと変え、まとめ方は『世界で強い勢力を持った国』とする。
17世紀のイギリス以降世界で強い勢力を持った国
この世界は、最初の世界帝国アッシリア(現在のイラク近辺)から現在に至るまで、常にどこかの勢力が覇権を握り、優位な立場を得ようとして画策し続けている。
また、古代エジプト王国は、アッシリア帝国に支配され、紀元前6世紀ごろにアケメネス朝のペルシャによって滅ぼされる。だが、実に2500年もの間繁栄し続けることができた、稀有な古代王国である。その理由の一つは、この土地が『砂漠に囲まれた場所』だったからということだ。つまり、他国がなかなか攻め入ることができなかったのである。
もう一つは『専制国家』だったからだ。圧倒的な支配力があったから、内乱も起きにくかった。
支配者が独断で思いのままに事を決する国家。
このような事実が、内外からの侵略や反乱を抑止し、長きにわたって繁栄したのである。それがわかる同じような例として、日本が挙げられる。日本は、島国であり、海に囲まれた国だ。だからエジプトと同じように、それが『城壁』代わりになって、他国がなかなか攻め入ることをしなかった。
しかし、1800年代の中盤から始まった幕末の時期に、隣の中国(清)がイギリスに『アヘン戦争』で半植民地化される。それを見た吉田松陰や高杉晋作といった幕末の志士たちは、
何とかしなければこの国は滅ぼされる!
と危惧。そして、激動の幕末時代が始まったわけだ。
『攻撃は最大の防御』。それが一理あることは確かだったのである。だが、『中国のせいにする』というこの『満州事変』のようなやり方は遺恨を残す。そうまでして満蒙を固守しようとしたのは、今までの流れを見てもわかるように、
といった問題を何とかしなければならない使命感に襲われていたからだろう。
そんな中、第29代目総理大臣となったのは犬養毅(いぬかいつよし)(1931年12月13日 – 1932年5月15日)だ。福福沢諭吉の慶應義塾で学んだ彼は、『大正政変』では藩閥政治弾劾の先頭に立ち、第3次桂太郎内閣を打倒し、尾崎行雄と並んで『憲政の神様』と慕われた。
犬養が取り急ぎ行ったのは『昭和恐慌』の解決。再び金貨の製造を停止し、金の輸出を禁止。そして、金の量に関係なく紙幣を増刷し、『ドーピング』を行う。これにより、昭和恐慌は収束し、日本製品が値下げされ、輸出が増え、産業界が活性化した。その中で、『日産、日窒(にっちつ)』などの『新興財閥』も誕生した。
日本は、『ラストエンペラー』の『溥儀(ふぎ)』を執政という役につけ、この『満州国』を日本の従属国という形で建国する。これによって、『満州の人々が自ら望んで満州国を作った』という体裁を作り上げ、日本は満州に対する支配を強固なものにしていった。
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