『日中戦争』
第一次世界大戦を利用して『帝国日本』は虎視眈々と野心を燃やし、『大戦景気』がお金を燃やす成金を生んだ
上記の記事の続きだ。政党内閣が続くのはいいが、政党政治というのはまず『選挙に勝つ』ことが求められる。打席に立たなければバットが振れないのだ。したがって、なんとしても打席に立つために、『政治と金』問題が進んでいく。賄賂を使って票を得るそういう手段に出た政党政治を、陸海軍の青年将校や右翼たちが『腐敗』と捉え、『国家改造運動』が行われるようになる。
この頃は、そこかしこで『戦争』が巻き起こっていた時代だ。軍隊の肩に国の未来が乗っかっていた。だから彼らの負った責務と使命は大きいが、それゆえ、彼らが主張する権利も大きくなる。とりわけ、『声』が大きくなった軍人の影響力は大きく、国家改造運動は民衆や官僚、マスコミの一部も巻き込み、軍国主義化が進んでいく。
陸軍きっての秀才と言われた石原莞爾(かんじ)の声も大きかった。彼は、
石原莞爾
と予想し、多くの人間がそれを真に受けた。更に彼は言った。
石原莞爾
こうした彼の未来予想図を妄信した関東軍の将校たちが、独断で『満州事変』を起こした原因となっていたのである。彼だが大きく力があり、怒らせたら刀で斬りかかってくるし、この時代にあっては銃で撃たれるしで、まだまだこの世界において女性は肩身の狭い思いを強いられるのであった。
[1945年頃の石原莞爾]
『一人一殺』を唱えた右翼結社の『血盟団』は、井上準之助前大蔵大臣、団琢磨(だんたくま)三井同盟会社理事長を暗殺(血盟団事件)。また、『五・一五事件』では犬養毅総理大臣も海軍の青年将校に暗殺された。
犬養毅
海軍将校
こうしたやりとりはその後の伝説とされるが、犬養は毅然とした態度で説得を試みたのだという。しかしあえなく落命。こうして『政党政治』は一事中断し、太平洋戦争が終わるまで軍の意向が強くなることになった。
[犬養毅の葬儀]
第30代目総理大臣の、海軍大将、斎藤実(まこと)は(1932年5月26日 – 1934年7月8日)『日満議定書』によって満州国を承認し、『溥儀が中心となって中国から独立した満州国の独立を、日本が認める』ということを公にしたが、しかし1932年3月、リットン調査団が派遣されて、国際連盟が日本のこの満州事変を『正当な軍事行動』とは認めなかった。
国連
こうした日本の『孤立化と暴走』の根幹にある『帝国主義』の発想は、やがてインドのチャンドラ・ボースから『悪魔』と言われる『ファシズム』グループと結びつき、この世界を震撼させることになる。
『結束』を語源としていて、権力で民衆をおさえ、他国に侵略主義をとる独裁的国家体制。
日本は、
- 満州国承認の撤回
- 日本軍の撤兵
に賛成されるが、日本代表で出席していた松岡洋右(ようすけ)は、これを受け入れず、頑迷とした態度をしめした。
次に首相になったのは同じ海軍出身の岡田啓介。岡田内閣も、軍国主義の色が強かった。そしてここから更に軍人が世間を騒がせる事件が起こる。下記の記事で『大日本帝国憲法』ができたとき、
天皇は、あくまでも『憲法の条文に沿ってその権限を行使する』ことが認められ、基本的に政治の指揮を執るのは内閣だ。そうすれば、天皇の専制政治にならないし、また問題があった場合も天皇の件には傷つかない。この『二重権力構造』によって、この国は事実、大きな暴動が起こりにくい国家となっていったのである。
と書いた。
『大日本帝国憲法』を作って天皇の権威を引き上げよ!伊藤博文が『初代内閣総理大臣』でリードする
しかしこの考え方をついた憲法学者が、
憲法学者
と主張。つまり、天皇をただの『お飾り』ではなく、『実質的な権力者』とすべきだというのである。これに、内閣や議会政治に反感を持っていた人々(軍・右翼等)が目をつけ、これを盾にしながら岡田内閣に圧力をかけた。そして岡田内閣はこれに屈して、
岡田内閣
という『国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)』を出し、内閣、議会、そして憲法の力が弱まり、更に軍国主義化へ進んでいった。
天皇機関説
国体明徴声明
しかし、その軍人の中でも更に意見が割れる。
皇道派 | 天皇の親政のもと軍事政権を樹立する |
統制派 | 官僚・財閥と協力して国家に『総力戦体制』を作る |
[叛乱軍の栗原安秀陸軍歩兵中尉(中央マント姿)と下士官兵]
統制派は皇道派を追い込み、焦った皇道派は『昭和維新』を掲げて『二・二六事件』を起こす。
二・二六事件
- 前首相・斎藤実殺害
- 大蔵大臣・高橋是清殺害
- 陸軍省・国会議事堂の選挙
確かに、『明治維新』の時も『幕府を倒して尊王攘夷の考え方で、国を守る』という大義名分によって大勢の人が命を懸けた。だからこの昭和維新も、国を運営する中核を倒し、もう一度天皇を掲げて、国の舵取り(進路)を大きく変更するという意味で、明治維新に近い、大義に則ったクーデターだった。結果的にこれは鎮圧されたが、その鎮圧をしたのもクーデターを起こしたのも陸軍であり、軍人の影響力を誰もが思い知ることになったのである。
[28日時点の反乱部隊の占拠]
雄藩『いつまでも創業者一族を優遇して特権を乱用してるなよ?』『徳川』と『幕府』崩壊のカウントダウン
更に、広田弘毅(こうき)第32代総理大臣(1936年3月9日 – 1937年2月2日)の時に、『軍部大臣現役武官制』が復活し、軍の政治介入の度合いが深まる。「国軍の父」と言われ、初代軍国主義派に等しい山県有朋が作ろうとした軍国主義の世界が、浸透しつつあったのだ。
日本初の『政党内閣』誕生!民衆の声が徐々に大きくなる一方、『天皇崇拝』もヒートアップしていく!
そしてこの時、この後世界で巻き起こる『大惨事』の種となる出来事が起こった。国際連盟を脱退し、軍国主義化を進めて、『帝国日本』の構想を強める日本だったが、同時期に、国際連盟を脱退したある団体が存在していたのだ。それこそが、ヒトラー率いる『ナチス・ドイツ』である。同じ境遇にあった両国は接近し、『日独防共協定(1936年(昭和11年)11月25日)』を締結。
1933年1月30日にドイツでヒトラー内閣が発足した。ドイツは『ヴァイマル共和国』ではなくなり、『ナチス・ドイツ(1933年 – 1945年)』へと生まれ変わったのである。
[アドルフ・ヒトラー]
一方その頃、スペインでは内戦が起きていた。ブルボン朝の王家が倒れたことを機に、『人民戦線内閣』という社会主義寄りの政権と、資本家たちが支援するフランコ将軍が対立する。彼は総選挙で左翼勢力中心の人民戦線内閣が誕生すると左遷されるが、旧王党派や地主層の支持を受けスペイン内乱を起こした。そしてこのような図式が成立していった。
人民戦線内閣 | 欧米の社会主義者、国際義勇軍、ソ連 |
フランコ将軍 | ヒトラー、ムッソリーニ |
要は、似たような思想を持った人(団体)同士が同盟を組んだのだ。フランコ将軍はファシズム思想を持った人間だったので、ヒトラーとムッソリーニは彼に協力した。ヒトラーに関しては、仮想敵国と定めていたソ連が人民戦線内閣側についたことも理由の一つだった。では、当時のソ連のトップは誰だろうか。そう。スターリンである。彼はレーニンの死後、トロツキーらを追放し、1930年代初頭に独裁権を掌握し、大粛清を重ねていた。
1922年から1991年まで存在した国『ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)』はどうやって誕生した?
[ヨシフ・スターリン]
つまりここに出ている手札はこうだ。
ナチス・ドイツ | ヒトラー |
イタリア | ムッソリーニ |
スペイン | フランコ将軍 |
ソ連 | スターリン |
思想的に見ても『混ぜるな危険』の要素がこれだけ集まった。これはまるで、『第一次世界大戦』の前にあった『三国同盟と三国協商の成立』のような、そういう危険な兆候でもあったのだ。結果、フランコ将軍は彼らの支援もあって、反乱に成功。そしてヒトラーとムッソリーニは、この件をきっかけに同盟を組み、ここに世界最凶のファシズム同盟が成立してしまったのである。
広田弘毅首相は、この内外の抑圧、特に不気味で不穏な世界的なプレッシャーも手伝ったのか、総辞職を決める。第33代目総理大臣、林銑十郎(せんじゅうろう)(1937年2月2日 – 1937年6月4日)も、結局この任期を見てわかるように、この大命を果たすことができずに終わった。この時期の総理大臣はコロコロと変更してしまっているが、それだけこの国が不安定だったということを意味するだろう。
第34代目総理大臣、近衛文麿(このえふみまろ)(1937年6月4日 – 1939年1月5日)は、政党や財界に癒着がない、藤原氏につながる名家から出た有能な人材だった。国民、軍人、共に人気があり、何かを変える可能性を秘めていたことは事実だった。
しかし一か月後の1937年7月、西南方向の盧溝橋(ろこうきょう)で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件、『盧溝橋事件(七七事変)』が勃発。近衛内閣は不拡大方針を表明したが、軍の圧力によって撤回せざるを得ず、両国は全面戦争に突入してしまった。そして『日中戦争』が開幕してしまうのである。
[盧溝橋、宛平県城および周辺の航空写真]
双方が戦争という体裁を望まなかったので宣戦布告が行われず、日中戦争は『志那事変』、『日華事変』ともいわれる。
日本はこの時の『南京事件』で現在も国際的に負い目を感じている。それは、日本軍が大勢の『非戦闘員』を殺害したからだ。それは、中国がいつまでも抵抗したことが背景にあり、近衛文麿が、
近衛文麿
と威嚇したことが裏目に出て、蒋介石率いる『国民政府』と交渉ができない状態になり、日本は今まで以上に強硬手段に、そして中国は『北風と太陽』のごとく、衣服を着こんでいったのである。
[南京城内で避難民にまぎれて逃亡を企てた中国軍正規兵を調べる憲兵(毎日新聞昭和13年1月1日発行)]
長期戦になり、
近衛文麿
と主張すると、中国内から親日派の汪兆銘(おうちょうめい)が同調。彼を軸にして南京に『第二の満州国』を作ろうとするが、蒋介石は動じず。そして、蒋介石にはアメリカ・イギリス・ソ連が『援蒋ルート』という支援経路で支援し、戦争が更に長期化。日中戦争は泥沼化していった。
その後、先ほどの流れから『ファシズム(全体主義)』化した日本とドイツに、イタリアが加わり、日本は、『日独防共協定』を拡大し、日独伊(日本・ドイツ・イタリア)で、『三国防共協定(1937年8月21日)』を締結。そんな最中の1939年、ドイツがポーランドを侵攻し、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。『第二次世界大戦』が始まってしまうのである。
ファシズム主義、帝国主義の三国は『日独伊三国同盟(1940年9月27日)』に応じ、日本は援蒋ルートの遮断と日中戦争の資源確保を狙い、東南アジアや太平洋へ進出。これにアメリカ、イギリスなどが反発した。
[「仲良し三国」-1938年の日本のプロパガンダ葉書はドイツ、イタリアとの日独伊三国防共協定を宣伝している]
近衛文麿は日中戦争が長期化したため『国家総動員法』を制定し、議会の承認なしに天皇の勅令によって戦争に必要な物資や人員の動員ができるようにしていた。これが立憲主義、議会政治を無力化するものとなり、軍国主義、ファシズム主義、帝国主義の色が強まった1940年前後のこの時期、もはやいつどこで充満したガスが大爆発してもおかしくないような、そういう一触即発の緊張状態が続いていた。
そんな最中に『第二次世界大戦』が起きたのだ。世界の人は、まさかこの戦争が『最後の世界大戦』に『すべき』、人類の負の遺産になるとは想像していなかった。
- 日本の捏造である満州事変
- 南京事件の大量殺人
- ヒトラーのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)
- 植民地化された国々で起きたすべての戦争
- 広島・長崎に落とされる原爆
そのどれもこれもが、何一つ正当化できる『人の行動』ではなかった。彼らをここまで衝き動かしたものは一体何だったか。それは、各記事でそれぞれの歴史を見れば見えてくることだ。ある人は追い込まれていて前に出るしかなく、ある人は傲岸不遜に陥っていた。どちらにせよ言えるのは、人間は、1500年代にあったスペイン・ポルトガルの『大航海時代』で始まった『世界の一体化』からまだ慣れていなかったのだ。
この後起こる『世界規模の戦争』は、はるか昔にこの星に住む人間が始めた『暴力』を含めた様々な『不義』に大きな一段階をつける、重要な出来事だったと言えるだろう。
アインシュタインは言った。
良くか悪くか、世界の形を大きく変えたスペイン・ポルトガルの『大航海時代』の幕開け
行くところまで行かないと人間は軌道修正ができない。人間にその大きな欠点を自覚させたのは、『戦争』だったのである。
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