『第二次世界大戦』
上記の記事の続きだ。日中戦争(1937年7月7日から1945年9月9日)がまだ終わらない中、の1939年、ドイツがポーランドを侵攻し、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。『第二次世界大戦』が始まってしまう。ファシズム主義、帝国主義の三国は『日独伊三国同盟(1940年9月27日)』に応じ、日本は援蒋ルートの遮断と日中戦争の資源確保を狙い、東南アジアや太平洋へ進出。これにアメリカ、イギリスなどが反発した。
これで蒋介石を支援する援蒋ルートがなくなり、資源確保できれば、日中戦争も優位になるからな!
日本は同じ発想で帝国主義を貫くナチス・ドイツのヒトラーと、イタリアのムッソリーニと意見が合ったのだ。それぞれ手を組み、それぞれがその同盟の力でほしいものを手に入れる。それがこの『日独伊三国同盟』である。
その『日独伊三国同盟』が結ばれるまでの動きを説明しよう。実はそれには反対意見もあったのだ。近衛文麿内閣が総辞職した後、枢密院議長だった平沼騏一郎が第35代目総理大臣となる。
陸軍 | 賛成(ソ連の脅威があるから) |
海軍 | 反対(イギリス・アメリカと揉めるから) |
しかし、このように陸軍と海軍で意見が割れていた。この同盟に反対していた人物が、海軍良識派と言われた、
らである。日露戦争の海軍の英雄、東郷平八郎は1834年に86歳で死去していた。今や、彼の代わりに海軍の中核をなすのはこの二人だった。彼らは日米の国力の差をよく理解していた。常に対米戦不可を主張し、徹底的にこの同盟には反対し続けた。米内がドンとなって陸軍の強硬派と対立し続けた。彼らはアメリカとの戦いだけは避けなければならないとわかっていたのだ。
[米内と山本五十六]
平沼は板挟みになり苦労するが、ソ連軍が満州方面で関東軍と衝突する『ノモンハン事件』が起き、そこで大きな被害が出てしまった。そこに、アメリカが『日米通商航海条約』の破棄を通告してきたことが重なり、同盟締結の流れが優勢になった。
しかし、ドイツがソ連と手を組み『独ソ不可侵条約』を結ぶ。日本としては同盟を組む予定のドイツが、敵のはずのソ連と同盟を組んだから混乱。平沼騏一郎は、
と言って、総辞職した。ナチス・ドイツは、かつて仮想敵国と定め、スペインの内戦で対立したソ連と手を組み、ポーランド占領(1939年)。実に200万を擁するポーランド軍も、高度に機械化されたドイツ軍とヒトラーの狂気的なエネルギーには太刀打ちできなかった。イギリスとフランスはドイツに宣戦布告。ここから本格的な『第二次世界大戦』が始まっていくのである。
[条約に調印するソ連外相モロトフ。後列の右から2人目はスターリン]
陸軍から阿部信行が第36代目総理大臣となり、ドイツの思惑が判明すると、ヨーロッパの戦争には介入しないと主張。しかし国内は日中戦争による影響で物資不足→物価上昇の負のスパイラルが起き、生活が困窮していた。『価格統制令』を出して物価の引き下げを図るも、闇取引が行われて効果は低い。
そんな中、第37代目総理大臣となったのが先ほどの海軍良識派のドン、米内光政である。彼としてはとにかく蒋介石を支援する援蒋ルートを遮断し、日中戦争を終わらせたかった。しかしアメリカがそれを阻止するかのように、日本への物資の輸出制限を行う。その時、ドイツはすでにフランスを打ち負かしていて、その勢いを見た日本は、
という声が高まり、親英米的と判断された米内光政は総辞職に追い込まれた。そして、第38代総理大臣となったのが、再び近衛文麿(1940年7月22日 – 1941年10月18日)だった。かつて、イギリス、フランスといったらこの世界の覇権を獲るほどの勢いがあった国だ。そのうちのフランスが、ドイツによってパリを占領されていて、イギリスも秒読みという気配があった。
日本は、ナチス・ドイツのこの勢いは『勝ち馬』にしか見えない。彼らと手を組み、アメリカを含めたそれらの国が支配する東南アジアや太平洋方面に進出する『南進政策』をとるべきだと考えた。それによって、蒋介石を支援する援蒋ルートを遮断することも可能になり、一石二鳥だからだ。
[南進論実行時のアジア(1937-42年)]
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南進政策のメリット
そこで近衛文麿は、北部フランス領インドシナ(ベトナム北部)へ軍を進駐。そこで『日独伊三国同盟』が締結されたのであった。アメリカは日本への輸出制限を『輸出禁止』に引き上げ、牽制。くず鉄、鉄鋼などの輸出を禁止した。しかし、ヒトラーを筆頭にこの世界に誕生した『最恐・最凶のエネルギー』は、もう行くところまで行くしかない気運を背負っていたのである。
[金属類回収令により供出される土浦国民学校の校門]
特にナチス・ドイツの勢いは驚異的だ。ナチス・ドイツはチェコスロヴァキアの中でもドイツ人の多いスデーテン地方を得ようとするが、チェコスロバキアはこれに反対。だが、ここで強国イギリスとフランスが『ミュンヘン会談(1938年)』にて、
として、ヒトラーのご機嫌取り対策を推進してしまう。これが『宥和政策』と言われ、後に非難の対象になるわけだ。
[ミュンヘンに集まった英仏独伊の首脳。左からチェンバレン、 ダラディエ、ヒトラー、ムッソリーニ、チャーノ伊外相]
だが、彼らを野放しにした結果がこれだ。ソ連と手を組み、ポーランドを落とし、フランスを占領して、『日独伊三国同盟』を組む。この勢いはもう止めることはできなかった。世界が総力をあげて潰さなければ、もう止めることはできなかったのである。
日本は、こんなナチス・ドイツのようなエネルギーにあこがれた。
彼らのように『一国一党』とし、一つにまとまれば日本ももっと強くなる!
そう考えたのである。陸軍の支援を受けながら『新体制運動』を起こし、日本の政党は次々に解散。『大政翼賛会(たいせいよくさんかい)』という1つの政党になり、近衛文麿がその総裁になった。この国はヒトラーの狂気的なエネルギーに魅了されていたのだ。彼らが『世界の敵』ではなく、『下剋上の見本』のように見えた。
[大政翼賛会本部]
かつて織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が下剋上をして戦国時代を勝ち上がり、新たな世界を築き上げたように、『イギリス、フランス、アメリカ』という強国を下から這い上がって打ち倒し、逆に彼らを支配する側に回ることで、この世界の構図が一気に塗り替えられる。そういう千載一遇の大チャンスが、目の前に広がっていると考えたのだ。
Wikipediaにはこうある。
ドイツ側の狙いはアメリカがイギリス側で参戦するなら、アメリカは日本とドイツに対する二正面作戦のリスクを冒すことになるという威嚇効果を得て、アメリカ参戦を防ぐことにあった。反英親ソの外相リッベントロップは三国同盟にソ連を加えた四国同盟に発展させ、巨大反英ブロックを形成する構想をもっていたが、1940年秋にバルカン半島やフィンランドを巡って独ソ関係が悪化しつつあり、1940年11月12日のモロトフ訪独も平行線で終わり、ヒトラーは対ソ作戦の準備を開始することになる。
実は、『日独伊三国同盟』は、『日独伊ソ』の四国同盟になる予定だった。『独ソ不可侵条約』でドイツはソ連と手を組んだし、この勢力にソ連を加えたら、もう連合国にだって勝てると考えた。だが、ドイツが急に独ソ不可侵条約を破棄してソ連に攻撃。これによってソ連との同盟は実現不可能となった。
それについての詳細は世界史から見た『第二次世界大戦』の記事に書いたが、ソ連のスターリンと、ドイツのヒトラーの、意見が合わなかったのである。それでこの同盟が結ばれることはなかったのだ。しかし、これらが結ばれれば、
という、『最恐・最凶』に『最強』が加わる可能性がある問題集団が誕生していたのだ。
そこにあるように、近衛文麿は第38代目総理大臣だったが、実はアメリカとの関係悪化は望んでおらず、アメリカに対して強硬的な立場だった松岡洋右をおろし、第39代目総理大臣となって新しい内閣を発足していた。しかし、アメリカは日本の態度を認めることはない。
と、日本への制裁は強くなるばかり。実は、石油や鉄類の重要資源の7割をアメリカから輸入していたので、近衛文麿はここと揉めることを避けたのだ。しかし、結局話は進展しなかった。そして第40代目総理大臣となったのが、その東条英機である。
[東条英機]
海軍良識派に山本五十六らがいたなら、陸軍強硬派にはこの東条英機がいた。1941年10月。そんな東条がこの座に就いたということは、さっそくアメリカとの戦争が勃発するのか。と思いきや、実は彼を推薦した内大臣木戸幸一は、天皇への忠誠心が強く、天皇からの信頼も厚かった。木戸は、陸軍の実力者である東条が上に立てば、天皇の下命によって陸軍を抑え、対アメリカ戦を回避してくれると期待したのである。
しかし東条英機は野心家だった。天皇だろうがアメリカだろうが、敵対する者は容赦なく戦う。こういう姿勢を受け、私は今
まるでヒトラーのようだな…
と考えて調べたのだが、Wikipediaにやはりこうあった。
東條は同盟国であるナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーのやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことが分かる。
この時代の狂気の渦の中心人物は、やはりあの男だったのである。ただし、東条は天皇を決して軽んじる人間ではなかった。戦後、宮中グループから天皇に累が及ばないよういわれると、
と言ったという。しかし東条は自分に批判的な人間は懲罰招集し、多くの人を死地へと送った。その独裁的傾向から人々は『東条幕府』だと揶揄した。
日本はその後、アメリカ、イギリス、中国、オランダから『ABCC包囲陣』の経済封鎖を組まれ、石油の輸入の大部分が断たれ、交渉が長引くほど不利になる状況になった。
A | アメリカ |
B | イギリス |
C | 中国 |
D | オランダ |
交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官は『ハル・ノート(合衆国及日本国間協定ノ基礎概略)』という交渉文書を送り、日本に牽制。このやり取りの末、日本とアメリカの関係が悪化。1941年12月に日本が真珠湾を攻撃し、アメリカが日本へ宣戦布告。こうしてアメリカの『第二次世界大戦(太平洋戦争)』への参戦が決まった。これでいよいよ、中立を守ってきた世界一の国力を持つアメリカがこの戦いに参加することになったのだ。
海軍良識派の米内光政、山本五十六はこれを避けたかったのだ。これだけは避けたかった。アメリカが出てきたら確実に負ける。そう悟っていた識者たちは、戦う前からこの戦争が『負け戦 』だと察知していたのだ。
[コーデル・ハル国務長官と最後の会談に臨む野村吉三郎大使と来栖三郎大使(1941年12月7日)]
太平洋戦争最大の戦闘とされる『硫黄島の戦い』を日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」は、クリント・イーストウッド監督によって日本側、アメリカ側の双方の視点から描いた映画がある。
日本側からの視点『硫黄島からの手紙』
アメリカ側からの視点『父親たちの星条旗』
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