『日本国憲法』
上記の記事の続きだ。
という5つの改革を軸に新しい憲法の制定を支持し、ここから選挙権は『満20歳以上の男女』に与えられることになる(新選挙法)。更に、戦前の軍国主義者や戦争協力者は責任を問われ、約21万人が職を追われる『公職追放』もあった。
また、軍人方向の『武力』だけではなく、『財力』にも制裁が入った。かつて商業が発展した室町時代には、銭の需要が増加し、こういう変化があった。
室町時代の庶民たちの変化
[左:初鰹を売る振売。「守貞漫稿」より 右:箱詰めのすしを売る振売。「守貞漫稿」より]
時代劇でよく見るこうした行商人がこの頃になると頻繁に見られるようになるわけだ。そして、高利貸しをした酒屋・土倉(どそう)は莫大な営業税を払う代わりに幕府の保護を受け成長し、後の戦国末に台頭する『豪商』の先駆けとなった。
鎌倉時代および室町時代の金融業者。現在の質屋のように物品を質草として担保とし、その質草に相当する金額の金銭を高利で貸与した。
日本マクドナルド創業者の藤田田はこう言った。
『GHQのGIたちはユダヤ人を軽蔑しながら、彼らに頭が上がらなかった。彼らに金を借りていたためである。ユダヤ人は浪費家のGIたちに高利で金を貸し、金銭的に優位に立っていたのだ。それはまるで、幕末期の商人が武士に金を貸して、経済的な実験を握ってしまったのと同じであった。敗戦国日本に駐屯し、我が物顔で闊歩しているGIの、そのまた上を行く人種がいたことは、私には痛快な驚きであった。敗戦で生きていくための精神的な支柱を失っていた私の前途を示す、一筋の光明にも思えた。』
この記事のタイトルにあるように、歴史に『庶民』が出てきたのは『お金』の存在があったからだ。それまでは、
といった人間が権力と武力を使ってこの国を牛耳ってきた。中大兄皇子が『天皇を中心とした集権国家づくり』を作るために、中臣鎌足と『乙巳の変』からの『大化の改新』を起こし、力をつけていた豪族の蘇我氏から政権を皇族が握ったのが645年。
その後、仏教、儒教、神道、アニミズム、御霊信仰などの精神体系と共に国づくりをし、班田収授法によって年貢を納めるシステムができ、その『資産』である田んぼを巡って様々な問題が生じ、その中で、それを守るために武装集団が結成され、その中からこの国に『武士・侍』が生まれる。
武士 | 武装化した有力農民、豪族、下級貴族の子孫 |
侍 | 貴族の身辺警備のための武士 |
滝口の武士 | 宮中の警護のための武士 |
622年に49歳で生涯を閉じた聖徳太子は、初めて『忍者』を使って情報を集め、政治を行った人物として知られているが、ここで現在でも世界中の人が『日本』と聞いて連想する『忍者、侍』といった役者が揃うわけだ。
忍者 | 600年頃 |
武士、侍 | 900年頃 |
平将門がその武士の名を大きく轟かせ、平氏、源氏といった『武家』が強い時代が到来する。
その武家の中から源氏である源頼朝が『鎌倉幕府』を作り、この国に朝廷以外の大きな権力が誕生し、幕府はこの国の軍事・警察を担当することになった。
だが、そのうちそこでも腐敗が起き、朝廷と足利氏が手を組んでこれを打倒。そして、京都の室町に『室町幕府』という新しい幕府ができる。しかし、天皇自身を頂点とした『建武の新政』は強引すぎてわずか3年で滅びる。幕府は足利尊氏が擁立する光厳天皇と、吉野に逃げた後醍醐天皇とで、二つに分かれる。『室町・南北朝時代』である。
足利尊氏(光厳天皇) | 室町(京都)に幕府を開く |
後醍醐天皇 | 吉野(奈良)に朝廷を作る |
こうした中、この世界に『財力』を持った人間が台頭することになる。そして生まれたのが、坂本龍馬とも親交があった岩崎彌太郎の三菱、そして三井、住友といった財閥だった。そこに、日産、日窒などの『新興財閥』が加わり、戦争の背景で暗躍していた。
[岩崎彌太郎]
さしずめ、まず最初に潰した軍隊は『武士』だ。そして次に潰す対象となったのが『豪族』である、財閥だった。この国にある天皇を含めたすべての権力を見直し、そこにある帝国主義的かつ拝金主義的な野心と暗躍を阻止する。そのためにGHQは、『財閥解体指令』を出し、15の財閥の資産の解体を指示した。
彼らの株式を分割して安く売却し、財閥を解体したのだ。また、地主も同じように『豪族』的な扱いだった。彼らの『不在地主』を認めず、その地に暮らす地主であってもその面積を制限する『農地改革』を行った。
その土地の市町村に存在していない、自分は年に住んで小作料だけをとっている地主。
とメスを入れた。次に入れるのは『憲法』である。日本は新しく憲法を草案するも、その根幹にはまだ『大日本帝国憲法』の余韻が残されていた。天皇が頂点にいて、そして軍隊が存在する。こうした要因はリスクとなりうるため、マッカーサーは主権を天皇などの権力者ではなく『国民』にあることを明示し、
ことを軸にした『日本国憲法』が1947年に施工された。政治においては政党政治が復活。
日本自由党 | 戦争中に政党寄りだった議員の党 |
日本進歩党 | 軍部寄りの立場だった党 |
日本社会党 | 労働者、農民を中心とした無産政党の党 |
日本共産党 | ソ連のような社会主義国家を狙う党 |
といった政党が結成され、新選挙法によって日本自由党が第一党となった。そこで首相になるのは鳩山一郎のはずだったが、軍国主義者とみられて公職追放されていたため、吉田茂が首相となった(1946年5月22日 – 1947年5月24日)。日本国憲法の施行は吉田内閣の時に行われた(1947年4月)。
[吉田茂]
吉田茂は戦後、核爆弾を落とされ、壊滅的なダメージを負ったこの日本を『復興させた人物』ということで、世界的にも有名なリーダーである。例えば、イギリスのロンドンにある蝋人形館でロンドンの観光名所のひとつ『マダム・タッソーの館』では、日本人で唯一吉田茂だけが選ばれている。
詳しいことはWikipediaにあるが、ここでは『政治家・王室皇室成員・宗教者』の一覧を見てみよう。
政治家・王室皇室成員・宗教者
この通り。その他、
等の中にも日本人は存在しない。彼がどれほど世界から注目された人物かということがよくわかるワンシーンである。彼の言葉も興味深い。1916年、首相となった寺内正毅から『俺の秘書官にならんか』と言われて、こう答えたのだ。
彼の潜在能力は戦争前からにじみ出ていたのである。吉田内閣は具体的にまず、
の2つを復興の軸に定め、『傾斜生産方式』として『復興金融金庫』を創設し、ここに資金を最優先で回した。これはこの2つの産業には効果があったが、お金が出回って復金インフレが起こり、物価が上昇し、身の回りのものを売りながら闇市などで法外な値段の食糧や生活必需品を購入する状態が続いた。
吉田内閣打倒を訴え、他産業にわたる同時ストライキ『ゼネラル・ストライキ』を起こす計画も立てられた。混乱を極めていた日本25万人もの都民が皇居前広場までつめかけ、組閣の本部である外相官邸の前に座り込むものもいた。それを窓越しに見ていた吉田が言った言葉がこれだ。
このような竹を割ったような潔さがある人間じゃなければ、この局面でトップに立つことはできなかっただろう。例えば、ジェレミー・ベンサムが主張し、ジョン・スチュアート・ミルによって確立され『功利主義』という効用と利益を最も重視する考え方のキーワードはこうだ。
この結果を『最大多数の最大幸福』と言う。つまり、『法による人工的な采配で、みんなが平等に幸福になる』というわけだ。だがここには問題がある。例えば、100億円の軍資金がある。それを、功利主義的に、『最大多数の最大幸福』を軸にして考えて、1万人いる社員全員に投資するとする。
これを2019年現在の吉本興業で考えてみよう。芸人が1万人いるとする。しかし、トップは数えるほどしかいない。『ショートヘッド』と『ロングテール』である。
(縦:売り上げ 横:芸人)
一番左にいるわずかな人たちだけで、吉本興業の売り上げのほとんどを上げているのがわかる。そして、『その他大勢の芸人』たちが、細々とした売り上げを上げている。この一番左の僅かな人たちが『ショートヘッド(頭の短い部分)』であり、それ以降の右にズラーっと並んでいる人たちが『ロングテール(長いしっぽ)』である。
吉本興業におけるショートヘッドとロングテール
ショートヘッド | 明石家さんま、ダウンタウン他 |
ロングテール | 売れない芸人たち |
確かに、ロングテールをかき集めて縦にすれば、明石家さんまとダウンタウンの売り上げに並ぶことになる。だが、吉本興業の場合はそうとも言えないだろう。Amazonなんかの商品で考えるとこのロングテールも武器になるが、吉本の売れない芸人たちの売り上げを1万人分集めても、彼らに匹敵する売り上げを上げることはできないかもしれない。
だが、給料は違う。1万人×5万円だったとした場合、それだけでもう『5億円』だ。吉本は売り上げと芸人の数の調整が合っていないので、ロングテールになればなるほど、給料は低いか、あるいは出ないことも覚悟しなければならない。
そう考えたとき、吉本にある軍資金はどこに使うべきか。単純に考えると、『全員』となる。しかし、明石家さんまやダウンタウンの番組に経費をかけたほうが、よほど費用対効果(コストパフォーマンス)が高いわけだ。
実は『最大多数の最大幸福』というのは『最大の幸福を作り出す』のが目的なので、このような事実がある以上、ショートヘッドに投資をしたほうがいい、という結論が出てしまうことになるのだ。『全体の幸福のために何人かの幸福を制限する』という考え方の正当化に繋がるわけである。
吉田茂はこの『功利主義』の考え方を推進し、しかし多くの『ロングテール』にいる人々の反感を買ったが、大きな利益を上げて国家の経済力を強化した。
しかしこれは結局労働者の意識を高め、社会主義革命につながりかねない事態だという理由でGHQが中止命令を出している。そう。この時アメリカは、水面下で大きな問題を抱えていた。それが『社会主義国ソ連との冷戦』問題である。それはこの後の話に繋がってくることになる。
独占禁止法を出し、少数の財閥が産業支配できないようにし、農地改革も進んで地主が力を持たないようになった。そして1947年4月に『日本国憲法』が公布される。参考書の一つにはこれが吉田内閣の最大の業績とも言われるが、いくつもの資料を読むと、実際にはこれだけではない。前述したような経済面でも活躍も、彼の貢献の一つなのである。
例えば彼はこうも言っている。
続きはこうだ。
日露戦争で東郷平八郎が最強のバルチック艦隊を撃破したことと並び、『東洋の奇跡』と言われた戦後の復興、高度経済成長の裏にあったのは、『いくつかの犠牲の上に成り立つ経済復興』だった。
その後、満州事変から太平洋戦争に至る一連の戦争を計画し、遂行した『平和に対する罪』とされた『A級戦犯』を裁く極東国際軍事裁判、『東京裁判』が開始。これによって、東条英機らが7名が絞首刑。処刑された7人の遺体は横浜市西区の久保山斎場で火葬され、遺骨は米軍により東京湾に捨てられた。また、戦争犯罪者の『B・C級戦犯』も横浜やマニラ唐の軍事法廷で約5700人が裁かれ、900人以上が死刑になった。
ちなみに私の祖父もB級戦犯として捕らえられた経験がある。死刑にはならなかったが、銃撃戦の戦場に出た経験がある。しかし、双眼鏡で敵を見ている時に肘を横に広げていたため助かったという。その腕があるはずだった部分に銃弾が飛んできて、あわや腕がなくなるところだった、という逸話を幼少期に聞いたことがある。
戦争に負ければ戦犯となり、犯罪者となるのだ。近衛文麿はそれが受け入れられず、自決したのである。
日本国憲法をもとに行われた選挙では、日本社会党が勝利。片山哲が首相となった。しかし、
という僅差のために、単党ではなく連立内閣となった。そのため、傾斜生産方式が継続され、社会主義国家への改造を志向した『左派』が反発し、予算の否決に回ったため、議会運営に苦しんだ片山内閣は総辞職。そして民主党の芦田均が首相になるが、同じように苦しみ、『ショートヘッド』に入ろうとした昭和電工が政治家や官僚に賄賂をばらまく『昭和電工事件』が起き、総辞職。
[検察庁へ引致される栗栖赳夫(眼鏡の人物)]
そして、吉田茂が再び首相となった。第48代目総理大臣から、51代目総理大臣まで、計4回内閣を組織する(1948年10月15日 – 1954年12月10日)。すべて合わせれば5回だ。
右派は民主主義の中で平等な社会を実現しようとする。左派は社会主義国家を形成して平等な社会を実現しようとする。右翼・左翼ともいう。右翼は保守主義・反動主義・排外主義的な思想や運動をする団体を指し、、左翼はは急進的、革新的、また、革命的な政治勢力や人を指し、社会主義的、共産主義的、進歩主義、急進的な自由主義、無政府主義傾向の人や団体を指す。
該当する年表
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参考文献