『サンフランシスコ講和条約』
上記の記事の続きだ。再び日本は吉田茂内閣となった。1948年、GHQは占領政策を転換する。その理由は、『米ソ冷戦』だ。アメリカとソ連は第二次世界大戦の時からすでに水面下で対立し始めていた。アメリカのトルーマンは大統領が原爆投下を急いだのは、この問題の端緒となる行動だった。ソ連が日本に影響を及ぼす前に、アメリカがこの国を支配して単独占領したかったのだ。そのため、原爆の犠牲者は『冷戦の最初の犠牲者』ということになる。
冷戦の詳しい流れについては下記の記事に書いた。
そして次に見るのは下記の記事だ。
党名 | 創立者 | 当時の党首 | 支持国 |
中国国民党 | 孫文 | 蒋介石 | アメリカ・イギリス |
中国共産党 | 陳独秀 | 毛沢東 | ロシア |
北 | 朝鮮民主主義人民共和国 |
南 | 大韓民国 |
つまり、
といった反米親ソ勢力を作ってしまったアメリカは、1951年に『サンフランシスコ講和条約』を結び、1960年(昭和35年)1月19日にワシントンで『日米安全保障条約』を締結し、日本を東アジアにおけるアメリカの有力な同盟国にしたのである。
[外務省外交史料館で展示されている署名]
参考
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約wikipedia
アメリカ側 | 韓国、日本 |
ソ連側 | 北朝鮮、中国 |
これが東アジアにおける米ソの勢力図だ。アメリカは、ソ連との冷戦の為に日本の経済復興を支援し、西側陣営に組み込んだ。それによって、日本をソ連の共産勢力の防波堤にしようとしたのである。つまり、それまでアメリカはこう言っていたのだが、
ソ連との冷戦の影響でこう言い始めたのである。
これは別に名目上では大きな舵取りではなかった。前者も後者も、別に『最初から支援をしているつもりだった』という言い訳は通用する。アメリカはすでに日本の復興の為に多額の援助資金をつぎ込んでいたし、よく考えればわかるように、GHQが日本に求めたことは、基本的には日本が『良い方向』に向かうように設定されている。現代を生きる我々が過剰な崇拝思想を抱かなくてもいいのは彼らのおかげとも言えるわけだ。
しかしもちろんそれはアメリカにとっては戦略の一つだっただろうし、今回の方向転換においても、その思惑はだだ洩れだったということだ。例えば、日本にいた社会主義思想の人の考え方は今まで『多様性の一つ』だとして容認していたが、ソ連が社会主義であるために、そのような人々に関しては抑え込まれた。あくまでも日本は『アメリカ側』に立たなければならないのである。
[金日成(右)]
そして、『朝鮮戦争(1950年6月)』が勃発。
これは見たように、米ソの代理戦争であった。日本はさっそく米兵や物資を戦線に送り込む『兵站基地(へいたんきち)』となった。つまり、アメリカにとっての『都合のいい補給場所』であり、『橋頭保』である。
敵地などの不利な地理的条件での戦闘を有利に運ぶための拠点。
しかしこの時の問題で、現在進行形で矛盾点となる『憲法9条』の問題が浮上してしまう。憲法9条にはこうある。
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
つまり、日本は再び世界にとっての脅威にならないように、『天皇・軍隊・財閥・地主・憲法』にメスを入れられたが、この時こうした法律も制定されたのだ。軍隊を持ってはいけないと。しかし、現在この国には『自衛隊』があるだろう。では、一体それは何なのか、という疑問が浮上するわけだ。それがこの時に起こった問題なのである。
[警察予備隊総隊総監部]
アメリカ軍が朝鮮半島に行くことになり、日本は手薄になる。そこでマッカーサーは、日本に『警察予備隊』の創設を求める。そこには機関銃や自走砲、戦車等の所有も認められていた。つまりそれはほとんど軍隊である。しかし、この緊急事態に『一時的な処置』と判断した吉田茂はこれを受け入れ、再軍備を図った。これが現在の自衛隊の存在に繋がっているのである。
更にアメリカは朝鮮戦争後に、
占領にはお金も労力もかかるな…。負担が大きい。これはもう日本に自立してもらった方がいいんじゃないか…?
と考えるようになる。その後、先ほど1951年の『サンフランシスコ講和条約』、1960年(昭和35年)1月19日の『日米安全保障条約』に繋がるわけである。『サンフランシスコ講和条約』はソ連や中国とは条約を調印せず、西側(アメリカ・イギリス)との単独講和だった。『日米安全保障条約』は、現在沖縄や横須賀等に基地がある理由だ。この条約により、米軍は日本に駐留し続けることを双方が確認した。
また、その日には『日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定』、通称『日米行政協定』が結ばれ、そこで日本はその駐留軍のためにアメリカへ基地の提供をし、費用は分担することを取り決める。
戦争というのは基本、敗戦したら戦勝国に一方的にボコボコにされるものである。例えば『第一次世界大戦』の後のドイツは、戦争を仕掛けておいて負けたから、1923年に『ルール占領』が発生。フランスおよびベルギーが、ドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出する経済の心臓部だったドイツのルール地方に進駐、占領したのだ。
[エッセン市内を行進するフランス陸軍騎兵(1923年)]
ドイツは連合国と結んだ『ヴェルサイユ条約』で、国土の1割以上を失い、巨額の賠償金を科せられた。その額は現在の日本円にして『1260兆円』ほどであり、これを支払い終えたのは2010年10月3日だった。日本もそのドイツの一味として『日独伊三国同盟』を組んで『第二次世界大戦』で暴れ回ったのだ。だからドイツのように苦しい立場を味わってもよかったわけだ。しかし、アメリカの都合でこういう形になった。
日本からすれば、
と言いたいところだろうが、戦勝国のアメリカからすれば、
ということになってしまうのである。またこの時、世界は『独立ブーム』とも言える波が来ていた。
は独立戦争をせずにイギリスが独立を容認し、
は独立戦争を経て独立することになった。
アジア
独立年 | 国名 | 独立前の宗主国 |
1945年 | ベトナム民主共和国 | フランス |
1946年 | フィリピン共和国 | アメリカ |
1947年 | インド連邦 | イギリス |
パキスタン・イスラム共和国 | イギリス | |
1948年 | 大韓民国 | 日本 |
朝鮮民主主義人民共和国 | 日本 | |
ビルマ連邦共和国 | イギリス | |
1949年 | インドネシア連邦共和国 | オランダ |
1953年 | カンボジア王国 | フランス |
1957年 | マラヤ連邦 | イギリス |
アフリカ
1957年 | ガーナ共和国 | イギリス |
1958年 | ギニア共和国 | フランス |
1960~1961年 | カメルーン共和国 | フランス、イギリス |
1960年 | コートジボワール共和国 | フランス |
コンゴ共和国 | ベルギー | |
セネガル共和国 | フランス | |
ソマリア民主共和国 | イギリス、イタリア | |
チャド共和国 | フランス | |
中央アフリカ共和国 | フランス | |
トーゴ共和国 | フランス | |
ナイジェリア連邦共和国 | イギリス | |
ニジェール共和国 | フランス | |
ベナン共和国 | フランス | |
マダガスカル共和国 | フランス | |
マリ共和国 | フランス | |
1962年 | アルジェリア民主人民共和国 | フランス |
ウガンダ共和国 | イギリス | |
1963年 | ケニア共和国 | イギリス |
1964年 | ザンビア共和国 | イギリス |
マラウイ共和国 | イギリス | |
1965年 | ガンビア共和国 | イギリス |
戦後20年の間に『第三世界』でこれだけの独立があったのは、やはり『第二次世界大戦』という世界的脅威の影響だろう。あれを機に世界が自分たちの立ち居振る舞いを改めたのだ。ヒトラー率いるドイツは自分たちのやったことを深く考えさせられ、彼らのやった『ホロコースト』、そして日本に核爆弾が落とされた事実は、世界中の人々の考え方に大きな影響を与えた。
また、東南アジアの独立には、日本も大きく関係している。タイのような地理的な偶然ではない状況で、アジアで唯一植民地支配を受けず、世界最強のロシアのバルチック艦隊を撃破し、あのアメリカ相手に突っ込んだのは日本だけだった。この『東洋の奇跡』と言われた日本の活躍が、彼らが独立するきっかけの一つにもなったのである。
更にこの後起きる『ベトナム戦争(1955年11月 – 1975年4月30日)』だが、アメリカ軍は猛毒のダイオキシンを含む『枯葉剤』を散布し、密林の草木を枯らし、ソ連側のアドバンテージ(有利性)をはく奪しようとした。
北ベトナム | ソ連、中国 |
南ベトナム | アメリカ |
しかし、この映像を客観的に見たとき、印象が悪かった。テレビが普及したこの頃、この光景は世界中に流されることになった。そして、アメリカ軍への印象が悪くなり、世界中で反戦運動が起きた。つまり、それまではテレビが普及しておらず、
といった舞台がどのような場所になっているかを、戦勝国側は理解できなかったのだが、テレビのおかげでそれがわかるようになり、自分たちが正義だと信じて掲げてきたことに首を傾げ始めたのだ。おそらく、日本が植民地にならなかったのは『植民地支配の全盛期が過ぎた』という時期的なタイミングも大きく関係しているだろう。イギリスやフランスといった『植民地の上に成り立つ栄光』を掲げていた大国たちは、これらの戦争の時期を境目に著しく勢いを弱めていった。
イギリス・フランスの力が低下した理由
かつて植民地化させた国
イギリス | 約70か国 |
フランス | 約30か国 |
そしてこう考えると日本がアメリカに単独占領された後、植民地化されなかった理由はこのあたりになるだろう。
日本が植民地化されなかった理由
『警察予備隊』はその後海上の警備隊を統合し、航空部隊を新設。この国に『自衛隊』が生まれた。しかし、憲法9条にも矛盾したこのアメリカの思い通りの展開に反対意見も出るようになる。
[米強襲揚陸艦ペリリュー航空機格納甲板で訓練中の西部方面普通科連隊第2中隊の小銃手]
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