『白紙の未来』
上記の記事の続きだ。かつて日本の安全保障政策は、国土の防衛のみを想定していたが、この30年の間にその形は大きく変わる。2014年からあった『憲法9条にノーベル平和賞を』は、は神奈川県座間市の日本バプテスト連盟会員の鷹巣直美が発案した、日本国憲法第9条にノーベル平和賞が与えられることをもとめた社会運動である。運動主体は「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会で、受賞対象は日本国民。2014年5月22日、小西洋之、吉良佳子などが、日本の憲法9条にノーベル平和賞を授与するよう求める文書を駐日ノルウェー大使館を通じてノルウェー・ノーベル委員会に提出したと発表した。文書には、与野党7党と無所属議員の計60人が賛同者に名を連ねた。
安倍晋三は、総理就任後の国会で、
と発言。2015年3月20日、参議院予算委員会で自衛隊訓練の目的を尋ねられた際、
と発言するが、これに深い意味はないと主張。2016年4月には鈴木貴子の質問主意書に対し、
と発言する。それとこの30年の自衛隊の動きや、沖縄県の米軍基地、北朝鮮拉致問題、ロシアの北方領土その他の近隣諸国や、次に来る『世界的な脅威』から身を護るために、アメリカの国力が衰退したときのことを考え、もしかしたらこの国の軍備の在り方について、理想のイメージがあるのかもしれない。
彼は幕末期の思想家、吉田松陰を尊敬している。「晋三」の名は、松陰の松下村塾の門下生だった高杉晋作から付けられていて、吉田松陰も高杉晋作も、『日本を守るためなら』と強く願って、帝国的な発想や過激な革命をした人物だ。吉田松陰は、
北はカムチャッカ、南はルソン(フィリピン北部)まで領有するべきだ。
と考えていて、その考え方が弟子を通じて、明治新政府の富国強兵、植民地政策に反映されていった。弟子の高杉晋作も奇兵隊を作って、アヘン戦争でイギリスが清に支配されたことを受け、この国を守らなければならない使命感に襲われ、日本各地でクーデターを起こした。
[長州奇兵隊の隊士(一部]
吉田松陰の弟子にはこれだけの人物がいた。幕末で命を落とした者もいれば、伊藤博文や山県有朋のように生き残って、亡き戦友たちの分まで戦った人間もいた。
吉田松陰の弟子たちは皆『愛国心』が強い人物ばかりだ。それ自体はいいが、マイケル・サンデルは言った。
見るべきなのは以下の黄金律である。
が普及し、
といったSNSやインターネットツールやサービスは常識となった。戦後、『闇市』で法外な値段で売られていた生活必需品は、今や、ボタン一つで『全国で一番安いところ』を見つけることができ、少しでも高いものなら口コミに悪く書かれて批判され、淘汰される。
インターネットの掲示板に誹謗中傷が書かれて自殺する者、『リベンジポルノ』としてカップル時代のプライベートな動画を流出したり、SNSで主体性の低いアルバイトが遊び半分で倫理を無視した投稿をしたりと、新時代ならではの問題も目立つ一方、確かに便利にはなった。それは決定的な事実だ。
この利便性の追求がどこに行くのかは分からない。赤ん坊が四つん這いで床をはいずり回って埃を吸い、それで免疫力がつくように、衛生面が悪く、不遇に見える環境で育った生き物の方が『適応できる環境』の範囲が広く、ずっと強くなれるのは確かで、便利になればなるほど人のこうした潜在能力が埋没し、腑抜けの『もやし人間』のようになって弱体化し、全体的な力が制限される未来も一つ、想像はできる。
『ゆとり世代』とは、往々にして(1987年4月2日 – 2004年4月1日)に生まれた人のことを言うが、詰め込み教育による落ちこぼれと剥落学力問題の反省から、大幅な学習量の精選と思い切った授業時間の削減が行われ、この『ゆとり教育』が生まれた。しかし、この言葉を考えついた人間が『あれは間違いだった』と後で反省した。
そのどちらもが不測の事態を生み出し、その中から弱体化した主体性のない人間は続出してしまった。とはいえ、豊富な食材、プロテインやサプリメント、様々な世界最先端の栄養技術や知識が飛躍したことで、いつでもアスリート並みの栄養補給やトレーニングを組むことができたことで、逆に体力は強化された面もあるだろう。何事にも一長一短がある。
紀元前480年。映画『300』の舞台となったことでもギリシャとペルシャの戦争がある。ギリシャのスパルタはカルネイア祭によって全軍を出仕できず、レオニダス王率いる先遣隊300のみを派遣した。つまり、レオニダス率いるスパルタ軍300人の精鋭たちが、100万人以上のペルシャ軍を相手に、戦いを挑む雄姿を描いた映画だ。不気味で巨大なペルシャの王、クセルクセスも見ることができる。
いわゆる『スパルタ教育』がどうとか言って騒いでいる現代人には、およそ彼らの境地に到達することはできないだろう。生きるために強くなければならなかった。スパルタ軍の男たちの生きざまを、この映画で十分に想像することができる。
何度も言うが、戦争などあるべきではない。だが、いざ戦争が目の前にあるとき、放っておけば誰か大事な人が死ぬ。そういうときに、自分がやらなければ誰がやるというのだ。そして、いざというその時の為に主体性を持って心身を鍛える。それは、ギリシャから遠く離れたこの武士道精神が眠る日本においても、同じことなのだ。
ここで想像するべきなのは、イギリスの哲学者、トマス・ホッブズが言った『リヴァイアサン』である。
ホッブズは『社会契約論』を主張して、国家がいかに必要であるかを説いた。彼は『リヴァイアサン』というドラゴンを用いて、どのように国民にそれを説明したか。リヴァイアサンというのは、旧約聖書に出てくる海の怪物のことだ。ホッブズはこの怪物をその著書のためのメタファーとして使い、国家の必要性を説いた。
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茂木健一郎氏の著書『挑戦する脳』にはこうある。
『リヴァイアサン』の中で、ホッブズは、人間はもともと『万人の万人に対する闘争』の状態にあったとした。誰もが自らの生存を目指し、利益を図り、そのためには他人を犠牲にすることを厭わない。そのような『自然状態』は余りにも耐えがたいので、人間はそのもともと持っていた自然な権利を『政府』に譲り渡す。そのようにして形成された政府は一つの『リヴァイアサン』として自由に意思を決定し、行動するようになる。
つまり、人間には元々『リヴァイアサン』のような猛獣的なエネルギーが備わっていたが、それを野放しにすることは耐え難いと考え、政府に譲り渡し、自分の代わりに政府に『闘って』もらうようシステム化したわけだ。『自分は闘いたくないから』である。
もともと自由で、あらゆる権利を持っていた人間たちが、『万人の万人に対する闘争』を避けるために、契約を結んで権利の一部をリヴァイアサンたる『国家』に譲り渡す。国家の秩序を成り立たせているのは『法』である。国家は法を定め、個人は法に従う。個人は、法に抵触しない限りにおいて、自由に行動することができる。一方、国家の行為については、そのような縛りがない。まさに地上に存在する唯一の『リヴァイアサン』として、国家は自らの行動を選択し続けるのだ。
つまりこういうことだ。
ホッブズはそのピューリタン革命の後、『国』の存在自体を疑問視した人々が現れる中、この話を持ち出し、
と主張し、人々の精神面を助けたわけだが、注目するべきなのは『人間には元々『リヴァイアサン性(猛獣性)』がある』という部分である。つまりそれが日本の『戦国時代』で説明するならこういうことだ。
よく考えたらわかるが、『フランス革命』では一国の王(ルイ16世)と王妃(マリー・アントワネット)がギロチンで処刑されたわけだ。しかも公開処刑。そんなことをする人間にあるのは『猛獣性』以外の何でもない。つまり、彼ら(上)は軽んじてしまった。長らく上に君臨し、思い上がってしまったのだ。下にも『人間』がいて、彼らはただ生まれた環境が違うだけで、自分たちと何一つ変わらないポテンシャルを持っていたということを。
そして日本ではこのリヴァイアサンの暴走による『戦国時代』が始まる。それは、上の階層で甘んじる猛者たちが目を離した隙に鼓舞され肥大化した、人間に本来眠っているはずの一大エネルギー(猛獣)が巻き起こした時代だった。
世界史、日本史にて何度も見てきたが、世界初の帝国が誕生したアッシリアの時代から、現代にかけての世界の覇権の推移を見てみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
そしてこの後だ。規模もヨーロッパから『世界』へと変え、まとめ方は『世界で強い勢力を持った国』とする。
17世紀のイギリス以降世界で強い勢力を持った国
次に来るのは『ロシア』と『中国』の可能性があるとも言われている。アメリカの国力に陰りが見え始め、それを好機と見たロシアを筆頭とした水面下で力を蓄えていた勢力は、台頭し始めるだろう。その時、『自衛隊』はどうするべきなのか。『国力』として、人間の心身の状態と、主体性はどうあるべきなのか。一つ言えることは、この世には先ほどの『愛国心』の黄金律同様、以下の黄金律が存在するということである。
探究心があり、上昇志向があるからこそコペルニクスやガリレオが天動説が間違いだと気づき、ニュートンが万有引力の法則に気づき、アインシュタインが相対性理論を見出し、コロンブスが新大陸を発見し、マゼランが船による世界一周計画でこの地球が大部分が水に覆われた球体であることが証明し、リンカーンやキング牧師らが人の間に差別がないように奮闘し、ガーシュインは世界的作曲家となった。
この虚無たる世界を彩るために、映画、漫画、音楽等の様々な作品を生み出すクリエーターたち。自らの限界に挑んで挑み続けるアスリートたち。彼ら、彼女らの生きざまを見て生きる勇気や大きな感動をもらえるのは、彼らに好奇心と探究心、そして上昇志向があるからである。
しかし、ノーベルは自分の作ったダイナマイトが殺人に使われ、『生まれてすぐに殺された方がマシだった』と言い、ライト兄弟の弟オーヴィルも、第二次世界大戦で飛行機が戦争に使われ、自分の人生を後悔した。オッペンハイマーは日本に原爆が使われてしまったことを悔い、アインシュタインは自分の生み出したエネルギーの公式で原子爆弾が作られたため、日本に来日したとき、泣いて謝った。
これで『令和』までの日本の歴史は一旦まとめ終えるが、『この国』だけのことを考えるのは盲目的である。我々は日本人ではない。『人間』なのだ。そのことを忘れなければ、どんな場面においても人は道を踏み外すことはない。人間の歴史を作っていくのは人間であり、その人間にあるべきなのは『知性』だ。
孔子は弟子に、
と聞かれ、こう答えた。
『人間を知ることだ。』(学而第一-十六)
また、作家の五木寛之は、親鸞を宗祖とする浄土真宗の教えを最も理解する身だが、著書『大河の一滴』でブッダについてこう言っている。
世界史、日本史を見ても、人が『真理』から逸れた行動を取るとき、必ずそこには破滅の結果が待ち受けている。人は、真理に支配されている。死ぬことから逃れられた人間が何人たりともあり得なかったように、この世は、真理を無視して生きていくことなどできないのだ。冒頭の記事で書いた稲盛和夫は、それを熟知していたからこそ多くの人とは反対の方向に行くことができ、転落を免れることができた。
その他、この世を生きた幾人もの偉人たちも、そうして真理を味方につけたからこそ、今も尚、この壮大な歴史の中で燦然とその威厳を輝かせ続けているのである。私が見つけた真理も下記に記載しておく。人間は、人間を熟知し、知性を得た頭と目で真理を直視し、道を踏み外さないように、これからも明るい歴史を作っていくことが求められている。
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