『世界の神話 神話の生成と各地の神話。神々と英雄の活躍』にはこうある。
とにかく神は人間の想像力の産物だ。そして目に見えない存在である。数千年の間、神学者や哲学者は神の存在を証明しようとあらゆる努力を傾けた。しかしいつも失敗した。なぜ失敗したのか。神は抽象的な存在だからか。真っ暗な部屋で黒い布で目をふさぎ、存在しない黒猫を捕まえようという努力だ。だがたまにこう叫ぶ者がいる。『つかんだ!!』
はるか昔、この世にまだ神話が蔓延し、宗教が出始めたようなそういう時代、人々は『人間よりも上にある存在』について、様々な想像をめぐらせた。しかしその実態を把握することは何人たりともできなかった。しかしそんな中、たまにこう叫んだ者がいたのだ。
それらの実態を把握するということは、『真っ暗な部屋で黒い布で目をふさぎ、存在しない黒猫を捕まえようという努力だ』と本は言う。私はこの表現がよくわかる。それは以下の記事を書いたからだ。
『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
正直言って、この記事は抽象的である。なぜなら、この記事のテーマである『真理(愛・神)』自体が抽象的だからだ。しかし、この世界でこれ以上に重要なテーマはない。
私はフィクション、ノンフィクションに関係なく思考の題材に使うが、『ドラゴンボール』の世界で考えてみよう。フィクション、ノンフィクションすべてひっくるめて考えても、あの漫画以上に大きなエネルギーを想像している作品(人間)は地球上にはない。『好きなアニメのヒーロー』では、鳥山明の本連載が終わって20年経った今でも『孫悟空』が圧倒的1位を勝ち得るなど、異常なエネルギーを有する奇跡の作品である。
海外でも大人気で日本では考えられないような盛り上がりを見せ、
あのクリス・ブラウンもドラゴンボールの大ファンであり、自宅にキャラクターの絵を描いて楽しんでいるほどである。
その『ドラゴンボール』の最新シリーズ『ドラゴンボール超』の登場人物の頂上に『全王(ぜんおう)』という存在がいる。『真っ暗な部屋で黒い布で目をふさぎ、存在しない黒猫を捕まえようという努力』。これは、その全王の実力を理解するよりも難しい。
例えば、この動画は最新の悟空の戦いを描いたものである。この時点で悟空たちは、惑星を簡単に吹き飛ばすくらいの実力を秘めていて、そのエネルギーはとてつもないものがある。しかし、全王はこれとは一線を画す次元の力を持っている。もはや、『どっちのエネルギーが上か?』という単純な話とは違う。まるで別次元なのだ。全王がそうと決めれば、宇宙を一瞬で消し去ることができるのである。
そしてその逆で、何もかもを創り出すことができる。消したものをすべて元通りにすることもできるのだ。恐らくはもうこれ以上の存在は出てこないだろう。この世界の設定では、この全王がすべてを支配する存在なのである。そして恐らく、『支配者』という印象を少しでも薄くするために可愛い赤ちゃんのようなキャラクターになっていて、悟空を含めた他のキャラクターたちの個性が埋没しないようになっている。
ゲーテは言った。
人間には『理解の許容範囲』がある。正直、前回の映画『ブロリー』の戦いでさえ、ドラゴンボールを初期から見ている人にしかわからない戦いの境地というものがあった。
あれはこの技だ
あの時の技だ
という具合に、『調教』されている我々は、その戦いが超高速で行われるにも関わらず、彼らがどういう次元で戦っているかということを今までの経験とともに想像し、見極めることができる。だから、はじめてこの映画で彼らの戦いを観た人は、一体何がどうなっているのかわけがわからないことだろう。
かつて、悟空が魔人ブウと戦う時、地球中からエネルギーを集めて『元気玉』を作るしか、もう魔人ブウを倒す選択肢はなかった。しかし、悟空が皆に話しかけても、悟空は地球人にぞんざいに扱われた。『詐欺師』か何かの扱いをされたのだ。そこに『ミスター・サタン』が現れ、状況を一変させた。
[ドラゴンボールZ 集英社 バードスタジオ]
男性
男性
女性
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今まで何度も見えないところで地球のピンチを救い、尽くしてきた悟空ほどの人物が地球人に変人扱いされ、無視されたのに、ミスター・サタンのレベルになると地球人の『理解の許容範囲』内に入り、言うことを聞くようになった。とても滑稽である。
人は『3京円』のお金を想像することはできないが、『3千万円』なら何とか想像できる。ちなみに数字で言うなら全王は『無限』である。悟空が今後いくら自分のエネルギーを上げても、ここに到達することはない。
私はこのあたりの描写がとても好きで、好きでというか頭から離れない。まさにゲーテの言う通りのことが起きたのである。
『人の評価に依存することの愚かさを知れ。依存しないなら強い。』
この黄金律は、このあたりのことを突いた内容になっている。世の人々の『理解の許容範囲』には限界があり、それ故、人々の言うことに信憑性はほとんどないのである。
『真理(愛・神)』の実態を把握するということはまるで、
このときの地球人が、理解の許容範囲を超えていた孫悟空の実力を把握するよりも更に難解な、『全王』の力を把握する、よりも難しい
のである。何しろ、全王というのは姿形があるが、『真理(愛・神)』というのは形を持たない。人間が理解できるような『記号』で説明するのには限界がある。
人間が理解できる『形態』。例えば、情報伝達や思考・感情・芸術などの精神行為の働きを助ける媒体。狭義には、文字やマーク、絵など、意味を付された図形を指すが、広義には表現物、ファッションや様々な行為(およびその結果など)までをも含む。
ニーチェがこう言ったように、
『論理は完全な虚構の見本である。現実の中には論理などは存在せず、現実はまったく別の複雑極まりないものである。我々は実際の出来事を思考においていわば簡略化装置で濾過するように、この虚構を図式化することによって記号化し、論理的プロセスとして伝達および認識可能なものとする。』
我々は実際の出来事を思考において簡略化装置で濾過するように、この虚構を図式化することによって記号化し、論理的プロセスとして伝達および認識可能なものとする。つまり、理解できる『記号(文字や言葉や絵等)』等に濾過してようやく、『理解の許容範囲』の中に入れることができるわけだ。
しかし、『真理(愛・神)』というのは形を持たないので、これを記号化させることは困難を極めるのである。悟空たちの戦いのように単純なエネルギー同士の衝突であれば、
と解釈できるし、全王のような絶対的な存在がトップに君臨している場合は、
と言えるのだが、『真理(愛・神)』というのは形を持たないので、
と言うのが限界なのである。『1+1=2』という数字の世界であっても、地球で考えればそれは単純な記号として、真理のように扱えるが、
手塚治虫はこう言い、
アインシュタインがこう言ったように、
その数学や数字でさえも『地球だけの真理』の可能性がある。例えば、なぜそのような真理を知っているはずの人間は、それを使って世界平和を実現できないのか。そこにある不確定要素に振り回され、その不測の事態を予測してテロや戦争、争いや衝突、対立や軋轢、暴走や混沌を予防することはできないということはつまり、人間は真理(愛・神)の実態を理解しきれていないのだ。だからこそたまに、その対極にある『闇』に飲み込まれることがあるのである。
はっきりしていない部分のこと。
真理(愛・神)というのは光だ。その存在を教える『宗教』というのは、この世の闇に照らす一筋の光だった。しかし、宗教の教祖とて、恐らく完全には真理(愛・神)の実態を把握してはいなかった。真理(愛・神)の実態を把握するということは、『真っ暗な部屋で黒い布で目をふさぎ、存在しない黒猫を捕まえる』くらい難しいということなのである。
神に関する考え方は大きく分けて4つある。
- 無神論
- 有神論
- 理神論
- 汎神論
分かりやすく説明しよう。
とにかく神はいないという考え方。
人格を持った神がいるという考え方。
宇宙の創造のみは神が行い、後は自然現象に任されている考え方。
神と『法則』が同義語であるという考え方。
無神論は分かりやすいだろう。かなり冷めた考え方だ。どちらかというとこの考えを持つ人は、『突き詰めてこうなった』というよりは、 『突き詰めないからこうなった』と言えるだろう。とにかく、目に見えるものしか信じることが出来ないということだ。
有神論もわかりやすい。髭を生やした老人のような神がいて、その人がこの世を統べているという考えだ。ドラゴンボールの世界は、この有神論と理神論の考え方が混じった世界だと言えるだろう。例えば先ほど説明した全王は、宇宙を簡単に消滅させたり、創造したりできる。しかし、そこで行われている一切の出来事には関与しておらず、放置している。つまりこれは、理神論の考え方に似ている。
私の考え方は、汎神論である。真理(愛・神)というのが目に見えない『法則』と同義語であり、その法則から逸れると心が虚無に陥り、近づくと充足するという一つのサインを見つけたのである。後で知ったが、アインシュタインもこれに近い発想を持っていたと言われている。
例えば人を殺すと殺した側、殺された側の心に虚無が生まれる。一時的な興奮と麻痺があっても、逮捕や罪悪感その他のことが相まって、後で必ず虚無に陥る。しかし、笑顔で近づいた子供の頭をなでると、なでた方、なでられた両方の心は充足する。
さて、私がどれだけ『真っ暗な部屋で黒い布で目をふさぎ、存在しない黒猫を捕まえる』ことができたかどうかは、記事を見てもらうしかない。もちろんそこに完全なものを期待することはできないし、私の単なる錯覚の可能性もあるだろう。黒猫と言っても色々種類がある。クジラのような大きさのものもあれば、ネズミほどの大きさのものもある。それに、猫が一匹だと決まっているわけでもない。私は何者でもないのだから、私に何かを期待するのは間違っている。だが、私はこの本に書いてある通り、
つかんだ!!
という気がしたからこそ、記事を書いたのである。それは本当のことだ。ちなみに、もし私のようにそれをつかまえた感覚を得た人がいて、同時に『孤独を恐れる』人がいるならば、見つけたことは内緒にしておいた方がいい。変人扱いされ、孤独を味わうことになるからだ。
関係ない?だとしたら素晴らしい。エマーソンは言った。
Pythagoras was misunderstood, and Socrates and Jesus, and Luther, and Copernicus, and Galileo, and Newton, and every pure and wise spirit that ever took flesh. To be great is to be misunderstood….
(誤解されるのはそんなに悪いことだろうか。ピタゴラスは誤解された。 ソクラテス、イエス、ルター、コペルニクス、ガリレオ、 そして、ニュートンも誤解された。古今のあらゆる清純で賢明な魂も誤解を受けた。 偉大であるということは誤解されるということだ。)
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