いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.何か恐ろしい偉大な存在の仕業だと考えたようです。
2.アニミズム、トーテミズム、ジャーマニズムはその存在を敬おうとして発生した人間の習慣です。
昔は自然についての知識はほぼありませんでした。
ですから、雷や稲妻、洪水のような自然な変化は、何か恐ろしい偉大な存在が自然の秩序を操るものだと信じました。それで人間はこの恐ろしく巨大な何かに対し、様々な発想(儀式とか)でもって敬い、災いが下らないようにしました。
アニミズムは、すべてのものの中に霊魂、 もしくは霊が宿っているという考え方です。トーテミズムは、特定の動物や植物などをトーテムとして崇める信仰のことです。シャーマニズムは、シャーマン(巫師・祈祷師)の能力により成立している宗教や宗教現象のことです。
この記事と続けて見たい。これはおよそ紀元前5000年以前の話である。今後時間をかけて、ここから徐々に、人間の歴史を紐解いていく。まずこの世界を支配していたのは『神話』である。これはブッダや孔子が生まれるより更に4500年も前、エジプトでピラミッドが作られたよりも更に2500年も前の話だ。
原始時代(狩猟採集時代) | 紀元前5000年以前 |
農耕社会(奴隷制社会) | 紀元前5000年~ |
『世界の神話 神話の生成と各地の神話。神々と英雄の活躍』にはこうある。
しかし明らかなのは神話は宗教より前に存在したことだ。神話は人間が共同生活をする中で生まれた。人間が家族や群れの単位で生活し、狩猟や採集をしていた当時は人間の知能は動物とほとんど変わらなかった。自然についての知識はほとんどなかったので、自然のすべての変化が神秘と畏敬の対象だった。雷や稲妻、洪水のような自然な変化は、何か恐ろしい偉大な存在が自然の秩序を操るものだと信じた。それで人間はこの恐ろしく巨大な何かに対し、アニミズムの形であれ、トーテミズムの形であれ、ジャーマニズムの形であれ敬い、災いが下らないようにした。次第に互いの意思疎通のための言語が発達し、それなりにこの巨大で恐ろしい存在を説明する過程で、神話が生まれたのだろう。
生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、 もしくは霊が宿っているという考え方。例えば、風の神、水の神等。
各集団が特定の動物や植物などをトーテムとして崇める信仰のこと。『我が守護神のタカを恐れよ!』
シャーマン(巫師・祈祷師)の能力により成立している宗教や宗教現象の総称。『神霊が憑依した』
まず確認したいのは以下の記事だ。
そこに書いたのはこうだ。
昔は寿命が短く、ピラミッドを作ったような紀元前2,500年付近の時代になると、『22歳』程度で人々は命を終えていくのだった。まるでその命は『消耗品』であり、奴隷としても、生贄としても、その他の動物と同じような扱いを受けた。『上に立つ者』以外の人間の命の尊厳は、とても低かったのである。
やはり寿命がそれだけ短かったから『縦に掘る』時間が確保できず、自分の心と向き合えないから、真理にたどり着かない。
そして今回出てきた話にはこうある。『人間の知能は動物とほとんど変わらなかった。自然についての知識はほとんどなかったので、自然のすべての変化が神秘と畏敬の対象だった』。この狩猟や採集をしていた紀元前5000年以前の寿命は今のところわからないが、ピラミッドを作ったような紀元前2,500年付近の時代が22歳なんだから、恐らくはそう長くもないだろう。やはりこのことからわかるのは、人が無知から脱却するためには、色々と準備と時間が必要だということである。
『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある。
人間は生まれながらにして自由ではなく、自由になっていくのだということを主張している点で、ソクラテス、ブッダ、イエスは一致している。人間は無知から脱却することによって、真実と虚偽、善と悪、正義と不正を区別することを学ぶことによって自由になる。自らを知り、自制心を持ち、分別を持って振る舞うことを学ぶことによって自由になる。
そう考えたとき、十分な寿命もなく、知恵もなく、動物と知能がほとんど変わらなかったこのときに生まれたものに、現在を生きる人々はどれだけ信憑性を覚えるだろうか。そういうことから目を逸らしてはならない。
そして、以下の記事に書いた内容はこうだ。
雷はなんだ。地震はなんだ。奇病に飢饉に干ばつはなんだ。一体なぜ、一生懸命生きていただけなのに、青天の霹靂の如く、我々に不幸がやってくるのだ。
あの人は本当に誠実だった…。あの子は本当に良い子だった…。
こんな理不尽があるのか。あってたまるか。…考えられるとしたら、人間の理解の範疇を超えた『何か』の存在の仕業なのだ。
そう考え、人々は『そこにあった無知(虚無)』を埋めたのだ。だが、今の人間がその考え方を見て、本当に心底から納得が出来るだろうか。本当に心に微塵も『虚無(違和感)』はないだろうか。あるならそこにあるのは『真理(神・愛)』ではない。
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
(中略)つまりここで言えるのはこういうことだ。人はまず無知(虚無)から真理(神・愛)を見つけようとした。無知(虚無)の苦痛に耐えられなかったからだ。だが、知識も知恵も今よりもうんと未熟だったがゆえに、
のような間違った答え(真理・神・愛)を想像してしまった。
昔エジプトの人々は、『人は死んでもその魂は決してなくなるものではない。いつかはきっとその身体にまたもどってくるものだ。』と固く信じていた。王様が亡くなった時には、王様の魂がまたその身体に帰って来られるまでというつもりで、王様の遺骸をミイラにして、立派な石の塔を建てて、そのなかに大切にしまっておいた。これが、『ピラミッド』であるという、有力な一節がある。
イングランドの詩人、ジョン・ドライデンは言った。
つまり、人は『死んだ人が喋らない』、『死後のことがわからない』という事実に虚無を覚えたので、様々な仮説を想像し、その仮説を『確信』することでその虚無を晴らそうとした。しかし人が蘇ることはなかった。だが、人々はその答えが真理(神・愛)だと思った(思い込んだ)。だからその人たちにとっては、それが真理(神・愛)だったから、心の無知(虚無)は晴れた。
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
この図式通りになったのだ。つまり、『そうなっているのだ』と認識したことで合点がいき、つじつまが合ったと思い、それによって心の虚無(無知)が晴れていったのである。
…ここまで。
私は、この本を読んでこの記事を書いたのではない。しかし今回の内容に、
自然についての知識はほとんどなかったので、自然のすべての変化が神秘と畏敬の対象だった。雷や稲妻、洪水のような自然な変化は、何か恐ろしい偉大な存在が自然の秩序を操るものだと信じた。それで人間はこの恐ろしく巨大な何かに対し、アニミズムの形であれ、トーテミズムの形であれ、ジャーマニズムの形であれ敬い、災いが下らないようにした。次第に互いの意思疎通のための言語が発達し、それなりにこの巨大で恐ろしい存在を説明する過程で、神話が生まれたのだろう。
こうあった。私の見解は間違っていなかったのだ。私は完全に論理的思考のみで、
恐らく人間のことだから、こう考えたのだろう
という発想でこの考えを導き出したわけだが、専門家がきちんと調べた結果、私の見解通りの事実を語ってくれていたようだ。冒頭の記事で『神が民族のルーツにいる』と書いたが、ここではその『神』自体がどのように生まれたのかを考えた。
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