ペットが亡くなって眠れません。どうしたらいい?
ペットが亡くなると眠れなくなるのは当然。それでいいのです。
悩みがあって眠れないのは、その悩みの種を記憶として定着させないように自己防衛しているのです。つまり、それだけ自分にとって辛く、苦しいことが起きたのです。それだけその存在を大切に想っていたのです。眠れないのはその証拠です。まずはその知識を持ち、自分の行動に自信を持ちましょう。
しかし、命あるものは自分だって最後には必ず死ぬ運命です。もしかしたら彼ら彼女らは、自分の命を持ってそれを我々に教えてくれたのかもしれません。もしそうであれば、自分の命を大切にしたい。つまり、いつまでもくよくよとして、人生を前に進めないわけにはいきません。人生を浪費してはいけません。彼ら彼女らの為にも、最期まで『生きる』のです。
フランスの哲学者ルソーは言いました。『生きるとは呼吸することではない。行動することだ。』
ペットが亡くなると眠れなくなるのは当然です。脳科学者の澤口俊之さんは、
と言っています。人間は、寝ることによって記憶を定着させるので、いやなことがあったら眠れなくなるのは、そのいやなことを記憶に定着させないように、脳が自己防衛しているからなのです。
ですから、もし自分のペットが亡くなって、それを全く気にせずに快眠できるということは、その出来事が自分にとって全くショックではなく、彼ら彼女らを愛していなかったということになります。ですから、ペットが亡くなると眠れなくなるのは当然なのです。そしてそれでいいのです。それが、彼ら彼女らを愛していた証拠なのですから。
ペットロスとは、ペットを亡くしてうつ的な症状に陥ることを言います。しかし、まずはそんな自分を肯定しましょう。大切な存在が亡くなったのに、まるで『存在そのものがなかった』かのようにあっけらかんとふるまうのは、どこか人間として欠落しているようにも見えますよね。
上記の記事にも書きましたが、傷ついていいんです。喜んでいいんです。人間には心があるんです。心があるから人間なんです。その人間の人生を、最後まで生き貫くだけなんです。
彼ら彼女らとともにこの世を去ることができたならいいと願うかもしれません。しかし、ペットに限らず人で考えても同じことですが、それは少し考え方として真理から逸れています。先ほど、『悲しまないのは人間ではない』という考え方に触れましたが、今回は違います。我々は、命です。命は尊く、そして儚いものです。私は無宗教ですが、ブッダは言いました。
時間は流れ、宇宙はうごめき、命の火は消え、物質は分かれる。風は吹き荒れ、大地は鳴り響き、海は揺らいで、炎は燃え盛る。
この世は全て、流動変化しています。それが諸行無常という言葉の意味です。我々は生まれたときから、老化に向かっています。不老不死になることはできないし、赤ん坊のような初々しさを永遠に保つことなどできません。ブッダは『しがみつく、執着こそが罪だ』と言いました。執着さえなければ、この世におけるありとあらゆる悩み、苦しみから解放されます。どうにもできないことは、どうにもできないのです。むしろ、一人間の思い通りにしようと思うことなど、思い上がりなのです。
一つ一つの命は、寿命があり、天命があります。たとえ生まれる前に亡くなった命でも、意味があってこの世に生まれたのです。私は、人の10倍の速度で年を取るある海外の少女の人生をテレビで観ました。彼女は当然両親よりも早くに老人になり、そして私の人生の早い段階で、この世を去りました。
しかし彼女は、たしかにこの世を生きました。大好きなペットショップで働き、遠い異国にいる自分と同じ奇病に悩んだ少年に、恋もしました。できなかったことに目を向ければたくさんありますが、それはその他のすべての人とて同じことです。彼女や、早くに亡くなった人たちの命は、本当に『無意味だった』と思うでしょうか。『かわいそう』だと思うでしょうか。見るべきなのは以下の記事です。
一つ一つの命は、寿命があり、天命があります。何一つ無駄な命などないのです。そう考えたとき、それぞれが与えられた命の日数で自分の天命を全うすることを、どうして他人がとやかく文句を付けられるでしょうか。
私も少年時代から、父親と祖母の影響で犬を飼っていました。最初の犬は柴犬のチロ、次の犬はゴールデンレトリバーのチェリーです。私は犬が大好きでした。しかし、思春期に入り、私の家庭内にあった宗教問題等も複雑に絡み合い、家庭内への不信感が高まった時期、私はこのチェリーに対し、してはいけない扱いをしてしまっていました。
20歳やそこらのとき、チェリーが亡くなったと電話を受けました。私はチェリーをろくに散歩もさせたことがないのに、私はお金もない中、タクシーで家に飛んで帰りました。チェリーは庭に続く細い裏道で横たわっていて、その肌からは、かつて子供のころに抱きしめて感じられた、あの温もりは感じられませんでした。
私は自分のしてしまったことについてしばらく考えさせられました。チェリーは私がどんなに荒れている時期も、怖がりながらも、私が素直になったとき、近づいてきてくれて頭をなでさせてくれていました。私は彼女から、命の重みを教えられたのです。
以来私は、犬を飼うことはしていません。祖母や父親のように、もちろんいつかはまた違う犬に出会いたいと思う気持ちもありますが、私にはまずその資格がなく、そして、チェリーのことを忘れてはいけないと思うから、安易に飼うことはしたくないのです。
私は『株式会社チェリー』という名前で起業もしました。偶然にもその可愛らしい名前が、世間ではほかに色々な意味を持っていることもあり、誤解をされることも多くありました。しかし私には関係ありませんでした。チェリーは大好きだった祖母がつけた名前で、そしてチェリーは私の家の犬でした。『家族だった』と簡単に言うつもりはありませんが、心の中では間違いなくそうだと思っていたでしょう。
『うつに負けない57の読む薬』にはこうあります。
アニマル・セラピー
アニマル・セラピーとは動物介在療法という意味があります。日本動物病院福祉協会が適正と認めた犬が、飼い主とともに病院や老人ホームなどを訪問して、患者さんやお年寄りとふれあうことです。日本は1986年にスタートしました。犬を飼っている人にとって、日常的に犬とふれあうことが、アニマル・セラピーそものです。知らず知らずに緊張がほぐれ、心が癒されるからです。
もし気持ちがうつ的状態から改善しないのであれば、アニマル・セラピーとして新たなペットを飼う選択肢もあります。また私のように、
いつまでも決して忘れない
ことを胸に秘め、その命から大きな教訓を得たことを自覚することで、死を乗り越えることもできるようになります。私は17歳の時に父親も亡くしていますが、やはり同じように彼から大きな教訓を得たという事実を理解したことで気持ちは整理できました。
命あるものは自分だって最後には必ず死ぬのです。そしてそれは『死ぬ』という言葉よりも、『全うする』という言葉を使いたい。命の使命とはその文字通り、『命を使い切る』ことです。そのために自分が残された人生で何をするべきかを考えましょう。睡眠不足で衰弱死することが『命を使い切る』ことだと思うなら、それは命の価値を理解していないだけです。自分はまだ、生きているのです。