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こんにちは、IQです。いつもありがとうございます。この度、SNS全アカウントでフォロワー様が『2万人』に達しましたので、より鮮明な顔写真の公開を致します。
読み:『アイキュー』。意味:『Inquiry(インクワイアリー)』の略語で、インクワイアリーとは『探究』という意味。また『知能指数』を意味する『Intelligence Quotient』という意味でもあります。更なる詳細は下記の記事に書きました。
別に最初から『本名・顔出し』でやってもいいのですが、SNSは始めたばかりなのであらゆる方向でテストしながらやっています。カラー写真は前回言った通り3万人の時で、年内です。もちろんこれは現在の写真ではありません。この時はまだ名言すらも学んでいませんでしたね。この写真は起業後であり、ほぼ落ち着いた頃。これ以前の写真や生活は極めて荒れている為、公開したとしても随分先になるでしょう。
10代の人は年齢が近いその時期のことの方が気になるかもしれませんが、それでも今はまだ公開しない方がいいでしょう。ちょっと刺激が強すぎるので。
なども含めた様々なコンテンツはそのテストの中の一つです。今後これをいつまで続けるかはわかりませんが、臨機応変に試行錯誤し、ベストな形に最適化し続けます。これが無い方がいいアカウントや、あった方が盛り上がるアカウントなどそれぞれで違いますからね。
前回は『IQチャレンジ』という大会についてのお知らせでしたが、それはテストの結果賞金を10倍に上げてまたいずれ稼働させるとして、今回は私の簡単なプロフィールを掲載します。しかし、簡単な人生を生きていませんので理解できる人の方が少ないでしょう。しかし顔写真の公開もこうしたプロフィールの公開も、今まで以上に私を信頼してもらうための、最低限の誠意です。
など色々質問があるかもしれませんが、その答えが分かるでしょう。まあ別に隠してないので私のWebサイトを見ればいつでも詳細は確認できましたけどね。ただ今回はSNSフォロワー様向けに特別にプロフィールを作りました。
ただ、それでもまだ年齢が若い人では記事を読むだけでも大変でしょうから、そういう人は簡単なプロフィールだけ見てください。またいずれ大人になり、あるいは私に興味を持った時に読んでくれればいい。(このサイトをくまなく見ればわかりますが、これでもこのページは私にとってわかりやすくまとめた簡易記事となっています)
ちなみに、色々並べたてていますが私は何かを達成したわけでも達観したわけでもありません。人生は一生勉強。それは最後の一呼吸まで続きます。
その他、独学で10㎏以上の『リバウンドしないダイエット』に成功。富士登山、日本の世界遺産を回ってたくさん写真を撮ったことなどが、それらのアカウントに繋がっています。剣道は17歳の頃に集中的に修業し、ボクシングジムには2年通いました。
アカウントがたくさんある理由が見えましたね。私にとってジブリ映画は人生の一部ですし、ワンピースのエースの言葉がなければこの世にある8000の名言の内省をしていなかった。名言は丸2年かけて内省を行った。
内省(ないせい)とは、自分の心と向き合って考えること。反省が後始末であるのに対し、内省は前始末的である。言葉の内省をする場合は、言葉の意味を考えて記事を書いたりして、自分のものにするということ。
私にとって名言は、ジブリと同じ人生の一部。私は親にキリスト教を強要された事実から基本『慰め』が嫌いだが、私は人生の最深部にいるとき、偉人たちの言葉に慰められ、勇気づけられた。それに対する恩義は計り知れないものであり、それは自分の限りある人生の時間を割いて内省しても惜しくないものでした。
ただ、下記に私のお気に入りの名言ランキングを載せていますが、アインシュタイン、ニーチェ、ブッダ(釈迦)、松下幸之助などこの世界の錚々たる偉人たちの言葉と比べても、私が1位に選んだ言葉は『エースの言葉』でした。
『力に屈したら男に生まれた意味がねえだろう。おれは決して人生に”くい”は残さない…!!!』
前述したように私は親からクリスチャンになるように誘導されて育ちました。それは『洗脳』という言い方もできるでしょう。そう言わないのは我々の間に愛があるからです。親は私を愛していたから信じてほしかった。しかし私の心はそれを求めていなかった。そういう両者の意志のぶつかり合いが不和を生み出し、まだ少年だった私はとにかく、自由な人生に憧れました。
悪友は大勢いました。しかし『真友』と言える人物がどれだけいるか。私は親との関係がそういう状態ですから、人一倍『人間関係』について深く考える人間となり、友達に対する要求も大きなものになっていきます。
ある時、私は自分の周りにある友達も含めた人間関係への不満が限界となり、起業したことをきっかけに、それまで以上に独立的な人生を生きようと考えるようになります。私が作った人間関係の中にもしがらみがありました。そんな中、私はふと暇つぶしに買った漫画の単行本『ワンピース』の中のエースの上の言葉に出会ったのです。
彼の言葉は、『力に屈してしまうと、男は強く後悔する生き物である』ということを示唆しています。私はテストステロンなどの男性ホルモンについての勉強もしていますから分かりますが、俗にいう『男らしい』という人ほどテストステロンの量が多く、そしてそういう人ほど簡単に言うと『負けず嫌い』。私などは負けず嫌いすぎてその言葉を使わないくらいですね。
負けず嫌いなんてレベルじゃねえんだよ
と心底で常に火を燃やし続けて生きているイメージです。私は人一倍プライドが高く、繊細な心を持っていて、複雑な思考回路を持っています。正直、この3拍子が揃うとどんなに些細なことでも(納得がいかない!)と憤慨しやすい。まだ男らしさの固まらない子供時代はよく『ガラスのハート』と言われたものです。怒って、その怒りを人にぶつけるという選択肢がなかったので、ただ自分の中だけで処理していたんですね。
しかし青年になっていた私はこのエースの言葉の持つ力強さが身に染みてわかった。私は生まれた時から既に『強要』が始まっていて、親には『この家はクリスチャンの家だから従えないなら出ていってもらうしかない』とまで言われた。自分の心をないがしろにされ、偏った信仰を押し付け、それに従わないと『反抗期』と揶揄・嘲笑され、自分たちばかりを正当化した親を、私は『この世界の全宗教家』ごと恨んで育った。
自分の心をないがしろにし、親孝行の名のもとに私はクリスチャンになった方がいいのか?
この類の葛藤など少年時代に腐るほど行った。しかし私は、どうしてもそれが人として正しい道だとは思えなかった。自分の心底にある違和感が、私の意志を守ったのです。
『力に屈したら男に生まれた意味がねえだろう。おれは決して人生に”くい”は残さない…!!!』
”力”とは、何だと思うか。”力”とは、権力?圧力?暴力?財力?それだけじゃあない。病気、怪我、挫折、失敗、抵抗、障害、摩擦、重圧、衝突、ぶつかり、中傷、批判、屈辱、侮辱、差別、反対、針のむしろ、家族の不幸、アクシデント、足の引っ張り合い、脅かし、動揺、動転、パニック。この世に存在する、外から、内から、その全てからやってくる、『自分が自分で在ることを邪魔する、一切の”力”』のことである。
私にとってキリスト教や両親、そして世の一切の大人や常識は『力』だった。その力に屈せず逸脱し、自由奔放に生きてみせることは、私にとって悔いのない人生に続いているように見えた。私が過ごした少年時代は結果的には矛盾ばかりでしたが、とにかくひたすらに自分の意志を守ることで精いっぱいだったようです。
そうして私はエースの言葉に心底から共鳴し、『ワンピース』の世界に興味を持ちました。後にこの世にある8000の名言を内省しますが、この言葉以上に自分とシンクロする言葉に出会うことはありませんでした。その後エースの少年時代が漫画で描かれることになります。するとやはり彼も私と似たような境遇で育っていた。
『ワンピース』の世界の頂点に君臨した人物。主人公のルフィは、このロジャーの次の海賊王になるために仲間たちと旅に出ている。エースはそのロジャーの息子である。
彼も自分の意志をないがしろにされ、人生を否定された。”力”に圧迫され、抑圧された人生を生きた人間の言葉だからこそ、私と人生がシンクロしたのです。
その後の偉人の言葉の内省と哲学などの勉強で、確かにニーチェや岡本太郎など、私と似た考え方をする人を見ることはできました。特にニーチェは似ていて、子供の頃は親の影響でクリスチャンでしたが、私同様に途中からそれを否定するようになり、『唯一無二の人生を悔いなく生きろ』と主張するようになります。そういう考え方は、岡本太郎や松下幸之助、ブッダなどと同じ考え方です。
しかし、あの言葉以上に私にピッタリくる言葉はなかったのです。
尾田栄一郎は言った。
『そもそもセリフというのはキャラクターが勝手にしゃべってしまうものなんです。おめーが書いたんじゃねえかよって言われそうですが、少し違うんです。キャラクターというものは一人一人が作者の想像の中に生きている人間なんです。彼らは僕が生活の中で蓄積した言葉を自由に持ち出し、勝手にしゃべり始めます。変な口癖など特にそう。僕は年寄りでも女でもないのに僕とは全く違う人格者たちは好きなことを喋り始める。だから、セリフというのは紛れもない『彼ら』の言葉なのです』
独立的な人生を生きようとすると、それまで築いてきた家族を含めた人間関係の再構築が求められます。それは容易なことではない。しかし私の心底の『違和感』はそれをするべきだと主張する。
ある日の日経PRESIDENTにはこうありました。
失うことに抵抗が無い
稼ぐ人は、お金やものに執着しない。それどころかいまの仕事や地位にも固執しない。安定して収入を得られるポジションにいても、あっさり捨てて転職や独立をしたり、まったく違う分野に挑戦する。
現状が頭打ちだから新天地を求めるというわけでもない。たとえ将来が約束されても、そんなことに関心がないかのように環境を変えていく。いま持っているものを失うことに、なぜ抵抗が無いのか。それは根底のところで自分というものを信じているからだ。
成功する人は、どのような環境になってもまわりの人とうまくやれるし、食べていけるという自信を持っている。稼ぐ人は、成功するための原理原則を知っているといってもいい。成功するためには土台になる考え方、つまり原理原則とそれを具体化する技術の両方が必要だが、原理原則さえ本物であれば、じつは何をやっても成功する。
企業も同じ。成長し続ける企業は、市場の変化に応じて新しい商品やサービスを出していく。そうした企業は、高い開発力に成長の秘密があると考えられがちだ。しかし、ほんとうに大事なのは理念やミッションだ。企業活動のベースとなる考え方がしっかりしているからこそ、現象に合わせて対応を柔軟に変えていけるのだ。
松下幸之助や稲盛和夫の本を読むと、描かれているのは人間観や哲学の話であり、商売の話はほとんど触れられていない。それでも多くの人が手に取るのは、そこに原理原則があるからだ。
外部要因に固執し、執着する人間は、軽薄である。こうした確固たる真理が私の言動の核となり、支えとなっていたので、そこにそう迷いはありませんでした。では、基本的に人の言うことを聞けない私はどうやって基礎を積めばいいか。それが『読書』でした。
本を読むべき理由は上記の記事に書きましたが、私が最初に読むべきだと確信したのは儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』の四名の歴史的賢人、いわゆる『四聖』についての本です。
その理由は簡単。彼らが『人間の頂』に君臨するから。そしてその中には私を苦しめたイエス・キリストもいますからね。私にとって彼らについて学ぶことは避けて通れることではなかったのです。違う人が頂にいるならその人を学んだまで。それだけのことです。
彼らを学んだことは大正解でした。私は人生の黄昏時を迎えた時、彼らと向き合う時間を作ったことを誇りに思いながら死んでいけるでしょう。ただキリストを学んで、幼少期から我が家に蔓延する鬱屈とした気配の正体を把握しただけじゃなく、偉人たちを学べば往々にして彼らにたどり着く。
例えばニーチェはこう言っています。
そのショーペン・ハウエルとは、仏教精神そのものといえる思想と、インド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家であり、このニーチェ以外にも、フロイト、アインシュタイン、ユング、トルストイ等、様々な偉人に影響を与えた。そう考えると、彼らの上にはブッダがいる。これが知性の頂であり、源泉を知るということなのです。
アインシュタインはこう言い、
このたった一度しかない人生において、彼らをライバルにするぐらいの気概が欲しいのです。
スティーブ・ジョブズもこう言い、
文芸評論家、小林秀雄もこう言っています。
彼らは元々あった私の根拠のない自信に太鼓判を押してくれ、至らない点をこれ以上ないくらい心強いとっておきの材料を使って補強してくれた。この世にたった一つしかない私の主体性を尊重してくれたのです。
ちなみに彼ら四人については若い時代のことがよく分かっていないといいます。『四人の教師』という本にはこうあります。
イエスはもちろんのこと、釈迦、孔子、ソクラテスの三人も自らの青春の苦悩については何も語っていません。この人たちの人格の完成度の高さからいって、その苦悩は深いものがあったと想像されます。しかし、心の傷は他人に見せるものではありません。誰でも傷ついた青春のかけらの一つや二つは持っているものですが、それを大切にしまっておくところは、この四人も人の子であるということでしょうか。
私のことはさておき、まだ若い人で人生に苦しんでいたり、生きるのが辛かったり、あるいは道を踏み外してしまったという人がいるのであれば、心配はないのです。『更生』とは『更に生きる』と書く。いつか人生を更に生きようと覚悟した時に、人はいつでも更生できる。そして、あなたが悩み苦み、もがいた苦悩の日々は、あなたの人生の頑強な基礎となり、あなたの人生を支えるでしょう。
私が人生の最深部で励ましてもらった偉人の言葉を紹介しましょう。アメリカの作家、ホイットマンは言いました。
私は勉強をしないと決めたら一切しないし、すると決まればこうして一気に頂点を勉強する。お金に関しても、幼少期には本当に不要と考えていたのに、青年期には拝金的になる。私のこういう極端な性格の理由には、やはり家庭環境が関係しているでしょう。私は親の考え方を否定して生きてきましたから、この世に存在するありとあらゆる常識的な要素を安易には受け入れません。
これらのイベントはわが家にとって無縁の話です。もう一度言いましょう。わが家では家族で正月を迎えるという習慣がないのです。すべて両親は独特の過ごし方をし、私はそれに逆らって違う行動をする。慣れた今ではいいですが、少年時代はきつかった。我が家に世間一般の常識は通用しないんです。
物事を根底から考え直して是非のジャッジをする。例えば、
お参りって、神道の流れで、神様へ願い事だろ?俺には関係ないじゃん
こういうことですね。周りの人間が皆お参りをし、葬式仏教をし、結婚式をキリスト教式や神前式で行っても、私は『違う』のでそれを行うことはないのです。そして私は実の妹の結婚式にも参加しませんでした。キリスト教式でやったからです。
ただ、家族で一番仲が良い、あるいは私の『間』を理解していると言えるのは妹です。
悲劇のヒーローを演じる時期はとっくに終わってます。同情を買いたいのではない。ただ真実を話しているだけです。そして真実というのなら、私よりももっと過酷な運命を背負って生きている人がいる。生まれてすぐに去った命もある。私は恵まれているのです。
ちなみに、SNS上においてのアイコンの無断使用、映画の画像や漫画の著作物を勝手に掲載することの著作権違反について私はよく言及しますが、私が半生でやってきたことに比べればそんなこと大したことはないのですが、私は白黒ハッキリしないと気が済まないので、違反していいなら言ってくれないと。私もやりますから。私ならもっとそれらの著作物を使って面白いコンテンツが作れますよ。
どんな理由にせよ、違反している以上は違反してない人には勝てませんよ。10代ならまだしも。何を言っても何の説得力もないし、頭が上がりませんよ。それでいいなら続ければいい。私は嫌ですね。そういう人に深入りしてもすぐにいなくなるから無駄です。2019年12月18日に歌手の星野源さんが私と全く同じ発想でコメントをしています。
『みんなやっているからいい』みたいになっているけど、テレビや雑誌の画像、僕らがツイッターに上げた画像をとって上げるっていうのは法律的にはダメなんだよね
参考
北海道)星野源さん苦言 SNSアイコン、画像無断使用朝日新聞デジタル
やっていいなら違反している人が筆頭になって、法的にOKにしてください。そうすれば私もやります。私は現在SNSで『宣伝効果もある映画のポスター写真』だけを無断使用していますが、私はいつ消されてもいいと覚悟しています。画像とは違って宣伝効果のあるポスターですから
と言うつもりです。つまり風刺ですね。私のこの行為を正そうとする人がいるなら、私以上のことをしている膨大な数の違反者たちを全員道連れにする必要があります。つまり、さっさと法律ができて欲しいんですよ。グレーは気持ち悪い。
ふうし。社会や人物の欠点や罪悪を遠回しに批判すること。
このサイトではポスターすら無断使用していませんから。映画系のサイトであまりにもそれを無断使用しているところが多すぎます。いかに宣伝効果があるといってもがっつりと自分のコンテンツとして利益も得られるようなWebサイトでそれをさも自分のコンテンツかのように貼り付けるのは単なるエゴイストであり、海賊版やスーパーコピー商品を堂々と売りつける人と同じですね。自分のクリエイティブのクオリティを上げたい一心で、逆に人間としてのクオリティを下げてしまっている。現在Googleが一時的にそれを見過ごしたとしても、真理に則って考えれば必ずそうした考えは淘汰されるでしょう。
ちなみにポスターや著作物の中にはこうして自由に使用できるものもあります。著作権が切れるほど古いものや、著作者が権利を放棄している場合などがそれに該当します。これを『パブリックドメイン』という。これなら私も当サイトで使用していますし、当然皆さんも使用していい。もちろん悪意のある使用はだめですが、基本的に映画の宣伝的な感想に添付するならポジティブなため、問題はないでしょう。
厳しく見えるかもしれませんが、私は自分自身にくぎを刺してるところもありますから。私も最初はニーチェの言葉の本をそのままブログに書き写し、勉強していました。それが著作権違反だという認識はなかったんです。そういうところからはじめて長い間Webビジネスをやってきましたから、人一倍この問題がよく見えている。ですからこっそりとこうした決定的な事実を確認し、こっそりと直してくれればいい。もちろん、犯罪をして逮捕された後に、
と言っても免れることはできないので、その覚悟だけは持っておきましょう。人は軽犯罪への罪の意識は薄いですからね。ゴミを捨てたり、違法駐車をしたり、信号無視をするといったレベルの違反は、犯罪とは無縁そうに見える人でもやってしまいがちですね。ちなみにそういう人は、
などの問題で世界をかき乱す一部の中国人に対して意見をすることはできませんので。同類ですからね。ここまで言われればプライドがある人、良心がある人の規範意識は強化されるでしょう。著作権違反は曖昧ですからねえ。著作物一人一人に作者がいて、違反者一人一人の事例を粒立てて対応をするのは至難の業です。
きはんいしき。何が正しくて、何が間違いなのかを認識し、判断する意識。
そういえば、以前危険ドラッグは『合法ドラッグ』でしたね!クラブ遊びをする人は大体やってましたよ。合法だから。人が亡くなってから『危険ドラッグ』になりましたけどね。
私の親は日曜に聖書を持った人が集まる集会に欠かさず行くくせに『私達のはキリスト教ではない』と言うような人間でした。少年時代の私からすれば思考回路はショートです。私が少年時代に荒れた生活を送ったのは『難しすぎる問題を抱えていたので思考を放棄し、そこから解放される』という流れがあったことも一つの大きな理由です。
私は、自分の考え方の正当性を固めるためにも、この家庭に生まれた使命としても、人間について学ぶことを避けて通れなかった。そして起業して部下を持ったことでよりそれについての使命感が燃えました。何とこの部下というのが『吃音性』という言語障害を含めたいくつかの精神問題を抱えた青年だったのです。
遅刻をしない約束をして、その翌日に一時間遅刻をする。こういうことが一週間や一か月ではなく、何年も続くことになります。しかし本人からすると別に会社に不満があったり辞めたいということではなく、特にやりたいことはないということ。私は鬱病の勉強もしていますが、彼には軽度のうつ症状に近いものを感じます。彼も幼少期に大きな心の傷を負った人物。私の環境は中々ハードなものになっていくわけです。そうして私は自分の人生の環境的に、自然と『人間』について学ぶ機会が多くなっていきます。
孔子は弟子に、
と聞かれ、こう答えました。
『人間を知ることだ。』(学而第一-十六)
また、作家の五木寛之は、親鸞を宗祖とする浄土真宗の教えを最も理解する身ですが、著書『大河の一滴』でブッダについてこう言っています。
私が人生の師に選んだ四人の教師も、『人間を知らないなら知性があるとは言えない』と意見が一致していました。私はもともと興味があった心理学や脳科学、人生哲学やビジネス書以外にも、頭痛、腰痛、薄毛、ニキビ、肩こり、便秘、アトピー、花粉症、バストアップ、ED、歯周病、虫歯、口臭、美白、体臭、眼精疲労、うつ病、あがり症、筋トレ、栄養、デトックス、睡眠等の様々なカラダに関する専門書を読み、人間力を磨いていきました。
ただ本を読んだだけじゃなく勉強したことはすべてこのサイトに掲載してありますので自由に見てください。特に体に関することは専門書を各10冊平均で読んでいますので偏りはありません。
人間を語る際に、『人間の歴史』を考えないわけにはいきません。紀元前5世紀に、証拠を集めて解釈することによって過去への問いかけをはじめておこなったのが、古代ギリシャの著述家ヘロドトスとトゥキディデスです。『歴史(ヒストリー)』という言葉はヘロドトスが初めて使ったもので、これはギリシャ語で『探究』を意味します。私が運営する当サイトの名前が『Inquiry(インクワイアリー)』。意味は同じく『探究』を意味します。
Inquiry=探究=history
なのです。私は歴史を宇宙の始まりの138億年前から学び直しました。これが私が歴史アカウントを持っている理由ですね。歴史は以下のページからご覧ください。世界史、日本史、そしてそれらを時系列に並べた年表があります。特に年表は、その歴史に関係する漫画や映画等も紹介しているので、見応えがあるでしょう。
私の環境的に、キリストの歴史も学ばなければならなかった。彼がどのような環境で生まれ、その前に何があり、本当に蘇ったのか。それともそれは嘘なのか。歴史を知れば映画『パッション』もパレスチナ問題のハイライト的シーン、サラディンが活躍した『キング・ダム・オブ・ヘブン』の価値も分かるようになってくる。
『さらば、わが愛 覇王別姫』の歴史的背景にある日中戦争、プロレタリア文化大革命、『ラストサムライ』の背景にある戊辰戦争やアメリカ合衆国ができる前のアメリカ大陸の歴史を『ジェロニモ』や『遥かなる大地へ』などで考えられるようになる。
『もののけ姫』のアシタカが伝説の蝦夷(えみし)阿弖流為(アテルイ)の子孫であるとか、それと同等に和の国に抗った隼人(はやと)という部族が存在したとか、そういう奥行きが見えるようになる。でいたらぼっちやこだま、『千と千尋の神隠し』にも出てくる八百万の神々のようなアニミズム、神道、仏教、儒教などが交じり合い、独特の文化が育ったこの国の歴史も見えるようになり、日本にはコンビニよりも寺や神社の数の方が多い理由や、大仏が大きい理由、地域にお地蔵さんが存在する理由も見えるようになる。
そもそもその仏像はあってはならない。『偶像崇拝』に繋がるからだ。しかしアレクサンドロスが東方遠征したときにヘレニズム文化が伝わり、300年守られた誓いが破られ、仏像が作られ始めた。それ以降、さも当たり前かのようにそこら中にこうした仏像やキリストなどの像が作られ、人々は真の教えを見誤り、内に目を向けるのではなく『神様頼み』をするようになってしまい、主体性を失った。それがニーチェの言う『ルサンチマン』なのです。
遠藤周作の『沈黙』を映画化した『サイレンス』では、そうした偶像崇拝をしようとする日本人を諭すアメリカの牧師の姿を観ることができる。下記の動画52秒にある藁で作った十字架(か、マリアか何か)がそれである。人々はそれがなければ心の平安が訪れないと盲信するが、孔子、ソクラテス、キリスト、ブッダといった四聖全員が、そのように外部に依存する考え方を強く否定している。
歴史を学んだことで得られた一番の恩恵は、『人間は恒久的に愚かな存在だ』という真理を確認できることですね。それが基本です。しかし、時にその中から『偉人』と呼ばれるその常識に逆らった主体的な人が現れる。その生きざまは美しく芸術的で、我々に生きるエネルギーを与えます。まるで彼らは、漫画や映画の主人公のようだ。彼らから学ぶことは大きい。私にとって、漫画や映画の主人公も、歴史的偉人も、生きるエネルギーを与えてくれる人は皆平等に、敬意に値するのです。
青年期までの人生は記録より『記憶』に残る人生を重視していたため、思い出は楽しいものが多くても刹那的であり、記録に残せるものがあまりありません。『ヤンチャ』を飛び越えても『無茶』ばかりしていました。私は当時の世界遺産を一年ですべて見て回りましたが、そこにかかったお金も時間も、それまで過ごしてきた私の非生産的な人生から比べれば安いものでした。むしろ、貴重なリソースを割いて行く価値があると確信がありました。
結果、やはりその経験は貴重な宝物になりました。その後、震災などいくつかの場面であらかじめ死も覚悟する場面がありましたが、その経験をしたことに悔いはありませんでした。
私がこれらの経験値を積み上げるようになった背景には、人生の前半で行ってきた非生産的な行動の採算を合わせるのと同時に、『悔いのない人生』を生きるためなのです。
私は元々映画が好きでした。それは親の影響だったかもしれません。家には『プレデター』などシュワちゃんの映画があって、幼少期のうっすらとした記憶では、真冬の寒い時期に『ゴジラ』を観ながら、温まった部屋で冷たいアイスクリームを家族みんなで楽しむ。そんないい思い出もありました。その時はまだ、宗教問題を含めたこの世に存在する複雑な要素について、まるで無知だった。だからこそ純粋に家族と幸せな時間を過ごせたのかもしれません。
私も映画を『デートの手段』に利用するだけだった時期もあります。しかし、精神的に成長していくにつれ、映画が分かるようになってくるわけです。私は『人間のスペシャリスト』を目指す方向に生きていますよね。映画というものは基本的に人間が主役である以上、私にとって映画は娯楽というより人生の教材。人一倍人間について勉強した私は映画への理解力が上がり、それで面白くなって次々に映画を観るようになるわけです。
たまに私は『低評価をつけている自称映画通』を批判しますが、彼を通してかつての自分を否定しているのです。フランスの作家、カミュはこう言っています。
人は常に過去の自分を否定し、前に進んで成長する。停滞は後退と同じであり、同じ映画好きの仲間に対する『面打ち』なのです。それについては次で説明します。もちろん意見を言わないといけない時もあります。例えば下記の画像をご覧ください。
これは映画『バベル』のWikipediaにある情報です。この映画はこの説明のように、『言葉が通じない、心が通じない』世界における人間を描いているわけです。それが旧約聖書のバベルの塔と関係があるのか、そういう天罰のようなものなのか、そうじゃないならなぜこんなにも世の中は生きにくいのか、ということを考えられる教訓性の高い映画となっているわけです。
しかし、下記のヤフー映画のレビューをご覧ください。
評価が低いですね。では、実際にはどういうコメントがあるでしょうか。
ひどいですね。これらはすべて『かつての私と同じ感想』です。かつて私も人間に対しても無知で、人生に対しても真剣じゃなく、映画の価値をまるで理解できなかった時期がありますが、その頃の私と同じように、別に映画に対して真剣じゃないから映画に『丸投げ』していて、一方的にもてなしてもらうだけの『お客様』のような感想が並んでいます。
あの時は私もこの映画に対し、皆さんと同じ感想を持ちました。意味がよく分からない、何が言いたいのか分からないと、全く同じ感想を持った。しかし、Wikipediaを調べるだけで、すぐにその意味が分かる。こういう残念な事態は見て見ぬふりできませんよね。最低でも、かつて同じ道を通った私は、この問題に対して意見をするべきなのではないでしょうか。
実は、映画に対して浅い人は映画界には欠かせない存在です。かつての私がそうだったように、私の周りにも同じくらいの主体性を持った人しかいませんでした。しかしそういう人が売り上げを上げてくれる。だからあまり厳しくすると大好きな映画界は成り立たないんですね。ただ、このバベルの件を考えるとこういう現象が起きてしまわないでしょうか。
であるからして、言わなければならない時には意見を言うようにしています。それは大好きな映画界に対して私ができる、せめてものお返し。それに、他人の評価が低くて面白かった映画がかなりたくさんあるんですよ。そういう素晴らしい映画が埋没してしまうことって、長い間天動説が信じられていた愚かな現実と同じことですよね。
ちなみに映画『アレクサンドリア』というのは、私が1500本以上観た映画の中の『教訓編』の1位にしている作品です。これを観れば私が言っている意味が少しはわかるかもしれません。
あと、私が非現実的なホラー映画を好まない理由は、映画を実体験だと思って観ているからです。多くの人は映画に『非日常性』を求めるかもしれませんが、経験豊富な私からすると、映画はただのフィクションではない。案外、その辺りの映画の主人公よりも私の方が波乱に満ちた人生を生きています。驚かして楽しませるパニック映画や、死んだ人間がゾンビ化するなどのホラーは非日常性ですが、私はそれを映画に求めていないのです。
悪いが、私は人生に忙しい。
映画は人生の教材ですからね。すべて(もし自分がこの立場だったらどうするか)ということを考えながら観ているので、映画の感想でもそれが軸になったものになっています。私の感想で、
といった類のものが無いのは、こういう理由があるからです。
皆さんも、同じ境遇の人の映画には見入ってみるはず。自分と同じように浮気されたとか、病気を持っているとか、人生に迷っているとか、そうやって人生とシンクロする映画に出会ったときは、私と同じように映画を単なる非日常的な娯楽ではなく、人生の教材として観ているはず。私は『人生』について人一倍熟考した人間のため、その教材に当てはまる作品が多いんですね。
例えば『普通の人々』という映画があります。これはもう本当に言葉が出ないほど私の環境に当てはまります。特に母親ですね。この作品の母親の考え方立ち居振る舞い方が、私の母そっくりなのです。自分の意見に頑なに固執し、変えられず、それを固守するためには実の子供であっても否定する。私はこれを教材として母と一緒に観ましたが、
として一時的には自分を客観視しましたが、一週間もすれば忘れてしまい、人の意見が聞けない元の母親に戻ってしまいましたね。とにかくこういう風に、自分の人生に関係があると思った映画は真剣に観て、深く考察できるはずです。私の波乱に満ちた人生がこんなところで役立ったのは嬉しい誤算ですね。映画を人一倍楽しめるようになったとういことですから。
ただ、間違えてはならないのは私は『たまたま映画が分かる』のであり、『映画を勉強した』のではありません。人間を勉強した結果、人間が主役の映画を理解できることが多くなったのであり、その映画についての知識を入れたら更にわかるようになるでしょう。しかし、私はそういうことはしません。
名言の内省の時もそうでしたが、私はその偉人たちが何をした人物で、著書に何があって、どんなシーンでその言葉が言われたのかをいちいち調べていません。パッと言葉を見て、それで思いつくことを内省して書き上げたのです。『ぶっつけ本番』というやつですね。ですから、私よりも偉人、名言、映画についての詳細を知っている人はごまんといるわけですね。私がその界隈のトップに君臨する識者であるとか、そんなことは一言も言ってないのです。
歴史は好きですが、歴史Twitterのアカウントで多く見られるようにマイナーな知名度の武将たちの話で盛り上がることはなく、また映画に出てくる俳優の誕生日には興味はない。俳優を観てるんじゃないんです。アニメキャラクターに恋をすることもなければ、二次元しか愛せないということはありません。『市民ケーン』の良さが分かると言うような映画マニアでもない。『8 1/2』もさっぱりわからない。
知ってることが多いからたまたま言うだけなんです。ちょうど、間違いなく正さなければならないことを子供がした時、それを正す親のように。それだけのことなんです。
さて、先ほど言った『面打ち』というのは剣道の話です。私は、剣道の練習で教えられた恩師の説教を、忘れることはありません。とあるチームメイトが、『面が痛そうだ』という理由で、相手に打つ面を、手加減したときのことです。
恩師は練習をピタリと止め、怒鳴った。
『相手の事を本当に想っている人』と、『相手に”易しく”する自分が好きな人』とでは、雲泥の差がある。私の口から『慣れ合いが嫌い』だと聞いたことがある人がいるかもしれません。そこにはこういう深い深い理由があったのです。私の周りの人間関係には『宗教を強要する人』がいて『悪友』がいた。人一倍人間関係について葛藤してきた人生だったのです。
年下ばかりのジブリ、ワンピースアカウントの皆様は私の全容がよく理解できないでしょう。それについては私も特に文句はありません。私を知る大人たちは、身内の冠婚葬祭も参加しない確固たる意志を持った私の生き方に威圧的圧迫を覚えるのか敬遠しがちですが、私の甥や姪は無邪気に私に近づいてきます。私は純粋な人には何も文句はない。だから彼らを愛することができます。私が嫌いなのは分別のあるはずの大人の無責任な行動です。そういう人には私は命を賭して戦います。覚悟が違う。
周りの人間が皆葬式仏教をし、キリスト教式結婚をし、神社でお参りをし、何らかの会に参加し、追従し、同調しているからといって私が同じ行動をとる理由にはならない。断じて、ならない。同調と調和は違う。我々は、たった一度の人生を生きているのだ。
アインシュタインは言った。
例えばTwitterは、よりジャンルを絞ったコミュニティができやすくなっています。ワンピースのアカウントで歴史の話をしてもシーンとなります。ですから、私には自分の持っているいくつかの要素を最大限に発揮し、あるいは楽しむためにも複数のアカウントが必要でした。そこで発信する理由は3つあります。
1つ目は切磋琢磨。好きなフィールドで、似た魂を持った人たちと意見を出し合ったりして楽しむ。またそこに何かを発表することで、悪ければダメだし、良ければ強化されるので、この場所に積極的に挑んで参加すれば自分の好きなカテゴリーが強化される。自分の好きなことならそこに時間や労力を割くことは苦ではないですからね。
私は元々23歳でWebビジネスとして起業して、いくつかのことを転々としましたが、当時からWebスキルに関しては磨いてきました。SNSというのはその要素の中の一つですから、SNSは私にとってビジネスでもある。今後、更にフォロワー様を増やし、それだけじゃなくその人たちに楽しんでもらえるように考えていくのが私の仕事です。利益はこちらでどうにかするべきでしょう。時代の流動変化を避けることはできない。それに合わせて常に最適化することが求められます。同じことをし続けていいということには絶対にならない。
失敗を恐れてはいけない。表面なんて常に負けていていい。負けることを逃げている人に大きな勝ちはない。明石家さんまは、若い頃には大きな借金があったと言い中居正広は、若い頃に『汗かけ、恥かけ、物を欠け』と言われ、肝に銘じて生きてきたと言う。その他にも、実に多くの一流の人間が、過去に不遇の経験を持っている。松下幸之助は小学生の年齢で、丁稚奉公だ。稲盛和夫は路頭に迷っていた時代、ヤクザ稼業がちらついていた。
ココ・シャネル の生みの親は、幼少期の不遇の時代を決して人に話さなかった。ドミノピザやピザハットに頭一つ差をつける最大手のピザーラ社長は、事業に何度も失敗し、全身火傷で半年以上の入院を余儀なくされた。柳井正はユニクロで1勝挙げるまでに9敗し、ソフトバンクの孫正義は、父親が病気で入院している頃にアメリカ留学を決意して家族に批判されたが、その決意と覚悟が、自分の運命を大きく変えた。
2つ目は『人間を勉強した理由』や『世界遺産を観た理由』と同じです。自分の限りある人生の時間を割いても惜しくない。そう考えて絞ったジャンルのアカウントを持ち、それを運営しているのです。
例えばジブリアカウントでは以下のように『ジブリ主要作品全シーン』を描くという試みを行っていて、これは実に数年以上の時間を割くことになります。しかし、私が決めたことなんだから、それでいい。それだけ私はジブリ作品を愛しています。
3つ目は下記の記事にも書いたように、好きなジャンルへの貢献。『IQの仕事とは』の折り畳みの中の記事をご覧ください。ワンピースやジブリのファンや映画や料理好きの人に大会に出てもらう。知識強化をしてもらって優勝し、賞金でそのジャンルの商品を買ってもらえば、より私の好きになったジャンルが盛り上がるということですね。
『お金配りおじさん』のようにただあげるだけではなく、クイズ大会を通すというのがポイントです。ジャンルが本当に好きな人しか手にできない仕組みにし、賞金はそのジャンルのものしか買えないように縛ることで、よりそのジャンルへ貢献ができるようになるわけです。
ちなみにお金や人間についてたくさん学んだ私は、『お金配りおじさん』のやっていることを否定することはありません。むしろビジネスとして戦略的である。ビジネスというのは『引退しないのに引退発言をする』ことがあったりするように、倫理や道徳とは別次元で考える必要があるのです。もちろん『義利合一』を忘れてはいけません。
現在最もフォロワー様が多いのは『名言アカウント』で、同じようにやっているつもりでも、一番少ないところと比べて3倍も違います。やはりただアカウントを持つだけではなく、投稿の内容がものを言うことが分かりますね。名言は丸2年という時間を費やして8000の言葉を内省しました。ほとんど短大かなにかの勉強期間と同じくらいですね。
『名言短大』で真剣に学んだ経験が、血となり肉となり、そして言霊となって皆さんに響いてくれているのかもしれません。
さて、皆様いかがだったでしょうか。これでも短くまとめたつもりなんですけど‥。一言でまとめると私は、
が嫌いで、『悔いのない人生』を生きようとしているわけですね。責任と教育を理解した真の人間関係を愛し、せっかく貴重な時間を2時間も割いた映画鑑賞を無駄にしないように真意を見極め効用を最大化する。義利合一を理解し、偉人の言葉や教えに目を向け、歴史を知り、先人が犯した過ちと同じ轍を踏まないように熟考する。私は随分身勝手な大人を見てきて、自分自身も身勝手に生き、そして『浪費』してきました。もう『投資』以外に目を向けるつもりはないのです。
それでは皆様、悔いのない人生を。
追記:更に詳しく知りたい方はこのサイトをくまなくチェックして下さい。全部読めば考え方の大体のことが見えてきます。難しい?そうですよね。私はこうした問題を幼少期から突き付けられていました。今ではそれに感謝しています。何事も前向きにとらえることで人生に打ち克つことができるのです。