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武田信玄の名言・格言一覧

日本武将通称『甲斐の虎』。武田信玄1521年大永元年11月3日、甲斐国の守護者・武田信虎の嫡男として生まれました。(画像

名言一覧

13個あります

『我が国を滅ぼし、我が家を破る大将、四人まします。馬鹿、利口、臆病、そして四番目は強すぎる大将なり。』

『もう一押しこそ慎重になれ。』
『負けることのない戦いに負け、滅ぶことのない家が滅ぶのを、人はみな、天命と言っている。自分は天命とは思わず、みなそのやり方が悪いためであると思う。』
『成せば成る、成さねば成らぬ、成る業を、成りぬと捨つる、人のはかなき。』
『渋柿を切って甘柿を継ぐのは小心者のすることだ。国持ち大名にあっては、渋柿は渋柿として役に立つものだ。』
『およそ戦というものは、五分をもって上とし、七分を中とし、十分をもって下とす。五分は励みを生じ、七分は怠りが生じ、十分は驕りを生ず。』
『100人のうち99人に誉められる者は、決していい人物ではない。』
『大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、最も重要である。』
『一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても、ひと月で三十か条になるのだ。これを一年にすれば、三百六十か条ものことを知ることになるのではないか。』
『自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ。この心構えさえあれば、道の途中で挫折したり、身を滅ぼしたりするようなことはないはずだ。』

10。
『我、人を使うにあらず。その業を使うにあり。』
『三度ものをいって三度言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である。』
『組織はまず管理者が自分を管理せよ。』

13。

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武田信玄の格言と向き合って内省する

武田信玄とは(画像

日本武将通称『甲斐の虎』。武田信玄は1521年大永元年11月3日、甲斐国の守護者・武田信虎の嫡男として生まれました。甲斐の虎の異名を持ち、越後国の上杉謙信と五度にわたって争った川中島の戦いは、後年さまざまな作品で虚実織り交ぜつつ描かれています。なお一般的な武田信玄のイメージは全59品からなる軍学書「甲陽軍鑑」によるものが大きく、江戸時代には読み物として親しまれました。

武田信玄が信濃国を平定したのは1553年。同年には信濃国を追われた村上義清らの要請で出征した上杉謙信との間で第1次川中島の戦いが勃発します。この時は両者痛み分けという形で終わっており、武田側にとっては村上氏の本領地を掌握したことで一定の戦果を上げています。

その2年後の1555年に行われた第2次川中島の戦いは犀川の戦いとも呼ばれ、200日以上にもわたる戦いが繰り広げられました。この戦いも決着は付かず、駿河国の今川義元の取りなしで和睦を成立させ、両軍撤兵という形で幕を閉じています。その後第3次合戦を経て、もっとも大規模な戦いとなった第4次合戦(八幡原の戦い)が1561年に行われます。一般的に川中島の戦いといえばこの4次合戦のことを指していますが、経過を記した史料に乏しく、具体的にどのような戦いが行われたのかは今もなお謎となっています。

上杉謙信との数々の激戦ののち武田信玄は病に倒れ、元亀4年4月12日、進軍を中止して甲斐に引き返す三河の街道上で53歳で死去。遺言によりその死は三年間秘匿されていたと言われます。