日本の武将。生誕1543年。男。通称『三英傑』。織田信長、豊臣秀吉と並んで三英傑と呼ばれる。長く続いた下剋上の戦国時代に終止符を打ち、265年続く徳川幕府の基盤を築き上げた徳川家康は、現在の愛知県にある三河で生まれた戦国大名です。(画像)
名言一覧
『人の一生は、重き荷を負うて遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常と思えば、不足なし。』
『戦いでは強い者が勝つ。辛抱の強い者が。』
『勝つことばかり知りて、負くることを知らねば、害その身に至る。』
『大事を成し遂げようとするには本筋以外のことはすべて荒立てず、なるべく穏便にすますようにせよ。』
『いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある。』
『得意絶頂のときこそ隙ができることを知れ。』
『私はケチだから麦飯を食べているわけではない。いま天下は乱れに乱れ、領民も安らかな日は一日もない。そんななか私一人が暖衣飽食などできるものか。』
『明日はきっと一戦あるなというようなときは、首をよく洗っておけ。』
『心ばえはそこまで良くなくても、何か優れた能力を持った者ならば採用すべきだ。』
『放っておけ。それより書いてある内容が見たい。予のためになるものもあるだろう。』
『人質は長くとっておくと、親子であっても親しみが薄れて効果がなくなる。恩愛に溺れて人質を捨てかねるものである。』
『はじめから主君に楯突こうと思っている者はいない。思い上がりと、恨みと、それから生じる欲心が謀反を起こさせるのだ。』
『一手の大将たる者が、味方の諸人の「ぼんのくぼ」を見て、敵などに勝てるものではない。』
『諸人の頭などをするいまどきの者で、軍略を立てて床几に腰をかけ、采配を持つ手さえ汚さずに、口先だけで戦に勝てるものと心得ているのは、とんだ考え違いだ。』
『多くを与えねば働かぬ家臣は役に立たぬ。また、人間は豊かになりすぎると、結束が弱まり、我説を押し通す者が増えてくる。』
『決断は、実のところそんなに難しいことではない。難しいのはその前の熟慮である。』
『天下は天下の人の天下にして、我一人の天下と思うべからず。』
『重荷が人をつくるのじゃぞ。身軽足軽では人は出来ぬ。』
『最も多くの人間を喜ばせたものが、最も大きく栄える。』
『敵だというのも自制心を忘れた怒りである。』
『真らしき嘘はつくとも、嘘らしき真を語るべからず。』
『戦いというものは潮どきがある。このあたりで一度敵の出鼻を叩いて見せぬと、士民も心細かろうし、敵も図に乗ろう。』
『何の苦労もしないで手に入れた宝は、かえって失敗や破滅につながる。』
『大将というものはな、家臣から敬われているようで、たえず落ち度を探されており、恐れられているようで侮られ、親しまれているようで疎んじられ、好かれているようで憎まれているものよ。』
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徳川家康の格言と向き合って内省する
徳川家康とは(画像)
日本の武将。生誕1543年。男。通称『三英傑』。織田信長、豊臣秀吉と並んで三英傑と呼ばれる。長く続いた下剋上の戦国時代に終止符を打ち、265年続く徳川幕府の基盤を築き上げた徳川家康は、現在の愛知県にある三河で生まれた戦国大名です。
幼少期には今川家の人質として過ごしますが、桶狭間の戦いによって今川軍が敗れると、チャンスを逃さずに岡崎城を乗っ取り、織田信長と手を組んだことでめきめきと手腕を発揮しました。日本の戦国大名にはいろいろなタイプがいましたが、その中でもチャンスが巡ってくるまでじっと待つことを知っていた彼の性格は、「鳴かぬなら なくまで待とう ほととぎす」にもたとえられています。ちなみに織田信長は「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」とカッとなりやすい性格だったようですし、豊臣秀吉は「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ほととぎす」と発想の転換が上手だった人物と言われています。
そんな徳川家康が後世に残した名言はたくさんあります。その中でも良く知られているのは「決断することはそれほど難しいことではない。本当に難しいのは、その前に熟考することである」と言うものがあります。人生の大半を天下を取るための方法を熟考しながら過ごし、わずかなチャンスを確実にものにしてきた彼の言葉だと考えると、まさにその通りだと納得できます。
「真面目で主君思いの良臣は、家臣の中でもトップクラスの優等生。しかし、心根はそれほど優秀でなくても、秀でた特技があるのなら雇ったほうが良い」と言うのも彼が残した名言です。私たちの生活の中でも生かせる場面がありそうな言葉です。