意味
命を宿す
『誕生』でも『生誕』でも『出生』でも『宿命』でもない。 命を宿す、それが『命宿』である。これは私が作った言葉だ。教育というものは、まさにこの命宿なのである。それは、多くの教育者が自覚するところだ。もちろん、手のかからない対象者もいるだろう。しかし、後のほとんどが手のかかる対象者ばかりだ。だからこそその対象者は、教育の対象だった。
教育の神、森信三は言った。
森信三のこの言葉が、どこまで自分の芯の芯にまで染み渡るか。それで教育者としての価値が決まることになるだろう。つまり、『流される』。まるで、流れる水の上に文字を書くように、そこに書いても書いても、すぐに流れては消え、また次の日には同じことを言わなければならない。
『何度言ったらわかるんだ!』
と激昂する教育のシーンは、この世に山ほどある。親が子に、教師が生徒に、師が弟子に、上司が部下に、先輩が後輩に。今日も明日もこうして人は、教育に躍起になり、一喜一憂する。
教育が成立するとき
人が、人に何かを教えようとするとき、間違いなくそこにいるのは『自分よりも部分的に劣った人間』だ。自動車運転の免許を取ろうと思えば、助手席には教官がいて、彼らは新しく免許を取ろうとする人に対し、運転の仕方を教えようとする。なぜなら彼らが、自分よりも運転免許の技術が劣っているからだ。つまり、人が人に何かを教えようとするとき、
- 部分的に優っている人
- 部分的に劣っている人
の両者が存在していることになる。もちろん書いたように例外はあるが、往々にしてそのような両者がいる場合に、教育が成立するのだ。それであれば、教育というものはまるで、『充填』、または『洗脳』、もしくは『プログラミング』である。なかった場所に、あるものを充填する。または、なかった思想や発想を植え付け、洗脳する。もしくは、自分一人で行動できるようにプログラミングする。そういう印象を強く受けるわけだ。
充填?いや違う。
だが、『充填』だけでは、そこに主体性がない。枯渇したら最後、また他のエネルギー源から充填を依存しなければならなくなる。まるで、ガソリンが切れてガソリンスタンドに行くように、そういう依存から抜けられなくなる。
道教の創案者、老子は言った。
中国の諺にもこういうものがあるが、
意味は同じだ。魚を与えればその人の腹は満たされ、エネルギーは『充填』される。だが、それではその人が一日食えるだけだ。また次の日には腹が減り、他からの充填に期待するような主体性のない人間になってしまう。それでは教育とはいえない。
洗脳?いや違う。
『洗脳』はどうだ。あながち、大きく的を外してはいない。だが例えば、慶應義塾大学医学部精神神経科、准教授、村松太郎の著書、『『うつ』は病気か甘えか。』にはこうある。
どんな商品でも、こんなに急に売れるのは、背景として強力な情報の感染があるのが常だ。その商品がどうしても必要なんだと人々に思わせる情報。たとえばスマホのジャケット。たとえば紫外線防止グッズの数々。たとえばインフルエンザ予防のマスク。皆が追っている。皆が必要だと言っている。すると必要なのだろうか。
(中略)皆がそれを必要だと言っているという情報から生まれたものにすぎない。持っていないと不安になる。情報から生まれた不安。特に感染力が強いのは、健康に関する情報だ。人の行動をすぐにでも左右する力がある。情報感染商法。その成功の秘訣は、はじめは商売らしさを全く見せずに、情報だけを提供すること。健康についての不安を煽る情報。その情報が空いての心に浸透したころを見計らって、対策としての商品をさっと出す。しかもその商品を皆が使っているという情報をあわせれば、商談成立、それどころか、感謝さえされかねない。
やはり洗脳というものはカルト教団のそれもそこに該当するわけで、この言葉もあまりいい言葉ではない。特に私は、自分の両親が(自称)クリスチャンだったこともあり、この洗脳というキーワードについては人一倍うるさい。自分の最愛の両親が、楽しい食事やバーベキューの合間に、感情的になって神に祈りを捧げる。そういう光景を見て、子供はどう思うだろうか。(彼らの為に、一緒に祈ってあげたい)そう思うに決まっているのである。
しかし私は自我が発達した頃、自分がクリスチャンではなかったことを悟った。そしてそれはこれからも未来永劫、一生の間変わることがないという確信を得たのだ。するとあろうことか、この両親たちとの間には深い深い溝が出来るようになった。ここにあったのは本当に『教育』だったのだろうか。それとも、単なる人間本位かつ自分本位な『洗脳』だったのだろうか。
プログラミング?いや違う。
では、『プログラミング』はどうだ。自分一人で行動できるように、自立できるように働きかけるこれなら、なかなか教育に近いものがある印象を受ける。人間の脳とコンピューターの作りはそっくりであるという事実もある。だからこのような言い回しもそこまで遠く離れてはいない。だが、やはりこの言葉も違う。我々は人間なのだ。機械やコンピューターではない。だからプログラミングという言葉では未熟だ。人間には人間にふさわしい言葉があるのだ。
それこそは、命宿である。
それこそは、『命宿』である。対象者に命を宿し、息を吹き返させる。死んだ目を蘇らせ、魂のろうそくに火をつけ、生きるエネルギーをみなぎらせるのだ。『不燃型』でも『他燃型』でもなく、『自燃型』の人間に格を引き上げるのだ。
流れる水の上に文字を書く
フランスの哲学者ルソーは言った。
その二回目の人生とは、命宿によって吹き込まれた命が、花開くことを言うのだ。私の部下には、入社して8年、『吃音症』をベースとして、
といった、様々な精神的な問題を抱える、心に闇を抱えた人間がいる。彼は、吃音症以外はほぼ軽い症状だが、しかし、そうだと言っても全くおかしくはない、そういう生活態度を続けてきた。『あがり症に大きな影響を及ぼすセロトニンという脳内物質とその役割』に書いた様に、全て脳内の『セロトニン』という脳内物質が関係する精神的症状ゆえに、このどれに該当してもおかしくはない、という印象を受けるのだ。
例えば『回避性パーソナリティ(人格)障害の診断基準からわかったこと』に書いたDSM-Ⅳから引用した7つの項目のうち、彼はそのほとんどに当てはまるのである。『流れる水の上に文字を書く』。私は森信三の言葉を見て、安堵したものだ。
なんだ。俺だけじゃなかったんだ。教育者は皆、そういう思いの中、対象者を教育しているんだ。だったら、俺だけが弱音を吐いていいわけがないだろう。
そもそも俺は別に、この森信三を神様だと思うことなんてないんだからな。だが、ありがとう。森さん。あんたは確かに、素晴らしい人格者だ。
私の部下は、『流れる水』そのものといえる刹那的な生活態度を、何年も、何年も、送っていたのである。彼に『命宿』をするのは、困難を極める。何しろ、吃音症は一生治らないという事実も存在するのだ。何よりもこの8年、私は一切彼に対する教育の手を緩めたつもりはない。最初から今に至るまで、
『吃音症なんか治るんだよ!』
として、咽から血が出るほど声を荒げてきた。まだだ。まだ終わっていない。諦めたら終わりだ。諦めたらそこで何もかもが終わってしまうのだ。
流れる水の上に文字を書くような、手ごたえのない儚い事実に対し、岩壁に刻み込む真剣さで取り組み、そこに命宿をする。これだ。これこそが教育の極意なのだ。