スイスの心理学者、ユングのこの記事で、
私が書いたのはこうだ。
戦争やテロリズムも、一見するとそこに主体性があるように見えるが、実際は『主体性が無い』可能性がある。それは例えば、『世界がわかる宗教社会学入門』にあるこの一文を見て、浮上してくる事実である。
宗教には、テロリズムのイメージがある。宗教とテロは関係性が強いのか。これはもちろん誤解で、実際はテロリストが宗教を口実にしているだけ。
それに、経験論の父、ジョン・ロックは言った。
つまり、ダイバーシティ(多様性)があることはいいが、そこに『主体性』がなければならず、『ある』と思っていてもそれは主体性ではなく、あるいは、『正しい方向ではない』場合がある。
例えば、幼女連続強姦殺人犯は、一つの生命体だが、倫理で考えても、心で考えても、その人物を『人間』として考えることは出来ない。その人物を『多様性の一つ』として認めることは無いし、精神分析の結果、『異常』と判断されるのであれば、そこに『主体性』はない。
つまり、『ダイバーシティ(多様性)があるのは良い。だが、個々各人の主体性が真理に則って成り立つ場合のみ、そこにダイバーシティがある。』という事実が浮き彫りになるわけだ。まずは、『主体性』がなければならない。だがその主体性は、前述したように『勘違い』ではいけない。
にも書いた様に、『命よりも上にあるものがある』という発想だと、戦争やテロリズムのような結論が生み出されてしまうし、
にも書いた様に、シェイクスピアの言った、
自分の本心ではない、本心を惑わす、本心かと思い間違いかねない『悪い糸』の存在を『知らない』者が下す判断は、主体性がある判断とは言えない。だから『主体性』の意味をはき違えていれば、もうその時点でそこに多様性などなく、あるのは『混沌』だけである。
『真理』というものは、例えば『人を殺してはいけない』という事実は、極めてそれに近いものであるわけだ。だが、テロや戦争では人を殺してしまうことになる。それであれば、
『それは真理から逸れた行動だから、そこに主体性があるとは思えないし、そこに多様性があると認めることもできない』
ということになり、テロリズムや戦争が『人間の生きる道』からはじき出されることになる。