例えば、『道がある』と言う。だがそのすぐ後に、こういう言葉を見てみる。
中国の思想家、魯迅は言った。
チェコの作家、カフカは言った。
作家、高村光太郎は言った。
すると、
なんだ、そう言えば確かに、やっぱり道なんか最初からなかったじゃないか。この地球に、道を作ったのは人間なんだ。
という考えが頭をよぎることになる。そして更に言えば、その『道を作った人間』は、自分以外の人間だ。自分が作った道ではないのだ。つまり、だとしたら別にその道を自分が通る筋合いはないということになる。
これらの記事で書いた様に、我々は、たった一度の人生を生きているのであって、それは二度、三度あるものではない。この命は過去、未来永劫の圧倒的な時間、あるいはこの広漠とした甚大な宇宙の規模の中において、唯一無二。それなのに、なぜ他の人間が作った道を、この自分が通らなければならないのか。よく考えたら首をかしげることになるだろう。
また、『命の日数』という言葉について考えるときは、以下の内容を見落とすわけにはいかない。聖書の『伝道者の書 5章』にあるこの一文だ。その前に言っておくが、私は無宗教者である。
『見よ。 私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。 これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。』
私は無宗教者だ。だが、私の両親はクリスチャンだ。この一節は、亡き父親が最も好きだった聖書の言葉だった。それを大切にしたいという気持ちもあって、私はこの一節に妙な違和感を常に抱いていた。この違和感については下記の『第13の黄金律』に詳細を書いた。
それを併せて考えればわかるが、人間は、『与えられた命の日数の間に、どうやって生きるかによって、幸せにも不幸せにもなれる』のだ。仕事が終わった後の食事や、一杯目のビールはとても美味い。だが、その美味い食事も、毎日毎日同じものを食べたり、ビールであっても、二杯目、三杯目とすすむにつれて、どんどん味が落ちて来る。
では、『人が作った道の上を歩く』ことはどうだ。『決まったレールの上を歩かされる』ことはどうだ。それで、本当に自分のこの命が、唯一無二の命が、心底から充足し、満たされることを覚えるだろうか。
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