これらの記事と併せて考えていきたい。それらの記事や黄金律で再三考えたように、人間の『使命』はその文字通り、与えられた命を使い切ることなのだ。だが、『命を使い切る』ということは何も、無理をすることでも無茶をすることでもない。つまり、過激なテロや戦争を巻き起こして、自爆することでも、無辜な命を奪い去り、強引にメッセージを残すことでもないのだ。
この世に何かメッセージを残すことが出来れば、自分の命が存在した意味があるのではないか。そう考える人は大勢いるだろう。私だってそういう人間の一人だ。人間は、自分の命があまりにも儚く、虚しい存在であるということを直視したとき、誰もがその儚さに抗いたくなる思いに突き動かされ、エネルギーが満ち溢れるものである。まずはそれでいい。それが人間の矜持だからだ。だが、『メッセージの伝え方、残し方』には許容範囲があるのだ。
1937年、ドイツ軍はスペインの内戦に介入して無差別爆撃を行い、 小さな町ゲルニカでは住人の3分の1が虐殺された。そこでパブロ・ピカソは『ゲルニカ』の絵を描いたのだが、 『この絵はあなたが描いたのか?』 と尋ねたドイツ大使に、ピカソはこう言った。
メッセージを残すための手段なら、『戦争』以外にもいくらでもある。『聖戦』などという詭弁でもって行われるテロや戦争など、 人間や真実に対する、侮辱行為である。ピカソは、『自分に与えられた天分』を100%活かし、ゲルニカという絵を描いた。また違う人がメッセージを残そうと思えば、違う表現方法になるだろう。そこにそれぞれの個性があり、命の価値があるのだ。
だが、テロや戦争など、別にどんな人間だって出来る。小さな子供だって出来る。体に爆弾をまきつけて自爆し、あるいは引き金を引けば銃で弾を撃つことが出来る。こんなものは『天分』ではない。天分とは、天から与えられた『その人にしかない』身分・職分のことだ。そしてそれは往々にして、『掘らなければ』見つけることはできない。
例えばエジソンは、発明の天才として歴史に名を遺した。しかしエジソンは小学校をたったの3か月で退校させられている。学校の教員から、『うつけ者』の烙印を押されたのだ。だが、そんなエジソンを、母親だけは信じた。そして、母親は家の地下に実験室を作り、思う存分彼に実験をやらせたのだ。
エジソンは母親の愛の力を借り、思う存分自分の実験を続けた。もしエジソンがそこで実験をやめなければならなかったとしたら、彼は歴史に名を遺すことはなかった。エジソンは、『自分に与えられた天分』を100%活かし、発明の天才として歴史に名を遺した。『命を使い切る』ということは、こういうことを意味するのだ。
『掘るのを諦めた根性なし』が、『命を使い切る!』などと叫んだところで、そこにあるのは『命を使い切る』ことの意味を理解しないまま終わる、『救いが必要な』命である。
イギリスの哲学者、ラッセルは言った。
『多くの人間は、考えるよりも先に死んでしまうだろう。実際、彼らはそうしている。』
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