とは別の視点で、こういう考え方も極めて有効である。そうはいっても、確かに艱難辛苦とは、ときに人間の心に耐えがたい苦痛を与えるものである。だから、『エネルギーを蓄えている』という発想では、ちょっと整理がつかない、という人もいるだろう。だが、『器』ならどうだ。まるで、トンネルや穴を掘ってその空間の面積を広げていくように、器を広げていく作業の間、チクチク、ガリガリと身を削られるような思いをするという考え方をするのだ。
そこには苦痛が伴う。だが、それと同時に得られているものがあるのだ。大きくなった器に注がれる水の量は、そうでない人と比べて潤沢なものになるだろう。その水で何をするかは自由だ。もちろん、ちょっとやそっと人にあげても水の量は減らないだろう。それはつまり、自分が苦しんだ分だけ人の笑顔が見れるということを意味する。
それでもこう思うか?
関係ない!人なんか関係ない!自分が人の為に苦しむなんて出来ない!
だとしたら残念ながら『親』を含めた一切の教育者になれない。
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