オーストリアの精神科医、フロイトは言った。
つまり、フロイトほどの賢者が30年という人生の膨大な時間を割いて、辿り着けたのが『その回答』だったのであり、だとしたらそれが真理なのである。つまり、女性の実態を掴むことが出来なかった。それはつまり、女性が常に流動変化していることを意味する。
女性がガッチリと固定されている存在なのであれば、その存在を事細かく説明することが出来た。あらゆる学者が、分析する対象のもののデータを淡々と読み上げる様に、分析と調査によって実態が分かっているものに関しては『わからない』ということにはならないが、女性に関しては『わからない』のであれば、それは彼女らが常に流動変化しているということでつじつまが合うようになる。
例えば、『火』についての説明はこうだ。存命中は知らない人がいなかったとされるアメリカの天才、バックミンスター・フラーの著書、『クリティカル・パス』にはこうある。
暖炉で燃える薪を指さしながら、ある子供が私に質問した。
『火ってなあに。』
私は答えた。
『火というものはね、薪となった樹木から解き放たれた太陽なんだよ。自転する惑星地球に太陽の炎の熱の放射が届くにつれて、樹木も回転していく。光合成によって、樹木の緑色の芽や葉は、太陽の放射する光や熱を炭水化物の分子へと転換する。その分子は樹木の外側の緑色をした形成層の細胞の内で構成される。樹木とは、回転させると円錐を形成する四面体なのだよ。樹木の四面体状に延びる三本の根は地中に拡がって木をしっかりと固定し、水分を得る。毎年、外側に新しい層ができる緑色をした樹木の円錐体は、365回転する。そして毎年、樹木は新しい淡い緑色の細胞の円錐体層を、樹皮のすぐ内側、前年までの蓄積された円錐体層の外側に育てる。のこぎりでひかれた薪にあるたくさんの年輪の、それぞれの輪はその年の太陽エネルギーの蓄えなんだ。だから火とは、長年にわたって閉じ込められた太陽の炎がやっと樹木から解き放たれたものだ。薪の火がパチパチとはぜるとき、それははるか昔のある日、さんさんと降り注いだ日光を急いで放出しているのだよ。』
このようにして、実態のわかっているものの説明なら出来る。一般の人間には難しくても、専門の学者なら、それが可能なのだ。そして、フロイトは歴史に名を遺す精神科医だった。そのフロイトが30年という莫大な時間をかけても『女性が何を求めているかわからない』と言うのだから、これはもう、その対象である女性が、『固定されたものではない』という事実以外にはつじつまが合わないのだ。
にも書いた様に、女性は『敏感』である。だからこそ常に『流行』と共に足並みを揃えて生きていて、時に、それにしがみついているようにすら見える。しかしそれは、彼女らが敏感であるからこそ、そうなっているわけだ。まずの段階で、鈍感であれば流行がなんであるかすらわからない。記事にも書いた様に『見える』彼女らからすれば、それを見て見ぬフリが出来ない。『せっかく見えているんだから、その光景を楽しもう』という発想があるのだ。
思想家、平塚らいてうは言った。
そこにも書いたが、ブッダは言った。
時間は流れ、宇宙はうごめき、命の火は消え、物質は分かれる。風は吹き荒れ、大地は鳴り響き、海は揺らいで、炎は燃え盛る。
これがこの世の真理なのだ。そして女性は、そのこの世の真理に、至極敏感なのだという印象を強く受けるのである。その見解と、このらいてうの『月である』という言葉は、無関係ではない。
女性は常に、流動変化させてこの世を生き抜き、対応してきた。強い男の側にいなければ、食べていくことが出来なかった。そしてそれは、自分の子供の命を危険に晒すことを意味した。愛している、愛していないという感覚も今よりも不明確な頃、男に求めるのは甲斐性だけだった事実もあるのかもしれない。
生理がくるのも女性だけだ。子を身ごもるのも女性だけだ。現代では、苗字を変えるのは女性で、結婚して出産すれば人付き合いが変わり、子供が学校に行けばコミュニティが変わる。会社では孤立しないようにグループに属し、飲みたくもない酒を飲み、興味もない話に話を合わせなければならない。
男である私からすれば、ここに書いたようなことは一切自分とは関係ないと考えるわけである。(それがどうしたんだよ)と言って、断固としてそこを動かない。それが『男らしさ』を現す態度や心構えだ、という考え方があることにも気づいているということもある。
よく、『男には出産の痛みは耐えられない』という言葉を上から見下すように意気揚々と話す女がいるが、一生経験することが出来ないことをいいことに、最初から『出来ない』と決めつけるような女に、知性などない。女性の中にはそれをわきまえていて、『男の中にも耐えられる人はいるでしょ』と言える人もいるのだ。
しかしとにかく男と女は違う。実際には単なる同じ人間のひとくくりだが、どうも『女心』というものは、男のそれとは区別する必要がある、違うものである印象を受けるのだ。
あらゆる物語や、歌や、作品でも、『女心と秋の空』という事実を突くものを見かけることがある。変わりやすい秋の空模様のように、女性の気持ちは移り気だということを突いているわけだ。しかしそれは決して女性が『軽薄な存在』だからではない。これらの事実が存在しているのは、女性が『流動変化しなければ生きていけない現実を突きつけられてきた』からなのだ。
男には力が与えられ、女にはそれが与えられなかった。だから男が力づくでやり通す場面で、女は柔よく剛を制すことを念頭に置くしかなかった。男が暴力的で、女が陰険なのも、与えられた力の差異がそうさせているだけで、逆であれば逆の現実が存在していたのだ。
私は女性にたびたび、
を感じることがある。表層だけ話を合わせ、その場をスムーズにさせることもさることながら、私が思い出すのはある2つの出来事のことだ。
一つ目は、私がカメラで写真を撮っているとき、私が『女性の前でいきがりたい男』に絡まれそうになったときのことだ。私は剣道やボクシング、筋トレやロードワークなどで身体能力を鍛えていることもあるが、それ以前に『血気盛んな男の道』を生きてきた人間だ。だから、大体の人間は私の目を見れば、さっと目を逸らすことが多い。目は、人の人格や覚悟を映し出す。従って、『色々なものを見てきた私の目』は、ある種の眼力があるのだ。
その証拠に、私は10代も前半の頃、不良に絡まれることがあった。その時は私の『目』を見て、私の実力が弱いと判断されたのだ。確かにスポーツはバスケしかしておらず、基礎体力も甘いし、覚悟も全くない。そんな人間が醸し出すオーラは、とある人間からすれば『カモ』に見えるのだろう。だが、それから15年。『色々なものを見てきた私の目』は、ある種の眼力を備え持っていた。
しかし、その『女性の前でいきがりたい男』は私の目を見ていない。何しろ私は、レンズを覗いている。したがって、彼の目に映った人間は、単なる『カメラ好きの小僧』か何かだったのだろう。
私は夕陽の撮影に夢中になっていた為、私の近くにその男女がいるのは気づかなかった。だが、レンズから目を離した瞬間、『妙な間合い』にその男女がいて、男が私の方を見ていたのだ。その瞬間私は経験上、この男が私を見下すか何かのアクションを起こそうとしていたのだと悟った。
私はその次の瞬間には男を睨みつけた(と言ってもグッと目を凝らしただけだ)。すると、男の顔は引きつって、『私の方へ向けたニヤケ顔をどうやって誤魔化すか』ということを考えているようないびつな顔になった。まるで、蛇に睨まれた蛙の様に、顔が硬直して動かない様子だった。
私が言いたいのは、その隣にいた女性のことである。女性は、私が男⇒女という順番で目を配ると、その時には既に下を向いて、『白旗』をあげているのだ。瞬時にその場面がどういうものであるかを悟り、環境への適応が早かった。
それだけではない。二つ目の事例を聞けば、更にこの話が信憑性を帯びるだろう。映画館の話だ。私はよくホットアイマスクを使用する。目を酷使することが多いため、あれは仮眠にとてもいい。映画を観終わった後も、皆と同時に出ていくのが面倒なので、私はその日、ホットアイマスクをしてエンドロールが終わるのを待った。もちろん、隣に人がいて、出るのが面倒だということもあった。だから、私が仮眠している間に出ていってもらって、それで最後にゆっくりと出たかった。
だが、私がホットアイマスクを外して背伸びをしようとすると、隣にはまだ男女が座っていたのだ。周りを見渡すとほとんどの観客がもういないというのに、私とその男女が残っていることは、違和感しかなかった。そして、私と目が合った。その目が合った男の顔は、そのカメラのときの男と同じ、いびつな表情だった。少しニヤケていて、顔がひきつっているのだ。もしかしたら、映画館でホットアイマスクをしている人間が珍しく、どんな奴なのかと思って馬鹿にしようとしていたのかもしれない。
目が合ったその男は、まるで『猿が敵だと思って威嚇したところ、敵ではないということがわかり、その顔をひきつらせ、愛想笑いをする』かのように、無理矢理にこちらに敵意がないことを伝えようとする、そういうひきつった顔になっていた。
ここからだ。ではその時、隣にいた女性はどうしていただろうか。私と男が目が合った瞬間に、隣にいた女は、
と小さい声で呟き、下を向いたのだ。男を見ながら女性も視界に入っていた私は、その一連を全て確認していた。私はその時、そのカメラのときと同じようにこう思ったのだった。
やっぱ女は環境への適応が早いな…
それからしばらくして『ホンマでっか!TV』でこういう放送があった。イギリスのケンブリッジ大学の研究で『顔写真の目元の部分だけをフラッシュして、その人物の喜怒哀楽を言い当てる』という実験をすると、男性よりもはるかに女性の方がその人物の感情を正確に言い当てたというのだ。この実験結果に、私は何の異論もない。実体験として、本当にそういうことがいくつもあったからだ。
ブッダが説いた『諸行無常』という『虚ろで神秘的な真理』と、至極密接な関係にある女性たち。それは、『女性が真理』だからというわけではない。
『女性は、敏感だからこの世の真理に無意識に適応できるようになった』
のだ。その流動変化する様子をフロイトが客観視したとき、コロコロと移りゆく女の実態をいつまで経っても把握することが出来ないと悟った。これならば、つじつまが合うのだ。つまりフロイトは女性を通して、この世の真理を見たのだ。