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『結果を出さない変わり者は『変人』と言われ、結果を出した変わり者は『天才』と言われる。』

意味

チェスの天才、ボビー・フィッシャーは言った。

 

この言葉が物語っているように、『天才』、『変人』というのは、結局単なる言葉であり、ということはそれを使う存在は人間である。そして、この世を生きる人間というのは往々にして結果に反応する。つまり、この世を生きる大勢の結果に反応する人々に『天才』と言わせたいのであれば、結果を出せばいいのである。

人類が100年の間解けなった『ポアンカレ予想』を説いたグリゴリー・ペレルマンは、数学界のノーベル賞であるフィールズ賞の受賞を辞退し、こう言った。

『自分の証明が正しければ賞なんて必要ない。』

 

しかし天才はこのようにして、『変人』と紙一重であるわけだ。事実、彼のことを変人と評価する人間の本を、私は持っている。

 

だが、本当の天才というものは、グリゴリー・ペレルマンのように、他者の評価などには一切動じない人のことを指すのだ。逆に、他者の評価を気にしてばかりいる人間が、あまり人として崇高であるような印象は受けないだろう。やはり、天才というものは、浮世離れていなければならない。他者の評価や、既成概念や固定観念などに囚われず、自分が確信する確固たる信念を貫き、断固としてそれを曲げることがない人間でなければならない。

 

私は、『凡才が評価する天才の称号』を得る為に躍起になる人間に、本当の天才はいないと考えている。アメリカの作家、ジョン・スタインベックが言った様に、

 

ということでなければならないはずなのだ。

 

この少年は、『ただ蝶を捕まえたかっただけ』であり、それによって他者からどう見られ、何を言われるかということは一切気にしていないのである。このとき、この蝶が珍しくもなんともなく、そしてその捕まえた場所が一歩間違えれば足を踏み外して転落死する、という場所であれば、彼は『変人』と評価されただろう。

 

だが、この蝶が世界中の学者が目を丸くさせるような新種や珍種であり、それを同じ危険な場所で捕まえたなら、彼は『天才』と評価されただろう。だが、彼は『ただ蝶を捕まえたかっただけ』なのだ。それだけのことだったのだ。

 

例えばエジソンは、発明の天才として歴史に名を遺した。しかしエジソンは小学校をたったの3か月で退校させられている。学校の教員から、『うつけ者』の烙印を押されたのだ。だが、そんなエジソンを、母親だけは『変人扱い』しなかった。そして、母親は家の地下に実験室を作り、思う存分彼に実験をやらせたのだ。

 

 

そして生まれたのが『天才発明家エジソン』だ。しかし、彼はただ、思うように実験をしたかっただけだった。

 

ノーベル賞を取る前までは、変人的な学者の扱いをされていたが、取ったその日から、その学者は天才的な扱いをされるようになった。そういう人は、世の中にごまんといるだろう。澤穂希が率いる『なでしこジャパン』は、世界大会で優勝するまで、どういう目で見られていただろうか。人々は本当に敬意を払って注意深く見ていただろうか。

 

私の場合で考えても、私が社長という肩書を持った途端に、周りにいる人間の評価がガラッと変わった。私という要素は何も変わっていないのに、莫大な資産を持っているわけでもないのに、たったそれだけの理由で周囲が見る目を変えるのだ。東大や京大の出身者などもそうだろう。人々は、そうしたネームバリユー(名前そのものの価値)に軽率に反応して、その人を無責任に評価するものである。

 

学歴のない私は、それだけで見下されていた。もちろん力づくでそういう目をねじ伏せてきたが、そういう手のひらを返すような人間の態度を見ていくにつれ、徐々に、その様な人間たちの評価など、最初から傾聴に値しなかったのだという事実を悟っていったのだ。

 

天才。それは一体、誰が、誰の、何を見て言い放った言葉だろうか。

 

 

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