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Information<Intelligence.
これがこのサイト『Inquiry』のサブタイトルでもある。黙っていても耳に入ってくる『情報』よりも、耳を澄まし、目を凝らさなければ見つけられない『知性』を重んじるべきである、という考え方のもと、このようなサブタイトルをつけたわけだ。『『良質』を紐解くために避けて通れない15のトピック』に書いた、『真理』と『流行』。ここに書いたのはこうだ。
『真理』とは、 いつどんなときでも変わることのない、絶対不変の真実だ。『流行』とは、 一時的ではあるが、確実にもてはやされる現象だ。
真理を追う者は少なく、流行に流される者は多い。流行に遅れた者は、流行を追う者に『ダサいレッテル』を貼られる。それは『時代遅れ』ということであり、『人としての質が低い』ということなのだろうか。
真理に逆らう者は、真理を重んじる者に『愚か者のレッテル』を貼られる。それは『人の道を踏み外した』ということであり、『人としての価値が低い』ということなのだろうか。
真理を重んじれば重んじるほど、流行の価値が廃れていく実感を得る。事実、この私がそうだ。かつて10代の頃は、当然のように流行に支配されて生きていた。しかし、流行り廃りがある中で、何度も何度も新しい流行を追い求めることを冷静に考えた時、そこに妙な馬鹿馬鹿しさや強迫観念、執着、恐怖、にも似た『間違った感情の在り方』がある実感を得ていった。
そして、本を読むようになった。由緒ある本は、常に真理を突いたものばかりで、その本を読んでいる間は、まるで時間が止まったかのような錯覚を覚えた。しかし、現実の世界では相変わらず流行の波が辺り一面を飲み込んでいて、それに波乗り出来なければ世に置いて行かれるような、そういう禍々しささえ水面下に漂っていた。
安堵できるのは真理の側にいるときだった。そこにあるのは禍々しさなどではない。まるで、基盤が完全に固められた場所で座禅を組んでいるかのような、そういう安心感があった。
流行の側にいるときは違う感覚があった。確かに『大船』に乗った感覚はあるのだ。そういう妙に安心するような感覚を覚えた。だが、タイタニックは沈んだ。
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大船は、基盤が完全に固められた場所と比べれば、不安定でしかないのだ。では、やはり真理を追う者と比べ、流行を追う者は愚か者なのだろうか。人に置いてかれたくないと恐怖し、虚像の安堵に依存する、愚かな人間なのだろうか。
だが、私がこの短い半生だけでも注目したのはこういうキーワードだ。
パッと思いつく一例に過ぎないが、これらは全て大きな力だ。明らかに『真理の力』とは様相の異なる、違った形のエネルギーが、ここに関係してきている。
日本人にわかりやすい、日本の芸能界の話で考えてみる。ダウンタウンもとんねるずもビッグ3(タモリだけは少し印象が違うかもしれないが、後でその詳細を書く)もそのエネルギーの力を借りている。例えばダウンタウンやとんねるずであれば、誰しもが実力者であると思うかもしれない。だが、かつてほどのカリスマ性があるだろうか。
私は両者とも大好きだ。例えばダウンタウンなら、『ガキの使い』などはかれこれ10年連続でかかさず見ているが、だが、『ごっつええ感じ』ほどの圧倒的な攻撃力は、今の彼らから感じることはない。それは、彼らの全盛期を知る全てのファンが、皆理解しているところである。北野武も明石家さんまと、同じような話をしている。
松本人志も、いまだにその才能は衰えることなく健在だが、やはり『時代の大きな力』を借りて行ってきた時期のほうが、今よりも彼の魅力は光って見えていた。『ごっつええ感じ』や『一人ごっつ』のときの松本は今よりももっと毒々しく、そしてそれが彼の最大の魅力でもあった。
『HEY!HEY!HEY!』全盛期の時に出した浜田の歌は、空前の大ヒットとなった。だが、2015年、『ガキの使い』で出した『浜田ばみゅばみゅ』は、残念ながらその足下にも及ばない出来となった。
つまり、彼らだからといって何をすればいいというわけではないのだ。背後にいたのは小室哲哉や中田ヤスタカといった天才たちだが、同じく、天才だからといって何をすればいいというわけでもない。その時代、その時代に流れている波というものがあり、その波を使いこなすことが出来なければ、たとえ天才とて生きている間に甚大なエネルギーを生み出すことはできない。それこそが『流行』というエネルギーなのだ。
とんねるずもダウンタウンも、『めちゃくちゃなことをやっていい時代』という条件と『自分達の持つ攻撃的エネルギー』が合致したからこそ、大きなうねりを生み出すことが出来た可能性が高い。
現に、2016年10月に、放送倫理・番組向上機構(BPO)の青少年委員会は26日、とんねるずの石橋貴明とタカアンドトシが司会を務め、お笑い芸人が体を張ったクイズバトルに挑戦した9日夜放送のTBS系バラエティー番組「オール芸人お笑い謝肉祭’16秋」について、25日付で審議入りしたことを明らかにした。
委員会によると、視聴者から「男性が男性の股間を無理やり触る行為などがあった。内容が下品。子供に説明できないような番組はやめてほしい」「浜辺で芸人がローション階段を全裸や下半身露出で滑り落ちるシーンが放送された。“裸になれば笑いがとれる”という低俗な発想が許しがたい」などの意見が寄せられたという。
20年前の時代なら、こういう放送は日常茶飯事だった。お笑いだけでなく、露出で言えば、深夜枠には『ギルガメッシュナイト』や『トゥナイト』や『A女E女』があったし、真昼間から『熱湯コマーシャル』や『生着替え』、年末という極めて重要な時期に、『野球拳』があった。
しかし時代は流れ、テレビ番組の在り方は大きく変化し、テレビはもう『めちゃくちゃなことをやっていいもの』ではなくなった。そしてそれと比例してその勢いを利用して力を発揮していた人間の力が、徐々に弱まっていった印象を得る。『第32』の黄金律、
この黄金律に逆らうことはできない。
※1 もちろん、彼らの勢いが落ちている印象があるのは、彼らが今、多くのファン(視聴率)がつき、ギャラ設定が高くなったため、無茶をする必要性がなくなった、ということも関係しているだろう。ハイリスクを冒さなくてもハイリターンを得られるようになった。もともとの彼らのモチベーションは『売れること』、つまりハイリターンなわけだから、『落ち着いている』ということはつまり安定しているということであり、『安定してハイリターンを得ている』ということであれば、彼らの目的は既に達成しているのだ。
※2 また、松本は自分の作る『面白いもの』に対し、『ダウンタウンなう』で、
という内容の話をしていて、若い時代に突き付けられていた窮地や過酷な環境こそが、自分たちの能力を引き上げていた、と考えている。また、『プロフェッショナル 仕事の流儀』では、
とも言っている。『ワイドナショー』では、
という風な内容のことを言っているのだが、実は自分の勢いの変化に一番気が付いているのは本人なのかもしれない。しかしまあ、冷静に考えると50歳を過ぎてもいつまでも彼らに『絶頂』を期待してしまうのだから、彼らの圧倒的な可能性は紛れもなく稀有なものである。
とにかく私はこの流行というものが、『透明のドラゴン』のように見えてならない。流行の持つ、
という要素を考えた時、そこに『透明のドラゴン』の存在を感じるのだ。
目には見えないから、色は透明なのだが、しかし、確かにそこに存在していて、その迫力には目を丸くするばかりだ。気まぐれで、神出鬼没で、無視をしたくても無視出来ないほどの圧倒的な存在感を持つ。ドラゴンが吐く烈火の炎は、辺り一面を焼き焦がすほどの驚異的な威力だ。誰もが見る目を奪われる、甚大なエネルギーがそこに生み出されることになる。
だが、ひとたびこの気まぐれな透明のドラゴンが去った後は、そこにあるのは『焼け野原』である。何もかもを焼き尽くし、残っているものは何もない。
この現象を現代の日本人にわかりやすく言えば、『一発屋芸人』だ。彼らの多くは、偶然この透明のドラゴンが背後にいただけに過ぎない。しかし、目の前に湧き上がる圧倒的なエネルギーに彼らの目は吸い寄せられ、背後にある甚大なエネルギー源の存在に気づけていない。目の前で起きていることが、全て自分の手柄だと思っているのだ。自分の手柄だと、思い込みたいのだ。
だが、ドラゴンが気まぐれに去った後、そこに残っているのは自分の力を過信した芸人たちと、ドラゴンの烈火の炎で焼き尽くされて跡形もなくなった焼け野原である。
彼らがもしその爆発的なエネルギーが『透明のドラゴンの力である』と見極めることが出来ていたなら、いくらでも次の手を考えることができるだろう。例えば、余韻的な価値が廃れる前に、そのエネルギーで稼いだお金を元手に違うビジネスをやり、エネルギーを溜めてから、『テレビの方から出演してほしいと依頼される人間』になり、また芸人として活躍するならする、という方向も視野に入れることが出来るだろう。
人間というものは何もテレビで活躍している人間だけではなく、その他のシーンでも圧倒的なエネルギーをみなぎらせればそこに吸い寄せられるものなのだ。 時には芸人という枠に固執せず、臨機応変に対応した方が上手くいくこともあるのだ。
追記2017年7月:ある番組で一発屋芸人、あるいは一時期人気があったが、今は人気がなくなってしまった芸人が登場し、それを『自己分析する』というコーナーがあった。すると、面白いくらいに彼らはその自己分析で、『自分たちの実力ではなく、他の芸人や環境、スタッフや扱われ方等に原因があった』と主張した。彼らは見事に『アウトサイド・イン』の発想をしていて、『第18の黄金律』、
の重要性を理解していなかった。ただ一人、『レイザーラモンHG』が、
と言って少しだけ真理をかすめたが、それもよくよく聞くと、『自分の実力ではなく、そのバトンの存在のせいだ』というアウトサイド・インの発想があることがわかり、『最初のヒットは実力だ。だが、見えないバトンを渡さなければならない動きが働き、やむを得ずそうするしかなかった』という、自分の力の過信と、『見えない何かの力』の実力への過小評価があることがわかり、『透明なドラゴン』の存在に感謝する謙虚な気持ちが垣間見えることはなかった。
過信してはならない。透明のドラゴンの力を借りただけなのだ。しかし、その現実を受け入れられる知性ある人間は滅多にいない。それもそのはず、皆、成功を夢見てその分野で奮闘していたのであり、ついに掴んだビッグチャンスなのだ。どうしてもそこに執着してしまうのである。『執念』が『執着』に変わってしまうのだ。野心もある。大物と言われた人間を超える可能性が自分達にはあると、信じたい気持ちもある。だが、その気持ちが人を盲目にさせる。
『第20の黄金律』、
にも記載したように、人の足下は、得意時代に必ず大きな隙が生まれる。『しくじり先生』などに出てきたほとんどの『転落を味わった講師』は、ほぼ全員この黄金律に該当する。
経済学の巨人と言われたガルブレイスは、1636年のチューリップ狂の経験以来、 何も変わらないある法則を見極め、こう言っていた。著書『バブルの物語』にはこうある。
『個人も機関も、富の増大から得られるすばらしい満足感のとりこになる。これには自分の洞察力がすぐれているからだという幻想がつきものなのであるが、この幻想は、自分および他の人の知性は金の所有と密接に歩調をそろえて進んでいるという一般的な受け止め方によって守られている。』
バブルが膨らみ、それが弾ける。こんなことが、ガルブレイスから言わせても、もう400年続けられているのだ。膨張(バブル)ではなく、成長していくことに神経を使いたい。勝って奢りが出ないような人は、相当な自制心がある人だけだ。むしろ極めて珍しいと言っていいだろう。私とて当然そういう奢った気持ちに支配された時期がある。そんな時『第24』の黄金律、
この戒めを理解する速度が、人間の運命を大きく左右することになるだろう。
そしてこの『金の所有』には『地位、名誉、財産』の全てが当てはまることになる。彼ら一発屋芸人たちの中で、(このまま右肩上がりでいけるに決まっている)と過信していた者たちは皆、別に普通だ。そう。ざっと考えただけでも実に400年以上も前から人間は同じ行動を取ってきたのである。そして残念ながら『普通』の人間では、超えられない壁というものがあるのだ。
そう考えた時、この透明のドラゴンの背に乗った者、あるいは首根っこを掴まえた者だが、彼らは縦横無尽にこの世の中を飛び回ることが出来る。ダウンタウンやとんねるず、ビッグ3、おニャン子やAKB等をプロデュースした秋元康、また、世間に名を知られていないだけで陰で暗躍する仕掛け屋等などは、まさにこの透明のドラゴンの首根っこを掴まえる才能があったのだと考えることが出来るのだ。
あるいは召喚する能力を持っていた。またはドラゴンの好物を知っているのだ。召喚成功率、手なずける率は100%ではないが、ドラゴンがどのようにすれば現れ、どのようにすれば烈火の炎を吐くかを、類稀なる研鑚された直感によって、掴んでいるのだ。だから一発屋の人間と比べて彼らの周りには、今も尚ドラゴンの片鱗が見られるのである。
ドイツの詩人、ゲーテは言った。
そこにも書いたが、『リヴァイアサン』とは、旧約聖書に出て来る海の怪物だ。
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イギリスの哲学者、トマス・ホッブズはこの怪物を、『リヴァイアサン=本性』という図式に当てはめて本を書いた。人間は元々、生存競争をして争いを繰り広げるのが、『自然状態』だという。しかし、あまりにも禍々しい人間の本性(リヴァイアサン)、その自然状態が見るのが嫌で、抗い、争うことの権利を政府に譲り渡し、その代わりに本人たちは安穏な日々を追い求めた。
国益を守るためには、攻防を繰り広げなければならない。しかし自分たちはノータッチだ。気づいたら政府が当たり前のように国を運営していた世代は、そんなことをすっかり忘れてしまった人間の姿に等しい。
脳科学者の茂木健一郎氏は、著書『挑戦する脳』で、このリヴァイアサンを『さまざまな価値観や秩序に縛られずに、自由に自分の行為を決定する主体』として説明し、このリヴァイアサン性を引き出して解放させた人間が、大きな結果を出していることに着目している。つまりここでも、ドラゴンを自由自在に操った人間の実力についての評価が行われているわけだ。
リヴァイアサンも透明のドラゴンも、実在する生物ではない。しかし間違いなくその存在を思わせるような圧倒的なエネルギーが存在していて、これらの圧倒的な力を借り、支配された(暴君と化した)人でも、それを譲り渡した(奴隷と化した、本来の力を失った)人でもなく、自分のものとした人間は、その凄まじいエネルギーを自分のものとすることができるのだ。
彼らトップ芸人に肩を並べる、かつて一世を風靡した視聴率男、島田紳助は、『紳竜の研究』というDVDで、こう分析している。
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成功する人間は、努力と才能の賭け合わせた値の大きい人間だ。才能についてはわからないが、努力は方法によって成功する確率は格段に上げられる。しかしそのためには、
『自分の戦力、自分に何が出来るか(=X)』と、『時代の流れ(=Y)』
を綿密に分析し準備してから戦わなければならない。そして売れるためには、XとYで交わるように仕組んでいく必要がある。しかし、たいていの芸人は、XもYもわかっていないまま悩んでいる。だから売れない。
でも時として売れてしまうことがある。やっていること(X)は変わっていないのに、Y(=時代の空気)は絶えず変化していくので、いきなりそれが合致してしまうことがあるからだ。そしてその方が出合い頭の事故なので、インパクトが大きい。でも、たいていの場合は、偶然の事故なので、本人も自分がなぜ売れたのかわかっていない。公式がないから、根拠がない。自分のXもYもわかっていないため、Y(=時代の空気)が移り変わると、必ず潰れてしまう。いわゆる一発屋になってしまうのだ。
長く売れ続けている人間は、自分の強み(=X)を必ずと言っていいほど軌道修正して時代の流れ(=Y)に合わせ続けている。だから、XとYの位置はいつも近い。なので、出会いがしらの事故(大ブーム)になるようなことはない。せいぜい接触事故。でも売れ続けることができる。
彼への評価は常に賛否が分かれるが、問題があるとしたら人間性だ。能力そのものだけを評価するならば、鋭いものを持っていたと言わざるを得ないだろう。この考え方は、まさにこの『透明のドラゴン』の心強い補足情報となっている。
私はこの島田紳助の話に影響されてこの記事を書いているのではない。確かにこれが書いてある本を買ったのはかなり前のことだが、内容を覚えているわけではなかった。自分の人生で考えを蓄積していった結果、『透明のドラゴン』の発想が浮かび上がってきたのだ。そして今、その島田紳助の話を思い出し、補足情報として引用しようと思った。すると、彼が私と同じように『透明のドラゴン』の存在にうっすらと気づいているようにさえ思える発言をしていたことがわかったのだ。
Y(=時代の空気)は絶えず変化していくので、いきなりそれが合致してしまう
それはまさに、背後に『透明のドラゴン』が降り立った瞬間を意味する。
松本人志は、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』にて、『松本は、本番30分前に楽屋に入り、ディレクターからの当日の説明は1分で終わらせ、浜田との打ち合わせも一切しないどころか、目も合わせない。そして、本番のステージで生まれる笑いに徹底的にこだわる。』と紹介されていて、事実、本人がこういう言葉を言っている。
『笑いは生き物ですからねえ。鮮度が大事やから。』
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この『生き物』の正体は、『流行(透明のドラゴン)』である可能性が高い。ではここで、『流行』の意味をwikipediaで調べてみよう。
Mode、Trend、Fad、Fashion:流行(りゅうこう、はやり)は、ある社会のある時点で、特定の思考、表現形式、製品などがその社会に浸透・普及していく過程にある状態を表す。後述。
松尾芭蕉の俳諧理論において、時とともに移ろうことを意味する。対義語は「不易」(いつまでも変わらないこと)。
これが『流行』の言葉の意味だ。つまり、『流動変化』しているもの。それは別に、ファッションや音楽だけではない。その現場、現場にてうごめいている『透明の生き物』なのだ。『不易』ではない。固定されていない。それに気が付いた松本人志は、まるで、
『台本なんていう固定されたもんに依存してどないすんねん。現場で俺らが相手にするのは、常に生まれ変わり続けている、流動変化するドラゴンやぞ。』
とでもいうかのように、本番のステージで生まれる笑いに、『鮮度』に徹底的にこだわるのだ。彼らのようにいつまでも大きなうねりを生み出す人間は、この『透明のドラゴン』の正体に気が付いているのである。
※追記:2017年3月10日の『ダウンタウンなう』で相方の浜田が言ったのは、
というものだった。彼らは別に、 『流行を追っている』わけではないらしい。『流行という透明のドラゴンを相手に闘っている』のだ。
そして実は、『少し違う印象』と書いたタモリも、
『一つ一つの放送は、生モノである。』
という考え方を持っている。要は、その一つ前の回がどのようなものだったかということは、あまり今回の『生モノ』には関係がないのだ。一つ一つすべての回が、違う作品であり、それで完成している。それは、長年番組をやってきた人間にしか理解できない境地だ。そしてタモリのあの名言が生まれた。
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その詳細は記事に書いたとおりだ。また、明石家さんまの名言に、
というものがあるが、この言葉にも同じように『現場は生モノ、笑いは生き物』という考え方が含まれている。今回がダメでも、また次がある。常に流動変化しているんだから、次に自分が上手くいく可能性は十分にあるのだ、と。だから絶対に落ち込まないのだ、と。
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実は北野武は、明石家さんまに『さんまのまんま』で、
とも言っているわけだが、それは現代の芸人たちが、この『透明のドラゴン』の存在に気づけていないからだと考えることが出来るのだ。島田紳助も秋元康も、人間性に対するその評価の賛否は分かれる。だが、この気まぐれなドラゴンは人間性を見て降り立つわけではない。それはつまり、人間がどれだけ誠実であっても、また馬鹿正直であっても、そのドラゴンを召喚、操縦できるとは限らないことを意味する。
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追記:2016年12月25日の『TVタックル』で、たけしは『大橋巨泉はテレビ創世記の人だった』と語った。ある意味様々な先駆者であり、時代を作った人だったと。そして続けて、王貞治、長嶋茂雄はメジャーリーグが有名になる前の時代であり、美空ひばりは演歌、石原裕次郎は銀幕の先駆者であったと語った。自分たちの芸人の時代は、扱われ方が最底辺であり、6組ぐらいの芸人が全てを回していた。しかし、それぞれが、言うなればその『最底辺(空白地帯)』から作り上げたことによって『カテゴリーのトップ』となり、時代を作ることが出来た。
そしてやはり、
と言った。つまり、ここに挙げたような『時代の寵児』たちは皆、『時代(流行)』という大きなエネルギーを借りたからこそ、大きなエネルギーを捻出できたと言ったのだ。
と言った。そしてまさにこの『時代の寵児』という言葉の意味は、『その時代の風潮に合った才能を発揮して成功し、人々にもてはやされる人』であるからして、まさにたけしは『時代の寵児になれるかどうか』ということを強く主張しているのである。そしてそれであれば、プロレス創世記の父、力道山もそうだし、銀幕スターの高倉健にも同じ力が働いていただろう。
ところが、『流行』というものは、透明のドラゴンであると同時に、『人』でもある。人がいないところに流行はないからだ。つまり、『人をないがしろにしては、人の持つエネルギーを動かすことはできない』のである。
この『生の命』というものは文字通り『生命』だ。人の生命であり、透明のドラゴンの生命。この、『生の命』を無視した行動を取ると、演者は『すべる』し、客は『置いてけぼり』にされる。ここで更に『第31の黄金律』、
の重要性と、その価値に大きく貢献した、彼ら日本のトップ芸人たちに焦点を当てて考えていこう。
透明のドラゴンの存在に直感的に気づいている松本人志は、確かに稀代の天才である。だが、そんな彼にも抱えている悩みがあるのだ。
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『プロフェッショナル 仕事の流儀』において松本人志は、
『ごっつええ感じで、松本人志の笑いが唯一無二に磨かれていくたびに、 やがて視聴者との間に乖離(かいり。距離)が見られるようになった。やがて視聴者は、こう言うようになってきた。
『松本の笑いは、難しい。』
そしと松本は、コント制作から身を置くようになった。』
と紹介されていた。松本は、
他にも、
という言葉を残していて、彼が、自分がその眼で捉えている的の正確さへの確信と、世間の理解力やニーズとの乖離について、どれほどの葛藤やジレンマを抱えているかがわかるが、一つ言えることは、松本人志のような天才的な才能を持っていても、『人をないがしろにしてしまっては、エネルギーを動かすことはできない』ということなのだ。
事実私は、彼の4本目の映画『R100』を観たが、『幅広い的』に焦点を当てた3本目と比べて正直、全く意味不明のB級映画だと思ってしまった。『あそこまで大々的にやって、ここまで期待させて、客のニーズをこれだけあっけなく裏切れるのは逆にすごい。やっぱり松本人志は浮世離れしている。』と思ったものだった。事実、私の部下に、そういう感想を話した。
NHKで放送されていた『MHK』もそうだ。久々に彼のコントが見れると楽しみにしていたが、蓋を開けてみたらなんだか『空回り』している感があって、見ていられなかった。その証拠にMHKは、世間にかつてのような爆風を巻き起こすことなく、静かに幕を閉じた。
確かに彼の毒々しい才能が発揮されれば、圧倒的なカリスマ性が発揮される。だが、それはある種の『諸刃の剣』で、彼は、自身の才能を発揮すればするほど、唯一無二で稀有な存在に近づくと同時に、世間一般の常識から乖離してしまい、『大空振り』をしてしまうことになるのだ。
松本が『ワイドナショー』で、『君の名は。』の映画が空前のヒットを巻き起こしたことについて、
と感想を発すると、自身のことを「ブスなOL」と名指しされたと感じた山崎アナウンサーが怒りの表情を見せた一件があった。だが、『そう感じた』だけだ。翌日のニュースでもそれ以上は掘り下げられなかったが、この一件は、別に山崎アナウンサーのことについて発言したわけではない。松本はその時も『現場の生き物』を最優先し、まるで『最初から山崎アナウンサーについて発言した』ということにしてもうひと笑い生み出してその場を収めたが、実際に彼が言いたかったことは、前述した、
ということだったのだ。
彼が『Yahoo!』が浸透したての頃、ナイツよりも先に番組で、
というキラーワードを言ったときは面白かった。
やはりそこに切り込むか!
と思ったものだった。まだインターネットの世界については、『2ちゃんねる』すらあまり触れられなかった時代だったから、それはとても『流行的』だった。だが、彼の頭に今もなお浮かぶキラーワードである『ギャートルズ等の昔のアニメ』や『森進一世代の歌手』のネタも、もう30代後半以下の人間には通用しなくなっている。それを押し通してしまえば、これから先に進むにつれ、間違いなく客は『置いてけぼり』になるだろう。
これらが『世界に通用する』のはどうしてだと思うだろうか。そこにあるのは、『世界の規格』だ。世界に通用する規格(あるいは吹き替えやカスタマイズが可能)であるからこそ、ここに挙げられた日本人や日本の文化は、世界で通用する。(くまだまさしは実際に世界で成功しているわけではないが、『水曜日のダウンタウン』での実験で、くまだまさしのネタが他の芸人に比べ、圧倒的にアメリカ人に受けたという結果が出た。)
実際、『PPAP』が世界でヒットしていることの原因を外国人に聞いてみたところ、
と言っていた。『第26の黄金律』、
にも記載したように、『シンプル』、『わかりやすさ』に徹することは、それだけより大勢の人からの賛同を得やすい。映画『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』では、登場人物が日本製のコピー機がうまく操作できずに苛立ち、
と愚痴を言うシーンがあるが、あれは行き過ぎた日本批判でも何でもなく、ただの『本音』だっただろう。まさに、松本人志の『難しい笑い』と同じ発想が、日本のガラパゴス化の根幹にある思想に根付いていることが垣間見えるシーンである。
1999年『電波少年』にて、松本人志は『SASUKE』という映画を作ってアメリカ人を笑わせにいったことがある。設定は、『留守番をしている少年のもとへ、ベビーシッターとして忍者がくる』というもの。そのとき、彼がそのコメディ映画で用意したものは、
だった。
『アメリカ人にわかりやすいもの』をふんだんに散りばめたその映画は、受けたり、すべったりの連続。しかし総合的には観客から、
というまずまずの評価を得ていた。『勉強になった』と言った松本は、このようにして、『世界の規格』を知らないわけではない。だがそれでも、
というのが彼の本音であり、曲げられない哲学なのかもしれない。
それから16年後、『ガキの使い』に取材しにきた海外の人間が、
と言うと、松本はこう言った。
スタジオは笑いに包まれた。もちろん、海外の人は『どうしてこんなクソ番組が』という意味で言ったのではないだろう。だからこそ、彼女らの番組で最初に取り上げる題材として、日本の『ガキの使い』をわざわざ選んで、取材しに来たのだから。
彼が『R100』を世に出したことは『傲慢』なのだろうか。
何かの『常識』的な話題になり、それについて把握していなかった時、客から『遅れてる』と嘲笑されたときに松本人志はそう言った。松本はそうしていつも『我が道を行く』ことで確固たる自分の地位を切り開いてきた。『第9の黄金律』、
にある通り、彼は『他と徹底的に違う』ことで競争優位性を確保し、圧倒的な地位を築き上げた。だが本人自身も、『遺書』を書いた時、今の年齢になったら、もっと違う舞台に立っていた自分を想像していたらしく、しかし現実は全くその理想と違うから、『夢が叶った』という実感が今でもないらしい。彼の『調教』が行き届いた一部の日本人は松本人志の笑いが『よくわかる(わかろうとして深読みをする)』が、その他の人や外国人らはそれをしないため、彼の笑いが理解できない。従って、『松本人志の笑いの浸食』の成長は、『どちらかが』合わせない限り、青天井ではないのだ。天才松本は今もなお『自分の哲学の追求と世間の受け』に対するジレンマを抱えているように見える。
乖離ということで言えば、タモリもそうだ。
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タモリはそう言った。それはタモリが、『第25』の黄金律、
を理解しているからだ。自分のものにできない知識を、さも自分の知識のようにひけらかす浅薄な人間が歪んで見えるわけで、名言自体には敬意を抱いている。例えばそれがわかるワンシーンがこれだ。
俳優の松坂桃李の名前は、司馬遷の、
から来ていて、『ヨルタモリ』で松坂桃李が、『桃や李(すもも)の木のように魅力あるところには、人が集まるという意味から、そういう人物になってほしいという親の願いが込められている』という話をすると、タモリは、『司馬遷』という言葉を聞いた瞬間に、その引用元である司馬遷の言葉を言い当てたシーンがあった。タモリの博識ぶりが垣間見えるワンシーンだったわけである。
この時点で既に『浅薄な人(知識を自分のものにできていない人)』とタモリとの間には乖離が見られている。ただ知らないだけなら子供などほとんどがそうだからいいが、大人が恣意的かつ意図的に浅薄であることは、大人が負うべき責任について無責任であるからして、タモリはまるでその乖離した距離を、上から下に見下ろすかのようにして、嫌悪感を抱いているのである。
また、同番組でウイスキーの話になり、『上等なウイスキーは、居酒屋で飲めるようなウイスキーと比べて全く癖がなく、くいっと飲めてしまう』という話から、
と言っていたが、これは、昭和時代の『陰の御意見番』と言われた日本の思想家、安岡正篤のこの言葉と同じ的を射ている。
『人間が人間たる意義を求めるならば、まず敬するという心を持つことである。人間が現実にとどまらないで、限りなく高いもの、尊いもの、偉大なるものを求めてゆく、そこに生ずるのが敬という心である。この敬の心が発達してくると、必ず相対的に自分の低い現実を顧みてそれを恥ずる心が起こる。人間が進歩向上する一番大切なことは敬する心を発達させることであり、それによってはじめて恥を知ることができる。』
また、同じく天才漫画家、手塚治虫もこう言っている。
また、『笑っていいとも!』では、
という発言をする度に、その真意を理解出来ない若い人間に何度も反論されて首を傾げられ、タモリだけが偏屈なジジイに見えてしまい、終わってしまうこともあった。『第22』の黄金律、
について理解できていない人間とは、乖離が生まれるわけだ。更に、タモリが大喜利として人の名前を書くときに『渋沢栄一』と書いたところ、さまぁ~ずの三村が、
と例のツッコミを入れ、笑いが起き、誰一人渋沢栄一がどんな人物であるかに触れないまま番組が進行されていったことがあった。まるでタモリが『架空のおじさん』の名前を書いてふざけたような雰囲気になっってしまった。会場にいる(おそらく)誰一人として、それが誰なのだか理解できなかった。
などのキーワードは知っていても、その設立に携わった、伊藤博文、勝海舟らと共に活躍した日本資本主義の父、渋沢栄一のことを知らなかったのだ。(私もこの少し前に知ったのだが)
だがタモリは、渋沢栄一がどのような人物であるかを説明することはなかった。タモリが(この番組は『笑っていいとも!』なのだ)と自覚していたからなのか、松本のように『現場の生き物の気配を最優先した』からなのか、理由はわからないが、タモリもまた自分の実力と世間との間には乖離があるということをよく理解していただろう。そして、その乖離を微調整することの重要さをわきまえていた。
アニメ界の巨匠、宮崎駿も考えていることはとても難しい。明らかに世間との乖離がある。
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例えば、
この発言はどうだ。また、『有機水銀分解菌と『風の谷のナウシカ』』の関係性について人々はどれだけ知っているだろうか。『もののけ姫』に秘められているメッセージがどういうものだか理解している人はどれだけいるだろうか。
宮崎駿、高畑勲らとスタジオジブリを支えてきた名プロデューサー、鈴木敏夫は言った。
このようにして、彼も間違いなく識者であり、天才的である。だが、なぜ『世間との乖離がある』はずの彼の作品が日本の映画興行収入(邦画)のトップ3を占めるのだろうか。それは、彼のメッセージを伝える手段が『アニメ(わかりやすいもの)』だからである。
そして、『わかりやすい』だけではだめだ。彼の息子、宮崎吾郎の処女作『ゲド戦記』は、コアなジブリファンからすればとても見れたものではなかった。まるで、表層だけ『ジブリっぽさ』で塗り固めて中身が空洞の、無機質なものを見せられているような虚無感があった。
彼は当時、宮崎駿に、
と言われていたらしいが、自分の力を過信し、父の実力を見誤った結果が、あの作品だったのである。彼も天才の息子として生まれたことに、常に悩まされてきた。だが、やはり圧倒的な基礎・土台を積んだ人間が生み出す物との差は、雲泥だった。これはまさしく『第27』の黄金律、
に該当する話である。
宮崎吾郎はのちに、
という発言をしている。自らの手で挑戦してみて、現実を理解したのである。もちろん彼とて、父親以上の努力を積み重ねれば、父親を超えることだってできる。ジブリファンはみんなどこかで、密かにそれを願っているのである。
ちなみに、元スタジオジブリの米林宏昌の作品、『借りぐらしのアリエッティ』と『思い出のマーニー』は私はとても大好きだ。800本以上観てきた映画の中で、私は個人的に『思い出のマーニー』を『心に残った映画の2位』にランクインさせている。私はてっきり、彼が宮崎駿の跡をつぎ、ジブリをけん引していくのかと思った。
彼の作品『思い出のマーニー』が米アカデミー賞の長編アニメ部門での受賞を取り逃がしたとき、日本で『当たり前だろ。』という書き込みをされていた。私は
この作品の真の価値を理解できている人がどれだけいるのか
と、心の中ででつぶやいた。
『ポスト宮崎』と言われる細田守(サマーウォーズ、バケモノの子等)、新海誠(君の名は。等)はどうか。まず細田だが、スタジオジブリに入社希望をした細田に、宮崎駿から、
と書いた手紙を貰ったが、『雑用係でもいいから入れてください』とジブリに電話をすると、
と言われたという。宮崎駿は天才が故に見識があり、天才の才能を埋没させる前に『前始末』をしたのだ。『第34』の黄金律。
を理解している人間は稀有だ。
また、新海誠は「ヒットメーカー・オブ・ザ・イヤー 2016」のグランプリに選出されたときの表彰式のトークショーで、観客から「ポスト宮崎駿といわれること」について聞かれると、
と笑顔で語った。さらに、
と明かし、
と心境を明かした。
これについては、漫画界で圧倒的な地位を築き上げた『ワンピース』の著者、尾田栄一郎が、同じく伝説的漫画家、鳥山明の『ドラゴンボール』について同じようなことを言っている。
尾田栄一郎から見る鳥山明。新海誠らから見る宮崎駿。もちろんそれはまず『先駆者』であり『先輩』に対する尊敬の気持ちがそこにある。だが、それでも彼ら天才が『見上げた』存在というのはそう多くはなく、その対象に彼らの存在があるのだ。
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藤子不二雄A(忍者ハットリくん、パーマン、怪物くん等)、藤子・F・不二雄(ドラえもん等)、石ノ森章太郎(サイボーグ009等)、赤塚不二夫(天才バカボン等)といった才能ある人材を育てたことでも有名な、天才漫画家、手塚治虫の言葉を見てみよう。
彼もまた天才が故に世間一般と明らかに『乖離』している。『ブラック・ジャック』で訴えたいテーマは何か。『ブッダ』をどのような気持ちで描いたのか。単なる物好きであればあのような作品は創れない。しかし、彼のメッセージを伝える手段が『アニメ(わかりやすいもの)』だったことで、彼は『天才漫画家』として世に名をはせることになった。
手塚治虫の教え子たちも含めた、ここに挙げたクリエーターたちは皆、稀代の天才達だ。だが、その難解なはずの彼らの思想がこうも世間に広く広まったのは、彼らの表現方法が『わかりやすいもの(漫画・アニメ)』だったからだ。『有機水銀分解菌と『風の谷のナウシカ』』の話を知っている人はごく少数しかいないだろう。その理由は、『それをアニメにしていない(わかりやすく説明していない)』からだ。
北野武もそうだ。
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たけしは間違いなく圧倒的な地位にいた。だが、様々な伝説的番組を経て、それが終わっていくのと足並みをそろえて、徐々に彼の芸風と世間との間の乖離が見られるようになった。フランスでは、黒澤明以来2人目となる、最も古い歴史のある最高勲章「レジオン・ドヌール勲章」が授与され、高い評価を得ているたけしだが、日本の若者には、
などという冷めた意見が出てきていて、私自身も彼の話を見ていると、高齢でろれつが回らなくなって聞き取りづらくなったこともさることながら、『テロップ』なしでは理解できないような難しい話を喋りつづける様子から、
この話をどれだけの人が説明なしで理解できるのかなあ。なんか、たけしは『置いてけぼり』にする感があるなあ。
と思ったものだった。それは良い意味でも、悪い意味でもだ。たけしは本当に頭がよく、人生経験も豊富なので、視聴者との間にはそうでなくても差が生まれてしまっている。かつ、『自分が好きな』ベタな芸風があって、それを曲げずに、年下世代や、時代に媚を売らないことから、徐々に世間一般との間に乖離が生まれ、時代の流れとともに、淘汰に追い込まれつつある印象を受けるのだ。
彼の映画、『BROTHER』や『その男、凶暴につき。』を観た時、私はまだ子供だったが、この作品を通して、たけしが『単なるエロ番組の司会のスケベじじい』じゃないことがわかった。
この人、こんな価値観を持っているんだ。
と思わされたものだった。
それなのに、そういう本性をあまりテレビで出してるのを見たことがないなあ。
子供ながらに、そう思ったものだった。その後しばらくして、
などを観た。これらの作品に秘められている『儚さ、切なさ、尊さ』というものは、決して空虚な人間には生み出せるものではなかった。
だが、彼の作品の中に『TAKESHIS’』というものがあり、彼は、
と自分でも言っているが、その通り、私が観てもその意味がよくわからなかった。『R100』同様、『置いてけぼり』にされてしまったのだ。
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尾崎が福沢に、
と話したところ、福沢は、
と一喝した後、こう言った。
福沢諭吉は『乖離の弊害』に気づいていて、まさに、たけしはここでいう『尾崎行雄』になってしまっている印象がある。
しかし、実はたけしはこう言っているのだ。
どうやらたけしは、『(乖離していることが)わかっていてやっている』ようだ。たけしは言った。
この『流れ』を知っているたけしは、その流れに乗ることの馬鹿馬鹿しさを知っている。例えばたけしは、所ジョージやゾマホンらと協力し合って、広告を一切使わないで、ベナンの子供達の昼食を、余裕のある日本人に寄付してもらい、賄おうというアクションを起こした。特番で少し放送して、後は広告費を一切使わない。そういうことをすると、お金が広告会社だとかテレビ局等に流れて、本来の『子供達への寄付金集め』という目的にズレが生じて来る。そう考えたのだ。こうした彼の活動に着目できている人はどれだけいるだろうか。彼は、『世間と乖離しているからこそこういう活動が出来ている』のだ。
また、ずっと引っかかっているのは、たけしと所ジョージが東日本大震災のときにした寄付金、『1,000万円』という金額だ。これは、大後輩であるサンドウィッチマント同じ金額。レディー・ガガなどは3億円を出しているが、海外のこうした寄付に純粋にかかわり、芸能界の大御所の位置にいるこの二人のボス的存在が合わせてその値段というのは、何か意味があるように思えてならない。
※未だにこの真相はわかっていない。明石家さんまは寄付をしていないと公言しているし、鳥山明や尾田栄一郎はイラストでの応援。寄付に関しては、それぞれの考え方があるだろう。
一つ言えることは、『『ナスカの地上絵』は、上空からしかその実態を把握することはできない』ということだ。
『乖離して何が悪いんだ。』、『俺は世間の流れなんかに流されない。』、『自分の信念を貫くことより大事なことなどない。』
人の評価や世間の意見に惑わされない人間は、『第14』の黄金律、
の意味をよく理解している。もしかしたら彼も松本と同じように、自分の哲学と世間の受けのどちらを取るかというジレンマを抱えていて、松本同様、『哲学の方を取っている』のかもしれない。
また、数十年前の映像を見て分析すると、たけしは『自分の流儀』を当時からあまり曲げていない印象を得る。その流儀が、時代に合っていたからたけしは大成功し、今、『乖離を感じる』のは、たけしが『衰えた』わけではなく、ただたんに『時代が流れた』ということなのかもしれない。
それに比べて明石家さんまは、常に最先端の流行の話題やキーワードを率先して使って、時代の波をうまく利用している様子が見受けられる。もしかしたら、さんまが常に若い女性と交際をしようとするのは、常に最新の時代の波をキャッチするためなのかもしれない。
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さんまは、客や視聴者がわからないと思うような話はあまりしない。したとしてもわかりやすく説明し、客を『置いてけぼり』にしない。さんまは千原ジュニアとの対談で、
と言っているが、彼はストライクゾーンの広い直球を投げることの強さをよく理解している。彼は『世間との乖離』を避け、『わかりやすさ』に徹している。なぜなら、『より大勢の人を笑わせる』ということが、彼の哲学だからだ。だからこそ彼は常に最前線で走り続ける(流動変化する時代の波に乗り続ける)ことが出来るのだ。
彼の有名な名言であるこの言葉は、師匠である笑福亭松之助との雑談の中で生まれた言葉だと、2016年4月10日の『さんまのまんま』で明かしていた。松之助が、仏教の宗派の一つである『禅』の教えについて説くことが多かったらしく、
という言葉も、この時の雑談の中で発想されたものである。その禅の教えとはおそらく『本来無一物(ほんらいむいちもつ)』だと言えるだろう。これは『第8の黄金律』、
と同じ的を射ている。ちなみに、さんまの娘である『IMALU(いまる)』という名前は、この『生きてるだけで丸もうけ(い、まる、が含まれている)』から取って命名された。 また真偽は不明だが、『1=いまる、2=にちか、3=さんま、4=しのぶ』として、家族の名前を数字で並べられるようにしたとも語られているが、大竹しのぶは『今を生きる(い、まる、が含まれている)』から取って、『いまる』と命名したと述べているようである。
実は、この『いまる』という名前、そのどちらの主張を考えてみても『禅の教え』に接触していることになる。
『歳月不待人(さいげつひとをまたず)』
その意味はこうだ。
『今日という一日は二度と帰ってきません。やる気が起きず、ダラダラと過ごしてしまうのは、確実に明日があるという思い込み。『今』を大事に生きることです。』
これはまさに、『第3の黄金律』、
と同じ的を射ている。そして、『生きてるだけで丸儲け』も『今を生きる』も、結局は『今を全力で生きる』という意味で共通している。後者はそのままだし、前者は、まずくよくよしているような人がその場にいて、
『でもお前、生きてるだけで丸儲けやぞ。不治の病や不慮の事故、不可避の天災で亡くなった人もおんねん。でもお前はこうして生きてるやないか。』
と奮起させてくれているわけだ。すると、
そうか。確かに生きてるだけで丸儲けだ。昨日に何があったとか、明日になにがあるかわからないとか関係ない。今日を全力で生きよう!
という結論に至るわけである。
そして、この『今(ナウ)』というのは、『現在、時代』、そして『流行』という意味でもある。Twitterの普及で再び使われるようになった『なう』というのは『今』だ。1970年代に流行した『ナウい』、その対義語は『ダサい(遅れてる)』という意味であり、ナウいの意味は『イケてる(流行を掴んでいる)』という意味。
彼が常に『今を駆け巡る流行という透明のドラゴン』の背に乗って縦横無尽に飛び回ることが出来るのは、彼が『今』を全力で生きているからだ。彼もまたこの『透明のドラゴン』の存在に直感的に気づいている稀代の天才の一人である。そして同時に、彼の哲学の中に『ブッダ』の教えが潜んでいると考えたとき、彼が異彩を放つ理由もうなづけるのである。
また、ここに挙げたトップ芸人たちは皆、何かしらの『窮地』を味わったことのある人間だ。貧乏、借金、人間関係。それが『いわゆる平凡』の形ではなかった。だが彼らは屈しなかった。むしろ、その負のエネルギーを逆に正のエネルギーに転換させたのだ。『第1』の黄金律、
自分のものにしたのだ。
確かに『流行』も、『真理』の中の一つとして数えることになるだろう。人がいる限り流行が生み出され、そしてその流行は廃れていくことは、真理だからである。だが、この流行というエネルギーは、まるで『真理という母体』と『別行動』を取る、あるいは一時的に爆発して弾ける、『太陽フレア』のようなものである。
太陽で発生している爆発現象のこと。
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さしずめこのフレアは『ドラゴンが吐く炎(フレア)』だ。ここで挙げた者たちは、まさに『スーパーフレア』級のドラゴンの爆発的エネルギーを自分の味方につけた、稀代の天才たちなのである。
人間が鍛錬して磨いた技術、あるいは磨き上げた剣の実力は、もちろん目を見張るものがある。称賛に値するのだ。特に彼らのような天才が作り上げるものはすごい。常識を超えていて、浮世離れしている。だからこそ頭一つ抜きんでることが出来るし、他の追随を許さない。『第38』の黄金律、
を重んじた彼らは、間違いなくその圧倒的な力を手にすることになった。だが、架空だが地上最強の生物である『ドラゴン』の圧倒的なエネルギーを前にしては、もしかしたらその力は遠く及ばないのかもしれない。ドラゴンに逆らえば大きな代償を払うことになり、そして同時に、もしそのドラゴンの力を借りることに成功することが出来ても、そのドラゴンがいつまでも自分の味方をしていると思い込むことは、人間の過信であることを悟る必要がある。『第35』の黄金律、
にあるように、人間の力を過信し、傲慢不遜に陥った人間は、必ず転落する。一つだけ言えることは、人間がこの世界で大きなエネルギーを生み出すためには、この『透明なドラゴンのフレア』を考えることを、避けて通れないということだ。だが私は、それがわかった上で、あえてドラゴンに屈さないという、人間の矜持(プライド)がとても好きである。
これこそは『第10』の黄金律、
であり、『第11』の黄金律、
なのだ。そしてもしかすると、そういう誇り高き人間(唯一無二の命を生き貫く覚悟を固めた人間)にこそ、ドラゴンは味方するのかもしれない。