・NEXT⇒(忠実な人間にだけ与えられる威厳)
・⇐BACK(はじめに)
Contents|目次
という映画を通し、この事実について熟考していきたい。これらを全て、『神は、”ある”』、そして『真理=愛=神』だという風に解釈すれば、全てつじつまが合うようになっている。まずは『エクソダス 神と王』についてだ。
主人公であるモーセは、キリストよりも1300年前に生まれていた人間であり、歴史上では『神の代理人』とされているわけだが、そのモーセが、作中で『神』と出会い、そしてその子供の姿をした『神』は、こう言ったのだ。
もう、ものの見事に、こう言い放った。『いる』ではなく、『ある』と言ったのだ。そう字幕がついた。そして事実、聖書にもこうある。
『イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』(出エジプト記3章14節)
ちなみに神の名前はヘブライ語で『ヤハウェ』であり、意味は『いつもそこにいるもの』である。
この映画では、シナイ山で頭を打って意識が酩酊したモーセが、子供の姿をした神を名乗る者と会話をするようになった。そしてモーセは、その子供の姿をした神と話をし、 奴隷となっているイスラエル(ヘブライ)人を『エクソダス(脱出)』 させるように告げられる。
モーセは最初、全く神を信じない派だった。どちらかというとそういうことを信じる人間を、批判的な目で見るような現実主義的な人間だった。しかし、そんなモーセの前にその子供の姿をした神は現われたのだ。最初は信じなかった。だが、ことごとくその者の言う通りの現実が起こった。すると、モーセはその者の話を聞かざるを得なくなってきた。
モーセがその者と話をする。だが、それを傍から見た人間には、神の姿は見えなかった。モーセが山の方に向かって、何かを叫んでいるような光景が見えるが、モーセが見えている子供の姿をした神が見えないのだ。だから、周りにはモーセが独り言を言っているように映っている。あるいは、モーセが神と話が出来る預言者のように映っているのだ。
もちろんこれは映画の話だ。そしてモーセ自体も、本当に実在したという確固たる証拠はない。だが、この『モーセの十戒』の話は非常によくできていて、これは無宗教である私の目から見ても、確かにその通りだとうなづけるものばかりである。
[モーセの十戒(レンブラントの絵画)]
※モーセの十戒。ここには異なった訳を入れて11個掲載。
だが、『モーセの十戒』で一つ引っかかるのはこれだ。
そもそもが、『神』の実態がわからないのだ。それがいるのかもわからないし、どういうものなのかもわからない。だからこそこの世にはこれだけの宗教が乱立していて、人々の思想は混沌としているのだ。しかもそれが、『神は唯一なのだ』というのだから、ここで思考放棄する人が続出するのである。しかし、もしこの『神』が、
『神=愛=真理』
という図式で間違いないのであれば、それは、
に書いた様に、偶像を作ることも、2つ存在していいわけもなくなってくる。一つしかないもの。それが『真理』だからだ。もし、『神は、”ある”』であり、『神=愛=真理』なのであれば、これらのあらゆる宗教の掲げる『神』という難解な実態が、徐々に輪郭を現してくるようになる。
ではここで、『モーセの割った海』のイメージを画像で見てみよう。
恐らく、多くの人の頭にイメージされるのは、こういう光景である。Exciteニュース(2014年12月13日)にはこうある。
“割れた”とされる「葦の海」について、紅海だとする説が一般的だったものの、これは誤訳によるものであり、実際はナイル川デルタ(三角州)北東部に存在したタニスという都市付近にできたラグーン(潟湖)であると考えた。
その上でドレウス氏は、様々なデータを用いて当時の地形状況や気候をコンピュータモデルで再現。東から強烈な風を吹かせると、嵐のようにラグーンの水面が波立ち、海水が西へと追いやられることを確認した。時間にして4時間程度だったという。また19世紀後半、エジプトに軍事介入した英国軍の記録にも、現地で強風が吹きラグーンの水が完全に無くなっていたとの記述が見られるという。さらに同様の現象は、エリー湖(北米大陸五大湖のひとつ)などでも観測されているとした。
ドレウス氏の研究は、モーゼが”海を割った”エピソードが史実かどうか証明するものではない。しかし奇跡と思われた現象が、特定の条件下によって発生し得るということを明らかにした。来年1月30日、モーゼの活躍を描いた大作映画『エクソダス:神と王』も公開されるようだが、彼が”海を割った”エピソードを、完全なフィクションと言い切ることはできないのだ。
確かにそういう自然現象的な事実があり、モーセが海を割ったという伝説が作られたのかもしれない。その他にも、『天橋立』のような砂州があっただとか、この話には様々な論説がある。だが、『伝説』ということで言うのなら、私はこういう話が合ってもつじつまが合うのではないかと考えるのだ。下記の画像をご覧いただきたい。
ここにあるのは、まるで『モーセが割った海』と同じような光景だ。私はこの画像を見た時、妙な違和感を覚えた。この画像が、モーセのその伝説と、無関係ではないような気がしてならなかったのだ。
だが、一体どのような関係性があるのだろうか。ここで考えるべきキーワードは、以下のようなものである。
まず、『歴史』という概念を持っていなかったルカだ。
聖書を徹底的に読む中で、歴史の切迫した事情によって意図的に除外された重要な真実に気づき、宗教学者として、キリスト教が発足する前のイエスの実像に迫る研究を20年近く続けた、レザー・アスランの著書『イエス・キリストは実在したのか?(Zealot the life and times of jesus of nazareth)』にはこうある。
つまり、『聖書や福音書に書いてある内容は、事実とは異なるものが記載されている』ということ。また、リンク先の記事にも書いた様に、ルカは、現代世界の私達が言う様な『歴史』という概念を持っていなかったのかもしれない、という事実があることに注目したいのだ。
そして、そのルカが息をしたよりも遥か1,300年も前に起きたモーセのこの逸話。その話が、本当に『真実をそのまま表現されたもの』なのかということは、首をかしげざるを得ないわけだ。つまり、『モーセが海を割った』という話は、『何らかの比喩』であると考えることもできるはずなのだ。
ここでカギになるのが、『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく』という事実についてだ。
この、迷路のような絵。それはまるで、『答えがわからない、解決策がわからない、混乱している』というようなことを指し示しているようにも解釈できるわけだ。事実、この映画でもモーセが直面するシーンは、当時の人間からすると解決が極めて困難であるということがわかる。どのように解決をすればいいかが、普通に考えているだけでは全くわからないのだ。
だが、その中で、一本の道がスッと目の前に現れた。まるで、見つからなかったパズルの最後のワンピースが見つかったかのような、わからなかった数式の答えが見つかったかのような、そういう感覚に似ているものが、スッと目の前に『答え』として現れたのだ。
これを、奴隷とされていたイスラエル人を助けたモーセの話と照らし合わせて考えてみる。すると、まず最初に『奴隷扱いされているイスラエル人の問題』という難解な問題があった。
それをどのように解決すればいいのか、この完全に常識として蔓延している奴隷制というものは、本当にあるべき姿なのか、等という問題の答えがわからずに、人々は頭を抱えていて、お手上げ状態だった。それが、まるで迷路で道に迷ってしまい、出口がわからなくなってしまった状態に、とてもよく似ているのだ。
だが、モーセという人物が『神(真理・愛)』に照らし合わせた解決策を見つけ出し、それをその問題に当てはめた。すると、何とその問題が解けたのだ。複雑だったはずの迷路において、出口へとつながる道がハッキリとそこに現れたのだ。
私はこの絵が、モーセが『神(真理・愛)』の力を借り、複雑だった問題を解決し、道を切り開いた、という絵に見えてならないのだ。
では、海の絵を見てみよう。
この『割れた海』の話も、この話と同じように考えることが出来る。もしこの海が、『目の前に突き付けられた難透難解(なんとうなんげ。非常に難しく解きがたいこと)な問題』ということの『比喩』なのであれば、その問題を『神(真理・愛)』の力を借りて解決したモーセは、まるで『難透難解な(割れるはずもない)海を割った救世主』だという風に表現することが出来るのだ。
つまり、このモーセという人物は、『神のお告げを聞き、イスラエル人をエジプトから脱出させ、数々の奇跡を起こし、十戒をまとめた預言者』というよりは、『神(真理・愛)』の力を借り、人々が頭を抱えた難透難解な問題を解決した、見識ある人物』だという風に解釈することが出来るのだ。
聖書にはこうある。
『モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は渇いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の渇いたところを進んで行き、水は彼らの右と左に壁の様になった。』(出エジプト記14章21~22節)
真実のところはわからない。これが事実なのか、比喩なのかどうかも明確にはわからない。
だが、もし、『神は、”ある”』であり、過去の人に『歴史』という概念がなく、この話が『比喩』なのであり、『神=愛=真理』なのであれば、彼の存在も、彼が行った数々の奇跡的な事実の話も、彼がまとっている計り知れないオーラにも信憑性が出て、様々な問題につじつまが合うことになる。
つまりモーセは、『神のお告げを聞いた』というよりは、『人は絶対に死ぬ、などという圧倒的な真理の事実を真正面から直視し、その真理という原則に則って物事を推進させいった人物』と解釈するのだ。『神=愛=真理』なのであれば、その『真理に忠実になった』ということは、別の言い方で『神に従った』ということになる。そしてそこには『愛』があり、人々の喜びがあった。
『真理=愛=神』だ。つまり、これらは全て同じものの可能性が高いのだ。何よりこれらは三つとも、『ここから逸れれば虚無に陥り、近づくと心に充足を覚える』という共通点をもっている。特定の人がそこに神様の存在を感じる(神様という支配者に『救われた』と感じる)と思うのは、まるで奇跡を体験した(間違いなく自分たちが考えられるようなものではない、自分たち以外の何かの力が働いた)かのように、心が充足する(温まる)のを覚えるからなのだ。
しかし恐らくそれは『神様の仕業』ではない。なぜなら、特定の人物の利益を満たす為だけに存在する神様など、人間の創り出した虚像だからだ。もし神様という人格神がいると仮定した場合でも、その人は絶対に人間(特にその特定の人物)だけの味方ではない。人が食べるため、着るために殺生され、人のために実験される動物、踏みつぶし、埋め立てて殺す昆虫、伐採する植物、目に見えない小さな生命を含めた、生きとし生けるものすべての味方であることはもちろん、
それ以外の万物すべての味方であり、決して人間だけのために存在しているのではない。この決定的な事実を直視できない視野の狭い人間本位な人間には、どちらにせよ『神(創造者)』の名を語る資格はない。
我々は、この『法則』に触れるか、触れないかということで、心が『充足』したり、あるいは『虚無』に陥るようになっているのだ。『神様』がいるのではない。まるで、暖炉に近づけば暖まり、離れれば冷えていくように、人間がそこに近づけば心は『充足』し、そこから逸れれば心は『虚無』になるのだ。
その法則は目に見えない故、人々はそれを各自で独自解釈し、『真理』と言ったり、『愛』と言ったり、『神』と言ったりしている。しかし実際には、人々はこれらが『何であるか』を正確に言い当てることができないし、未だにその全容も理解できていない。何しろこれらは目に見えないし、形をもっていないからだ。それにこれらは全て、人間が創り出した言葉であり、だとしたらその信憑性は低い。したがって、これら三つの『異なった的を射たはずの言葉』が指し示すものは、もしかしたら『同じもの』の可能性がある、ということは否定できない。
ゴッホは言った。
『真理=愛=神』。この三つの共通点はこうだ。
もちろんこれらが同じものであるという確率は100%ではない。だが、ここまでこれらの共通点が一致するものは他にはなかなかないのだ。この法則に触れ、
[16世紀に描かれた、風呂に入ったアルキメデスのイラスト]
神は、『いる』のではなく、『ある』のだ。それならば、無宗教を誓う私であっても、納得出来るのである。
だがモーセには前述して見えてきたような『完全なる識者』の一面だけではなく、『闇』の部分もある。9.11を経て、宗教についての疑問を爆発させた、『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』にはこうある。
モーセは、神が十戒を書き記した石板を手にもって、大急ぎで山を駆け下った。麓に到着し金の子牛を見たとき、彼は怒りに燃えて石板を投げ打ち、砕いた(神はのちに代わりのものを彼に与えたので問題はなかった)。※金の子牛は『偶像』である。モーセがそれを見て激昂した。『十戒』に逆らっているからだ。
モーセは金の子牛をつかみ、火で焼いて粉々にすりつぶし、それに水を混ぜ、人々にそれを呑み込ませた。それから、聖職者の部族でありレビに属するすべての人間に対して、剣を執り、できるかぎり多くの人間を殺すようにと告げた。殺された人間の数は三千にも達し、これだけ殺せば、嫉妬に駆られた神の不機嫌をなだめるのに十分ではなかったかと思う人がいるかもしれない。
しかしちがった。神はそれだけではすまさなかった。この怖ろしい章の最後の一節で下された最後の一撃は、『民が子牛を、アロンにつくらせたから』という理由で、残った々に災厄をもたらすことだった。
『民数記』は、神がモーセにどのようにしてミディアン人を攻撃するように仕向けたかを述べている。彼の兵たちは、あっという間に全ての男を虐殺し、ミディアン人の全ての町を焼いたが、女と子供は殺さなかった。部下の兵たちがこのように慈悲深い自制をはたらかせたことにモーセは激怒し、すべての男児と、処女でないすべての女を殺せと命じた。
『女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい』(民数記 第31章18節)
いやだめだ。モーセは現代の道徳家が推奨する偉大なロールモデルなどではなかった。
ここで私の言う『神=真理=愛』という法則的な概念と、聖書が指し示す『神(ヤハウェ)』は様相が異なる印象を得る。例えば、『嫉妬する』という事実だ。もちろん私の見解のように、聖書の話をすべて『たとえ話』とするのならまた違った見解が持てるが、実際にその『嫉妬』によって、3000人以上の人が殺されてしまったというのであれば、話は変わってくる。
ただし、これも『正しいのは『神(愛・真理)であって、モーセではない』と考えるなら、一応、この『モーセはロールモデル(規範)ではない』という事実は、つじつまが合う。そう仮定した場合にのモーセの誤謬(間違った判断)の例は、ほかにもある。
イスラエルの人々が安息日に1人の男が荒野で薪を集めているのを見つけた。彼らはこの男をつかまえ、どう扱うべきか神に尋ねた。ことの次第がわかると、神はその日、生半可な処置で終わらせるような気分になかった。
『主はモーセに言われた。その男は必ず殺さなければならない。全会衆は宿営の外で彼を石で撃ち殺さなければならない。そこで、全会衆は男を宿営の外に連れ出し、男を石で撃ち、彼は死んだ』。
この薪集めという無害なことをした男には、彼の死を嘆き悲しむ妻や子はいなかったのか?最初の石が飛んできたとき、彼は恐怖ですすり泣き、一斉射撃が彼の頭に加えられたとき、痛みで泣き叫びはしなかっただろうか?
このような物語が、現在の私に衝撃を与えるのは、それが本当に起こったからではない。おそらく実際には起こらなかっただろう。私を愕然とさせるのは、現在でも人々が、ヤハウェのような恐ろしいロールモデルを生き方の基盤にしているということであり、こちらはもっと始末に負えないことだが、彼らがその同じ邪悪な怪物(事実で在れフィクションであれ)を、残りの私たちにも居丈高に押し付けようとするにちがいないことである。
ここでもまた、『偶像崇拝をした人間への制裁』同様、『安息日に仕事をした人間への制裁』について、怖ろしい描写で描かれている。これを実際にモーセがやったのなら、モーセはロールモデルでも何でもなく、単なる殺人者だ。
だが、注意したいのは、ドーキンスが『おそらく実際には起こらなかった』と言っているところである。それはこの話が『フィクション』である可能性を示唆している。それならば、『偶像崇拝をした人間への制裁』の話も、『海を割った話』も同様にその可能性があるに決まっている。わかっているのは、『正しいのは人間ではない』ということだ。(追記:ここまで)
・NEXT⇒(忠実な人間にだけ与えられる威厳)
・⇐BACK(はじめに)