・NEXT⇒(もしイエスが神(真理・愛)と一体化していたなら)
・⇐BACK(忠実な人間にだけ与えられる威厳)
ゲーテは言った。
映画『インターステラー』の話で、『愛も、真理や神と同様、時間と空間に支配されることがないもの』ということはわかった。では、以下の様な話を考えた時、それはどう説明できるだろうか。
『第23の黄金律』から、以下の記事を引用して考えてみる。
ナチスの強制収容所に収監され、人間の想像を絶する3年間を過ごしたドイツの心理学者、ヴィクトール・E・フランクルの著書、『夜と霧』にはこうある。正直、これ以上の『この世の地獄』は考えられない。日本の原爆の被害同様、ホロコーストという史上最悪の現実に、全神経を研ぎ澄ませ、目を向けてみよう。
アウシュビッツでの第一夜、わたしは三段『ベッド』で寝た。一段(縦が2メートル、幅は2.5メートルほど)のむき出しの板敷に9人が横になった。毛布は一段、つまり9人につき2枚だった。言うまでもなく、わたしたちは横向きにびっしりと身体を押し付けあって寝なければならなかった。もっとも、体は冷え込み、居住棟には暖房などなかったのだから、これは都合がよかった。この『仕切り』に靴は持ち込み禁止だったが、禁を犯してでも枕にする者たちもいた。糞にまみれていることなどおかまいなしだ。そうでもしないと、脱臼しそうなほど腕を伸ばして頭を乗せるしかなかった。
(中略)12歳の少年が運びこまれた。靴がなかったために、はだしで雪のなかに何時間も点呼で立たされたうえに、一日中所外労働につかなければならなかった。その足指は凍傷にかかり、診療所の医師は壊死して黒ずんだ足指をピンセットで付け根から抜いた。それを被収容者たちは平然とながめていた。
(中略)その直後、スープの桶が棟に運びこまれた。スープは配られ、飲み干された。わたしの場所は入口の真向いの、棟の奥だった。たったひとつの小さな窓が、床すれすれに開いていた。私はかじかんだ手で熱いスープ鉢にしがみついた。がつがつと飲みながら、ふと窓の外に目をやった。そこではたった今引きずり出された死体が、据わった目で窓の中をじいっとのぞいていた。二時間前には、まだこの仲間と話をしていた。わたしはスープを飲み続けた。
(中略)数か月後、すでに解放されたあとに、わたしはもとの収容所に残った仲間のひとりと再会した。この男は『収容所警官』をしていたが、収容所最後の日々、死体の山から消えて鍋の中に出現した肉片に手を出したひとりだった…わたしは、あの収容所が地獄と化し、人肉食が始まる直前に、そこを逃れたのだった。
更なる詳細は黄金律の記事に書いた。では、この空間のどこに『愛・真理・神』などが存在しているのだろうか。そこに広がっているのは、地獄だ。人間が、人間として扱われない。記録の残されている事実では、人間史上最も劣悪な環境が、そこに存在していたのだ。
だが、注目するべきなのは、 『第2の黄金律』、
に記載したこの内容である。
そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てに辿り着いた真実、何人もの詩人がうたいあげいた真実が、生まれて初めて骨身に染みたのだ。
愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今私は、人間が詩や思想や信仰を通じて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること!人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。
(中略)ほどなく、わたしたちは壕の中にいた。きのうもそこにいた。凍てついた地面につるはしの先から火花が散った。頭はまだぼうっとしており、仲間は押し黙ったままだ。私の魂はまだ愛する妻の面影にすがっていた。まだ妻との語らいを続けていた。そのとき、あることに思い至った。妻がまだ生きているかどうか、まったくわからないではないか!
そして私は知り、学んだのだ。愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)『本質』に深くかかわっている、ということを。愛する妻の『現存』、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。
古代ギリシャの作家、ソフォクレスは言った。
つまり、妻が生きているとか、神様がそこにいないとか、神様に祈りを捧げた人が翌日に死ぬとか、不正義中の不正義が行われているとか、そういう事実は関係ないのだ。『真理(愛・神)』というのは、そこに常に、『ある』。ただ人間がそれに自分の気持ちを近づけるか、近づけないかというだけのことなのだ。
『愛も、真理や神と同様、時間と空間に支配されることがないもの』。そしてそこがどんなに劣悪な場所や状況であっても、関係なく存在しているものなのだ。しかしそれは、人間のためだけにあるのではないのだということも、同時に覚えておかなければならない。
『真理=愛=神』だ。つまり、これらは全て同じものの可能性が高いのだ。何よりこれらは三つとも、『ここから逸れれば虚無に陥り、近づくと心に充足を覚える』という共通点をもっている。特定の人がそこに神様の存在を感じる(神様という支配者に『救われた』と感じる)と思うのは、まるで奇跡を体験した(間違いなく自分たちが考えられるようなものではない、自分たち以外の何かの力が働いた)かのように、心が充足する(温まる)のを覚えるからなのだ。
しかし恐らくそれは『神様の仕業』ではない。なぜなら、特定の人物の利益を満たす為だけに存在する神様など、人間の創り出した虚像だからだ。もし神様という人格神がいると仮定した場合でも、その人は絶対に人間(特にその特定の人物)だけの味方ではない。人が食べるため、着るために殺生され、人のために実験される動物、踏みつぶし、埋め立てて殺す昆虫、伐採する植物、目に見えない小さな生命を含めた、生きとし生けるものすべての味方であることはもちろん、
それ以外の万物すべての味方であり、決して人間だけのために存在しているのではない。この決定的な事実を直視できない視野の狭い人間本位な人間には、どちらにせよ『神(創造者)』の名を語る資格はない。
我々は、この『法則』に触れるか、触れないかということで、心が『充足』したり、あるいは『虚無』に陥るようになっているのだ。『神様』がいるのではない。まるで、暖炉に近づけば暖まり、離れれば冷えていくように、人間がそこに近づけば心は『充足』し、そこから逸れれば心は『虚無』になるのだ。
その法則は目に見えない故、人々はそれを各自で独自解釈し、『真理』と言ったり、『愛』と言ったり、『神』と言ったりしている。しかし実際には、人々はこれらが『何であるか』を正確に言い当てることができないし、未だにその全容も理解できていない。何しろこれらは目に見えないし、形をもっていないからだ。それにこれらは全て、人間が創り出した言葉であり、だとしたらその信憑性は低い。したがって、これら三つの『異なった的を射たはずの言葉』が指し示すものは、もしかしたら『同じもの』の可能性がある、ということは否定できない。
ゴッホは言った。
『真理=愛=神』。この三つの共通点はこうだ。
もちろんこれらが同じものであるという確率は100%ではない。だが、ここまでこれらの共通点が一致するものは他にはなかなかないのだ。この法則に触れ、
[16世紀に描かれた、風呂に入ったアルキメデスのイラスト]
ヴィクトール・E・フランクルの場合は、これを『神様』ではなく『愛』と呼んだ。
9.11を経て、宗教についての疑問を爆発させた、『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』にはこうある。
神ほど複雑なものはほとんど一つたりとない。宇宙にあるあらゆる粒子の個別の状態をたえず監視し、制御することができる神というのは単純では『ありえない』。彼の存在は、それ自体としてとてつもない量の説明を必要とすることになるだろう。
さらに悪いのは(単純さという観点からして)、神の巨大な意識の別の一角は、すべての人類一人一人のーそして、さらには私たちの銀河と他の1000億の銀河にちらばある惑星上にいる、海のものとも山のものとも知れぬ知的な異星人たちのー行い、感情、そして祈りによってあらかじめふさがれているのだ。
神は、スウィンバーンの意見によれば、私たちが癌に罹ったとき、救うために奇跡をもって介入『しない』という決断まで絶えずしなければならない。そこに介入することは、けっして人類のためにはならないはずだ。なぜなら、『もし神が、親戚の回復のために祈りを捧げる大部分の人に応えれば、癌はもはや人類にとって解決すべき問題ではなくなってしまうだろう』からである。『それなら』、私たちは何にいったい時間を費やせばいいのだ?
(中略)第一に、もし神が本当に人間と意思の疎通をしたとすれば、その事実は断じて科学の埒外にあるわけではない。神本来のすみかがどのような異界の領域であれ、そこから神が突然現れ、人間の脳によって捕捉されるようなメッセージを振りまきながら、私たちの世界に侵入してくるのである―それでもこの現象が科学となんの関わりもないというのか?
第二に、何百万もの人間に同時に知的な信号を送り、彼ら全員からのメッセージを受け取ることができる神は、ほかにどのような形容があてはまろうと、単純ではありえない。なんという処理能力だろう!神はニューロンでできた脳、あるいはシリコンでできたCPUをもっていないかもしれないが、従来神がもつとされてきた力を本当に神が発揮するなら、彼は、知られている限り最大の脳あるいは最大のコンピューターよりもはるかに精巧かつ作為的に構築された何かを備えていなければならないのである。
ドーキンスは基本、神のことを『彼』と呼んでいる。事実、
『『神は妄想である』は、アインシュタインやその他の前説に登場した見識ある科学者の神を指しているのではない。(中略)私は超自然的な神々についてのみ語っているが、そのなかで読者の大多数にとってもっともなじみ深いのは旧約聖書の神、ヤハウェ(エホヴァ)だろう。』
と言っていて、最初のページに書いた、『汎神論的な神(宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語)』のことを否定しているのではない。私も『神=真理=愛である』と言っている以上、100%ではないが、ほとんどその発想は汎神論的である。
従って、この抜粋した記事も、ここに記載した『アウシュビッツ強制収容所にあった愛(神・真理)』や、私がこの記事で指す『神=真理=愛である』という『法則に対する考え方』とは一線を画すものであり、この抜粋した記事が指し示す疑問についても、『神(愛)は真理(法則)だから、銀河が1000億あろうが1000兆あろうが、関係なくそこに蔓延している』という考え方は、打ち砕かれることはない。(追記:ここまで)
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