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次は『パッション』についてだ。
この映画はまさに聖書に忠実であるということが私にはすぐわかった。キリスト教が発足する前のイエスの実像に迫る研究を20年近く続けた、レザー・アスランの著書『イエス・キリストは実在したのか?(Zealot the life and times of jesus of nazareth)』を読んでいたからだ。
このあたりのことが忠実に映像化されていることもさることながら、決して翻訳版は出さず、一部始終アラム語とラテン語に徹したという事実を考えるだけでも、すぐにそれはわかった。そして映像を通して、更に聖書の教えと、イエス・キリストの実態を分析した。すると、ますます私のその見解でつじつまが合うことがわかっていった。
もし、『神が、ある』という解釈なのであれば、キリストがあの時代だけにあり、死に際に、『主よ、なぜお見捨てになられるのですか』、と言い、イエスがあっけなく死んでしまい、だが甦った、という事実もつじつまが合う。
この言葉は、詩編第22節ダビデの詩を読み上げたという説もある。
『わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。(以下省略)』(詩編22章2~6節))
『四人の教師』には、ニーチェのイエスに対する見解についてこうある。
現にある対立を心の中ではないものとしたり、他の教えに反駁(はんばく。反論。)もしない、そして十字架にかけられてひどい苦悩の瞬間に、
『わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』
と言う。これは『自分の生涯を導いてきた幻想からすっかり覚め、真実を知ったことの証言』(曙光)』で、それまでは仏教徒のようにただありのままに誠実に客観的に行動しているが、しかし無意識のうちに取った行動が釈迦の様にならなかったのはイエスに病的なニヒリストの面があったからだとしています。
[『ゴルゴファ(ゴルゴタの丘)の夕べ』ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンによる(1869年)、ハリストス(キリスト)の埋葬準備の光景]
ニーチェは、イエスが『死ぬ瞬間に幻想から覚めた』病的なニヒリストだと解釈したようだが、私は別に『病的』だとか、『その言葉の意味はなにか』ということについて過剰反応するつもりはない。2,000年前の時代や、その時代を生きる人間の気持ちは、どんなに偉い学者であっても、結局はその時代の人にしかわからない。
例えばソクラテスが生きた2,500年前、当時のギリシャでは、既婚男性が妻以外の女性と関係を持つことに何の制約もなかった。すべての男性は子供を持つことを目的に結婚していたのであり、並行して別の家庭を持つことは社会的に許容されていたばかりか、推奨されてもいた。
また、今の重力の常識が根付く前、そこには、アリストテレスの重力に対する考え方が根付いていた。
さらに言えば、『虫歯』は、歯に穴が開いたところに、何か歯に穴をあける不思議な力を仮想したり、ときには悪霊などの仕業だろうと考えていた。
それに対し、アメリカ人のミラーが、ドイツのロベルト・コッホ(1843~1910年)の研究所にいて、結核やコレラのように、何かのバイ菌が虫歯をつくるのだろうと、口腔中のいろいろな菌を調べ、『化学細菌説』という理論を出したのが、虫歯に対する最初の学説である。
『歯医者に虫歯は治せるか?』
このようなかつてあった事実を、今を生きる人間に理解できるだろうか。出来ないのであれば、『その時代の人が、今の時代を生きる人がよくわからないことをやった』という発想が頭をよぎるはずである。
イエスが死んでしまい、しかし、蘇ったという事実も、この様な事実を紐解くときに必要な、どこか『違った角度から見る』柔軟性が必要になる可能性がある。例えば、イエスが『神(真理・愛)と一体化していた』と考えるのだ。そうすれば、この話につじつまが合うようになる。(ページ下部で具体的な詳細を書く)
要はこの解釈では、イエスは一時的にそれと一体化し、擬人化(人でないものを人のかたちにして表現すること)して、『目に見えるものだけを信じていた者』を説得していたのであり(プラシーボ効果等で説得者要因を出し※次のページでプラシーボ効果の具体的な詳細を書く)、
というような教えを説きたかった。
当時、ユダヤ人(ユダヤ教の教えを守る者)だけが救われるという発想があった。また、ユダヤ教では現在もその教えは変わらないままである。
知恵の書 第13章1節にはこうある。
『神を知らない人々は皆、生来むなしい。 彼らは目に見えるよいものを通して、 存在そのものである方を知ることができず、 作品を前にしても作者を知るに至らなかった。』
知恵の書 第13章6節にはこうある。
『とはいえ、この人々の責めは軽い。 神を探し求めて見いだそうと望みながらも、 彼らは迷っているのだ。』
知恵の書 第13章7節にはこうある。
『造られた世界にかかわりつつ探求を続けるとき、 目に映るものがあまりにも美しいので、 外観に心を奪われてしまうのである。』
知恵の書等にあるように、今の時代もそうだが、この時代でも人々は、『目に見えるもの』だけに囚われる傾向が強かった。イエスが生きた時代は、哲学でいう素朴実在論が人間の思考を支配していて、夢で見ることが、昼間に現実で起きたことと同じ重みをもったという。処刑されたイエスと夢の中で出会い、話をしても、生きているイエスと会ったのと同じように受け止められるというのだ。
素朴実在論のリンク先の記事を見ればわかるが、つまりそれは、
『夢だろうが真実だろうがお構いなしに、人間達は自分の目で見える世界だけを信用して生きていた』
ことになる。そこでイエスは、『擬人化』という発想に至った、と仮定するのだ。そうすれば、それは『見える』ので、
という解釈に繋がり、人々はイエスの話を通し、神を見ることが出来るようになるわけだ。
『真理=愛=神』だ。つまり、これらは全て同じものの可能性が高いのだ。何よりこれらは三つとも、『ここから逸れれば虚無に陥り、近づくと心に充足を覚える』という共通点をもっている。特定の人がそこに神様の存在を感じる(神様という支配者に『救われた』と感じる)と思うのは、まるで奇跡を体験した(間違いなく自分たちが考えられるようなものではない、自分たち以外の何かの力が働いた)かのように、心が充足する(温まる)のを覚えるからなのだ。
しかし恐らくそれは『神様の仕業』ではない。なぜなら、特定の人物の利益を満たす為だけに存在する神様など、人間の創り出した虚像だからだ。もし神様という人格神がいると仮定した場合でも、その人は絶対に人間(特にその特定の人物)だけの味方ではない。人が食べるため、着るために殺生され、人のために実験される動物、踏みつぶし、埋め立てて殺す昆虫、伐採する植物、目に見えない小さな生命を含めた、生きとし生けるものすべての味方であることはもちろん、
それ以外の万物すべての味方であり、決して人間だけのために存在しているのではない。この決定的な事実を直視できない視野の狭い人間本位な人間には、どちらにせよ『神(創造者)』の名を語る資格はない。
我々は、この『法則』に触れるか、触れないかということで、心が『充足』したり、あるいは『虚無』に陥るようになっているのだ。『神様』がいるのではない。まるで、暖炉に近づけば暖まり、離れれば冷えていくように、人間がそこに近づけば心は『充足』し、そこから逸れれば心は『虚無』になるのだ。
その法則は目に見えない故、人々はそれを各自で独自解釈し、『真理』と言ったり、『愛』と言ったり、『神』と言ったりしている。しかし実際には、人々はこれらが『何であるか』を正確に言い当てることができないし、未だにその全容も理解できていない。何しろこれらは目に見えないし、形をもっていないからだ。それにこれらは全て、人間が創り出した言葉であり、だとしたらその信憑性は低い。したがって、これら三つの『異なった的を射たはずの言葉』が指し示すものは、もしかしたら『同じもの』の可能性がある、ということは否定できない。
ゴッホは言った。
『真理=愛=神』。この三つの共通点はこうだ。
もちろんこれらが同じものであるという確率は100%ではない。だが、ここまでこれらの共通点が一致するものは他にはなかなかないのだ。この法則に触れ、
[16世紀に描かれた、風呂に入ったアルキメデスのイラスト]
イエスの周りにいる人たちはその現象を『神様のご意志』と呼んだ。
それに、この『神と一体化』、『擬人化』という考え方が正しければ、
といった、イエス以外の『神っぽい人』、『神に最も近いような人』、『神のような威厳を持つ人』たちの存在にもつじつまが合う。イエスだけが神になってしまうと、これらの存在が『嘘つき』ということになり、その排他的な発想は対立の原因となり、世に混沌を招く種となる。この『神と一体化』、『擬人化』という考え方であれば、イエス以外の人間にもそれが可能になるため、イエスの他に威厳がある人物がこの世の存在している事実にもつじつまが合う。
イエスは元々、ユダヤ人(ユダヤ教を重んじる人)であった。しかしそれは、生まれてそこに蔓延していたのが、ユダヤ教だったからであり、気が付けばそれを学ぶことになっていて、それでユダヤ人だったわけだ。だが、そのうちにユダヤ教の教えに違和感を覚えるようになり、自分独特の教えを広めようという考えに至った。
ユダヤ教の教えが『契約をしたユダヤ人だけが救済される』という教えであるということに対し、イエスの教えは『神を信じた者すべてが救済される』という教えだった。律法を無理に守る必要はないと、説いたのだ。
『世界がわかる宗教社会学入門』にはこうある。
イエスのジレンマは、ユダヤ教の枠内で考えながらユダヤ教の既存のシステムを否定したことです。たとえば、イエスが根拠にしているのは、やはり旧約のさまあまなテキストで、そこから読み取れる神の意思です。神の真意に照らせば、人為的な取り決めや制度などは、神と人間との直接の交流を阻んでいる。そうすると、イエス自身はなぜ神の真意を知ることが出来るのかが問題になります。
『四人の教師』にはこうある。
ユダヤの神は戒律の遵守を要求する厳しい神です。それに反すると容赦のない罰を与えます。イエスが信じる神は愛に満ちています。優しいのです。イエスの神がユダヤの神と決定的に違うのはこの点です。伝統的ユダヤ教はイエスを異端としました。
『面白いほどよくわかる聖書のすべて』にはこうある。
神の奴隷となったユダヤ人の前に、紀元前後、イエスが現われて神の言葉を伝えます。律法に縛られて神の奴隷にならなくてもよい、神はあまねく広く人間を愛してくれている、律法に縛られることはない、というものです。つまりイエスは『自由』ということを謳いました。
(中略)『旧約聖書』のなかにあるように、人は神との契約で律法を守ることになりました。ところが、その律法さえ守ればあとは何をやってもいいのだ、という考え方にしだいになってきます。ある意味ではマニュアル人間、管理された人間になってしまう。そのような時代のなかで、イエスは自由な生き方を主張しました。これは保守的なユダヤ教徒にいわせると、由々しき問題でした。
その当時は、ただひたすら決まりを守っていれば、あとは何をしてもよかった。金、金、金と追い求めてもよかった。また、律法さえ守っていれば、必ずご褒美を貰えたのです。お金持ちになれたのです。律法に逆らわなければ病気にもおかされない。そのような時代に、そのような考え方をする人々に向かい、自由になりなさいとイエスは言いました。『幸いなるかな貧しいもの』と説いたからです。
それまでは、まず最初に契約に忠実であることが求められていました。これに対し、神のほうから先に愛してくれるーはじめに愛があるのがイエスの出発点です。そういう意味では、あまねく慈悲をかける仏教の出発点もここにあると見られます。
(中略)イエスは、ユダヤ人だけでなく、敵であり、外国人であるサマリア人を含むすべての人々、つまり人種や宗教を超えたすべての人々が隣人であるとしている。イエスの教えが後に全世界に広がるのは、ユダヤ人だけが救われるというユダヤの常識と訣別していた点にある。頑迷に隣人を限定するものではないとイエスは指摘しているのだ。
『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある
イエスは律法主義者が、硬直した考え方であり、理不尽で無味乾燥だと感じていた。愛(アガペ)、すなわち神の愛のような最も大事な次元のことが、ないがしろにされ、忘れられているというのに、古代人が決めた規則をやみくもに適用することが、何の役に立つのか?愛のない律法に何の意味もない。律法こそ、元来、愛とは何かを教えるために作られたのだ。イエスは、神から授かりモーセが伝えた十戒に、あらためて真の意味を与えようとし、律法学者にありがちな偏狭な捉え方を批判した。
以上の文献からもわかるように、イエスは『現存するユダヤ教の教えよりも、もっと優れた教えを広めるべきだ』という使命感に燃えていたことは明白なのである。
ちなみにイスラム教の開祖、ムハンマドも同じように当時のユダヤ人を非難している。Wikipediaにはこうある
『クルアーン』には、各所に「努力する者には神が報いてくださる」としか解釈できない句が数多く登場する。ムハンマド自身は、しばしば同時代のユダヤ人をその信仰において「形式主義者」と非難し、ムスリムに対しても、たとえば「形式だけの礼拝なら、しない方がまし」と宣言したように、努力することそのものを重んじたのである。
ムハンマドは、ユダヤ人だろうがムスリムだろうが、差別することなく同じように『形式だけの人間』を非難していた。
またあるいは、イエスは『ユダヤ人の王』というキーワードを意識している可能性もあった。『イエス・キリストは実在したのか?(Zealot the life and times of jesus of nazareth)』にはこうある。
『この男はメシアだ!』
これは聞き捨てならない言葉である。それは事実上、反逆行為だからだ。紀元一世紀のパレスチナでは、『メシアがきた』と公共の場で大声で叫ぶことは、十字架刑に処せられる可能性のあるとんでもない不法行為だった。
たしかにイエスの時代のユダヤ人の間には、数々のメシア伝説や、聖地に伝えられた有名な民話から、メシアの役割や働きについて少々矛盾する考え方があった。メシアはユダヤ人をかつての威力と光栄ある地位に復帰させる修復者のような存在と信じている人々もいれば、現世を抹消して、その廃墟の上に新しく、正しい世界を樹立するような、もっと黙示録的、ユートピア的な人物と見る人々もいた。
(中略)メシアならダビデ王の子孫であるだろうし、イスラエルを再興させ、ローマによる戦力のくびきからユダヤ人を解放し、エルサレムに神の統治を確立してくれるのではないか。
(中略)マタイが、ヘロデの男児抹殺を逃れるためにイエスをエジプトへ逃亡させたのは、それが実際にあったことだからではなく、『エジプトから彼を呼び出し、我が子とした』(ホセア書11章11節)という預言者ホセアの言葉を成就させたかったからだ。この物語はイエスについて何らかの事実を明らかにすることを意図したものではない。イエスはファラオによるイスラエル人の男児抹殺を生き延び(出エジプト記1章22節)、神の新たな律法を携えてエジプトから逃れ出たモーセの生まれ変わりだという事実を明らかにしたかったのである。
ルカがイエスの誕生の地をベツレヘムとしたのは、それが事実だったからではなく、『ベツレヘムよ…お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る』(ミカ書5章1節)という預言者ミカの言葉があったからだ。ルカはイエスを『約束の地』を統治するために神によって王座に据えられた『ユダヤ人の王』ダビデの生まれ変わりと見立てた。
つまり、福音書にある幼少期の物語は、歴史的事実を述べているのではなく、事実として読まれることも意図されていない。それらは神に油を注がれた者、ダビデ王の末裔、約束されたメシアとしての身分を神学的に認める為である。
当時の人間に、『ユダヤ人の王を求める心理』が働いている可能性もあった。イエスが主体的にユダヤ教の教えを『更新』する意志があったか、あるいは『ユダヤ人の王を求める心理』に影響されて『メシア(救世主)』を演じたか、どちらかはわからないが、どちらにせよイエスは、当時の『そこにいる人々』に、自分の意見を聞いてもらいたかった。
そして、どうやったら『人間のパラダイム転換(蔓延している考え方を更新)』を することが出来るかを考えた。そして『神と一体化、神を擬人化』という考え方に辿り着いた。つまり、イエスが神(真理・愛)と一体化しさえすれば、人々は自分の意見を聞くわけだ。
※モーセの『安息日に働いたことに対する制裁』の話に対し、イエスはこう言っている。
このイエスの発言は、素晴らしいものであり、まさに『更新』にふさわしい理論だ。
当時、『神』という存在はそれだけ甚大な影響力を持っていた。『世界がわかる宗教社会学 入門』にはこうある。
キリスト教でなにがわかりにくいかというと、神が人間ではないという点です。神は知的生命なのですが、人間ではない。あえて言えばエイリアン。エイリアンは、地球外生命で、知性がある。そして必ずしも人間に好意的ではない。そんなものが実在したら、恐怖です。
そんなものは悪魔に見えますが、実は悪魔と神は表裏で構造が似ているわけです。さいわい神はよい意図を持っていて、人間を創り出し、人間を救おうと思っている。神は絶対。人間は被造物。神の意のままになるロボットである。日本人にすれば、このような感覚になると思います。それはとても人為的に思える。
なぜ、そのような考え方が起きたのか?多分それは、奴隷制を経過したからだと思います。日本には奴隷制がありませんから、人間が、他の人間の意のままになったり所有物になったりした経験がない。奴隷制というのは、人間が他の人間の所有物になるのですから、人間の条件が脅かされる。そこで奴隷制の社会では、人間の条件をとことん考える。それが宗教に反映していると思います。
人間が人間の奴隷となり、人間が人間の主人となるという間違った状況を解消するには、神が人間の主人であることにすればよい。それなら、人間は奴隷状態を否定できる。これが一神教のアイデアなのです。
奴隷制度が当たり前のように浸透していて、今よりもうんと様々な知識が未熟だった当時のレベルで考える必要があるのは自明の理だが、イエスは、『神と一体化、神を擬人化』することで、『権威』を持ち、人々に自分の意見を聴かせようと思ったのだ。
『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある。
テーラワーダ仏教の経典が強調しているブッダの言葉があるが、この挿話と同じくらい驚嘆に値する。
『私を見るものは法を見る。法を見るものは私を見る』
と分だが説法で述べた、と相応部経典は記しているのだ。このように、自分を道と同化することでブッダは、ほかの人々とは一線を画す資質、固有で普遍的な地位に値する資質が自分にはあることを示唆しているのではないだろうか。この問題は 仏教内部で論争の的となっている。この言葉は、『どうしたら、その道を知ることが出来るでしょうか』と問いかけたトマスに対し、イエスが答えた言葉を想起させずにはおかない。
『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。』(ヨハネ伝14章6~7)
そしてそのような視点から考えると、なんと、ブッダも『自分を道と同化する』ことで権威を持ち、人々が耳を傾けやすいようにしていた、という可能性があるのだ。
ブッダの時代も、イエスとユダヤ教の関係と同じように、カースト制度や輪廻の考え方を軸とするバラモン教を筆頭とした、様々な宗教が乱立していた。それに違和感を覚えて、自身の教え(後に仏教と言われる教え)を見出し、それを説いたのだ。従って、ブッダも自分の意見により大勢の意見に耳を傾けてもらうよう、様々な思索をした可能性があるわけだ。
そしてこの文献にはまさに、イエスが『わたしは道であり、真理であり、命である』と断言し、『自分は道と同化している』ことを示唆している可能性があると解釈することが出来るようになっている。
本にはこうもある。
ソクラテスは対話と皮肉を駆使し、ブッダは教えを乞う信徒を前に説教をすることに重きを置いていた。一方、イエスには話の形式や調子を自在に変えるという特徴があり、対話や皮肉や説教だけでなく、
- 打ち明け話
- 祈り
- たとえ話
- 威厳のある言葉
を織り交ぜた。そこには、話しかけている相手に合わせて語ろうとするイエスの意思がはっきり感じ取れる。
話し方はいろいろ変えたが、共通しているのは、『わたし』を多用していることだ。うわべだけの慎みも偽りのへりくだりもなく『わたし』が多用され、聴く者の耳に響く。イエスは自分を前面に押し出し、本心を明かし、命令を下し、神に懇願し、人々を慰めたが、常に個人として語った。
この意味で、ブッダの話し方とは全く対照的である。旧約聖書に登場するイエス以前の預言者ともまた異なり、イエスは自分自身の名で語り、自分は神の権威を帯びていると断言し、神を父(abba)と呼び、その父なる神に遣わされたのだと言った。
『わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。』(ルカ伝10章16、丸子電9章37)
つまり、イエスは相手が理解しやすいようにするために、話し方を『カスタマイズ』していた。それならば、イエスが一時的に『神・真理・愛』と一体化し、擬人化(人でないものを人のかたちにして表現すること)して、『目に見えるものだけを信じていた者』を説得しようとした、という解釈も、あながち大きく的を外すことはないはずなのである。
『四人の教師』にはこうある。
イエスは我々がイエスであるようになれる、と言っている。すなわち、
『あなたが私の口から飲むならば、あなたは私のようになることができる。』(トマスによる福音書108)
と答えている。
『私のようになることができる』という言葉の意味は、ブッダが『自分だけがブッダではなく、あなたも悟ればブッダになれる』というのと同じ意味で、『自分を道と同化する』ことが出来れば、あなたにも偉大なる権威がみなぎることになる、という解釈が出来る。
『面白いほどよくわかる聖書のすべて』にはこうある。
釈迦は、このようにいいました。
『自灯明、法灯明(じとうみょう、ほうとうみょう)』
釈迦が死んだのちの闇のなかで『灯』とするのはまず自分自身であり、次に釈迦の法(=教え)を『灯』としなさいという意味です。
『世界がわかる宗教社会学 入門』にはこうある。
一神教では神が真理ですが、仏教における真理とはダルマ(法)です。ダルマは、そこにあるもの、宇宙の構成原理、宇宙の普遍法則で、永遠不変です。
(中略)輪廻の思想は、仏教において初めて成立したのではない。むしろ仏教が、初めて輪廻を否定したのです。否定したとは、『輪廻を乗り越える』というアイデアを打ち出したということです。仏教以前の人々は、輪廻を肯定し、世界の逃れようもないあるがままの姿だと考えていた。仏教はそこからの差異化を図ったのです。
(中略)ダルマはこの宇宙すべてを支配している根本法則で、輪廻の法則も含みます。まず、人間である自分がこの根本法則に支配されているという、ありのままの姿を実感しなければなりません。これが、覚るための『原因』になる。世界のあるがままのをありありと認識することが原因となって、その結果、自分の存在が変容する。そしてこの法則を超越するブッダというものになる。その手続きを踏み原因を作れば、誰であろうとブッダになれるわけです。
また、イスラム教についてもこうある。
神、アッラーは、唯一絶対永遠の神。全知全能の創造主で、復讐と慈悲の神、最後の審判の裁き主。生まず生まれず、不可見で、姿なく形なく色なく部分なく、始めなく終わりない、不変不易の存在。耳なしに一切を聴き、目なしに一切を見る。アッラーの言葉は永遠不滅であるといいます。
※アッラーはアラビア語で神という意味です。そして、旧約の神ヤーウェや新約の父なる神と同じものなのです。しかし、ヤーウェとアッラーにもいくつか違いはあいります。ヤーウェは『自分に似せて人間をつくった』わけですから、形がありそうです。一方アッラーは、形がない。目なく耳なくなにもない。だから、その偶像を作れないのです。
『三位一体』という考え方と照らし合わせてみよう。これは文字通り、『三つの存在は同一である』ということを示した言葉である。その三つとは、
である。このうち『聖霊(スピリット)』というのは、『神の意思』、あるいは『エネルギー』という意味を持つという。
左の図の三角形の端に書いてあるのは全てラテン語で、
そして真ん中に、
と書いている。左側は1210年頃に描かれた図式を抽出したもの。右側は20世紀末のプロテスタントの書籍に使われた図式だ。右の図には『is not』と書いてある丸が描かれているので、『父と子』、『父と聖霊』、『子と聖霊』は同一ではないとしている。『Wikipedia』にはこうある。
「イエスも事実、神であり、聖霊も事実、神である」と主張する一方で、「『父』、『子』、『聖霊』とは、時代によって神が自分を表す様式(mode)を変えていったもの」「一人三役のようなもの」と主張する考えは、様態論的モナルキア主義(英語: modalistic monarchianism)と呼ばれ、いわゆる正統派から否定される。
「父だけが神であり、イエスに宿ったのは神の『力』(デュナミス、ギリシャ語: δύναμις)に過ぎない」とする考えは、力動的モナルキア主義(英語:dynamic monarchianism)と呼ばれ、いわゆる正統派から否定される。
キリスト教神学の見解の一つで、神が一つの位格しか持たないとする事を強調する立場の一群。
この『三位一体』という考え方はキリスト教徒の全員が認めているわけではないらしく、聖書にも登場してこない言葉らしいが、こういう言葉があり、また、キリスト教だけではなく、三者が心を合わせることや、3つのものを一つに併せることを指して用いられる場合もあるため、日常で聞いたことがある人もいるだろう。
私の考え方は『ヤハウェという人格神』ではなく、『真理=愛=神』だ。そしてイエスが『神(真理・愛)』と一体化し、それ(目に見えないもの)を擬人化し、人々に『真実(どう生きるのが最善なのかということ。この唯一無二の真実の絶対的な力を、過去の人が『ヤハウェ』という唯一神として想像し、『奴隷<人間<神』、という図式にし、人間の規範とした、というのが私の解釈)』を説いた。
それは人々が目に見えるものだけを信じていたからであり、ユダヤ教の偏った教えが蔓延していて、それを『更新』するために、そうする必要があったのだ。
この『三位一体』という考え方は、私の考え方と少し様相が似ている。私は、イエスが『神(真理・愛)』と一体化したのではないかと考えている以上、
は、全て『同じもの』であると考えるからである。
例えば、『1+1=2』という真理が、元々この世にはある。だが、それは『誰かが』それを最初に言って、あるいは説いたからこそ、人間がそれを認識するようになる。それまでは人間はそれを知らないわけだ。私もそれを知ったのは、小学校一年生の頃だった。従って、それを聞く(知る)前の人間は、もしかしたら『1+1=3 かもしれない』と思っていた可能性は否定できない。
『2』が答えだと知らないのだから、そのような可能性が浮かんでも仕方がない。我々が今その答えを知っているのは、小学生の頃にそれを『習った』からだ。
つまり、それを『言った(教えた)役』がイエスであり、イエスは、
と、人間に理解できるように(その地域の人の言語で、わかりやすく)説いたのだ。前述したような、
などを織り交ぜながら、人々が理解しやすいように、カスタマイズして説いた。
それによってはじめて(小1の私がそうだったように)、
ああ、そうなんだ!
もしかしたらそうかもしれないな!
と、人はそれ(真理・神・愛)を理解した。
では、人々がそれを理解する前、本当に『それ(真理・神・愛)』はこの世に存在できるだろうか?実際には『常にそこにある』としても、人々がそれを『探し当て、認知する』ことをしなければ、人々にとってそこに(真理・神・愛)は存在していないのと等しいのだ。
モーセの『闇』の部分や、聖書の『闇』の部分に書いたような、実に様々な『不正義(真理とは全くかけ離れた)』や常識が蔓延しているということは、そこに広がっているのは『闇』である。だが、そこに『光(答え)』が照らされた。その時、初めて人は『光の存在』を知ったのだ。
しかし、『光』は元々この世にあった。ただ、そこにいた人々がそれを『認知』していないだけだった。まるで、『地球の周りを太陽が回っている』と人々が錯覚していた中、コペルニクスやガリレオによって『太陽の周りを地球が回っている』のだという『事実』を、多くの犠牲を出してようやく認知したように。まるで『虫歯』が、歯に穴が開いたところに、何か歯に穴をあける不思議な力を仮想したり、ときには悪霊などの仕業だろうと考えていた中、
アメリカ人のミラーが、ドイツのロベルト・コッホ(1843~1910年)の研究所にいて、結核やコレラのように、何かのバイ菌が虫歯をつくるのだろうと、口腔中のいろいろな菌を調べ、『化学細菌説』という理論を出し、『虫歯』という事実が存在することを知ったように。
最初からその『事実(光)』は存在していた。だが、それを認知していない人間しかいなければ、そこにあるのは『誤謬(ごびゅう。誤った考え。)(闇)』かつ『盲目的な人(闇)』となり、そこに光(真理・神・愛)は存在することができないのだ。
東京大学理学部、法学部を卒業した、理学博士、茂木健一郎の著書、『アインシュタインと相対性理論がわかる本』にはこうある。
『シュレーディンガーの猫』という有名な思考実験がある。箱の中に一匹の猫を入れて蓋をする。箱の中には、青酸ガスの発生装置が入っている。放射性物質ラジウムがアルファ粒子を出すと検知器が感知し、青酸ガスが発生するという仕組みだ。アルファ粒子が出ると猫は死ぬことになる。残酷な話だが、思考実験なのでお許しいただきたい。
箱をしばらく放置した後、観測する。アルファ粒子が出る確率を5割とすると、観測するまで猫が生きている確率は5割、死んでいる確率も5割だ。そうすると、人間が観測するまでは、猫は生きている状態と死んでいる状態が一対一で『重なり合っている』ことになる。
現実には、生きている状態と死んでいる状態が同時に存在することなどない。だが、観測するまで二つの状態が『重なり合っている』と解釈することはできる。
こういうことが問題になったのは、量子力学における粒子が、粒子性と波動性といった同時に存在しえない矛盾する状態を持つからである。そこで、粒子の状態は『重なり合っている』としたのだ。実際にどの状態にあるかがわかるのは、人間が観測した時だというわけだ。シュレーディンガーの猫で言えば、『死んでいるか、生きているか』が観測によって決まるわけである。これを『コペンハーゲン解釈』と言う。認識論の展開の一つだ。
(中略)アインシュタインは、量子力学のそういう極端な考え方には一貫して反対していた。アインシュタインが、デンマークの物理学者で量子力学を主導したニールス・ボーアに言った有名な言葉がある。
『月は、君が見ていない時には、そこにはないというのか』
アインシュタインは、誰が見ていなくても、月はそこにあると思っていた。
アインシュタインの言うように、最初からその『事実(真理)』は存在していた。だが、この『シュレーディンガーの猫』の考え方のように、『人が認知して初めて』、人々にとってそこに(真理・神・愛)が存在することになるのだ。(追記:ここまで)
現代を生きる我々は今、例えば、アインシュタインがこう言っている様に、
『第三次世界大戦を起こしてはならない』という考え方を持っている。だが、それは過去の人間が失敗した歴史が、それを学んだ我々の脳内に刻み込まれているからであり、『戦争』の悲劇を、体験もしていないのに熟知しているのは、戦争のそうした凄惨さを説く人々がいて、『アウシュビッツ強制収容所』や『原爆ドーム』のような『負の世界遺産』が存在しているからだ。
つまり、『その前(戦争を起こす前)』は、『今ほど』の強い意識・責任感はなく、その認識は甘かった。では、そこからさらに遡ること2,000~3,000年も前になるとどうなるだろうか。
アインシュタインの言葉が、現代の人間において『ある種の光(道しるべ)』になっているように、当時、モーセやブッダ、ムハンマドやイエスの言葉は、そこにいる人々にとって『希望の光(道しるべ)』となっただろう。
我々は今、無意識に『法律、常識、道徳』といったものに支配されて生きている。それは『目には見えない』が、確かに『そこにあるもの』であり、かつて、奴隷が人間に支配されていたように、人間もまた、『それ』によって支配され生きていて、それが人間の規範(生きる道しるべ)となっている。
遡ること2,000~3,000年も前、人間のその『法律、常識、道徳』といったものに対する意識が今よりも圧倒的に弱かった頃、そこにあるのは、
のどちらだと思うだろうか。
私はブッダやイエスが、『それ(真理・神・愛。あるいは光。あるいは道)』と同化(一体化、擬人化)し、闇に浸食されたこの世界に『光』を見出だそうとした、そう思えてならない。
『PRESIDENT』2016.12.5号にはこうある。
知徳合一
道徳的でない行いをしているとき、実は内心傷ついている。これは本人にとって不幸である。人は本来、道徳的な生き物であり、道徳的な行いをしているときが最も幸福である。もし心の平安が訪れないのなら、その理由は徳が何かを知らないからだとソクラテスは考えた。何が善で何が悪かを学び、正しい徳の知識を身につけ、それを実行すれば幸福になれるとソクラテスは説く。ソクラテスにとって知識(知恵)と徳は同じものだった。
ソクラテスも同じように、『徳』というものを『知る』ことによって、はじめて人は幸福になれるということを説いた。人間の心の平安が訪れないのなら、その理由は徳が何かを知らないからだ。その状態はまさに『闇』であり、『徳を知る』ことでそこに『光』が照らされる。
この『三位一体』という考え方は、
として考えることができ、この三つが揃って初めてこの世界に 神(真理・愛)が存在することができるのだ、ということを言いたいのではないだろうか。そしてもちろんこの『(一体化した)イエス』の部分には、
そして、
とすることができるのである。(追記:ここまで)
では、『神が、ある』という解釈なのであれば、キリストがあの時代だけにあり、死に際に、『主よ、なぜお見捨てになられるのですか』、と言い、イエスがあっけなく死んでしまい、だが甦った、という事実もつじつまが合う。というのはなぜか。
『神がいる』であれば、『神様という特定の人物がいる』ということになり、『一体化』などということはできなくなるが、『神が、ある』という解釈であれば、『それと一体化、擬人化』することは可能になるわけだ。従って、
といった人物も、そうじゃない人でも、その一体化と擬人化が可能になる。だが、『完璧なまでに一体化』、つまり『完全一致』出来る可能性がある人間というのは、ここに挙げたような極めて知的な人物だけであり、後の者がしようと思っても、それは『部分一致』となる。
そして、その『部分一致』は、ここに挙げたような人物でもそうなり得るのである。彼らだからといって、『完全一致』出来るとは限らないわけだ。
『完全一致』のイメージはこうだ。
そして『部分一致』のイメージはこうだ。
つまり、ここに挙げた偉人たちは、下記の図の様にして極めて『完全一致に近い部分一致』をした、稀代の天才たちだった。普通の人間ではここまでの一致はできない。だが、恐らく『完全一致』はできなかった。そして、その『ずれた』部分は間違いであり、その間違いを傍から見た時、人々はそこに違和感を覚えるのである。
例えば『四人の教師』にはこうある。
『中部経典』にある話ですあが、一人の仏僧が釈迦の所へ来て、常々今述べたことについて釈迦が答えないのを不満に思っていたので、肯定か否定もしくは『私は知らない』と言ってほしい、答えられないのなら環俗するつもりだと言います。
釈迦はその僧に、
『ある男が毒矢に当たった。その友達が医者を連れて来ると、私を射た男は何者か、名は何といい、どういう種族のどういう階級の者か、どんな様子で背が高いか低いか、黒髪か金髪か、郷里はどこか、また私を狙った弓はどんな大きさで矢はどうか、こういうことが全部はっきりと分からなければ矢は抜いて貰いたくない、こう言ったとしたならばその男は手当てを受けないうちに死んでしまうだろう。先の問いに答えてくれなければ修行をしたくないという者は如来から答えて貰わないうちに死んでしまう。』
と言います。釈迦は形而上学的な問題より救済のほうが先だとするのです。(中略)要するに釈迦は理論的な合理の世界には限界があることを教えているのです。伝統を排した合理主義者の釈迦は合理にも限界があることをわきまえていたのです。
つまり釈迦(ブッダ)であっても、わからないことはわからなかった。これはつまり、ブッダが『神(真理・愛)と完全一致はできなかった』ことを意味するわけだ。
キリスト教で考えてもそうだ。『天動説』という間違った発想を生み出した。地球の周りを太陽が回っていると考えてしまったのだ。『地球こそがこの世の中心である』という発想をしたのだ。
[画像]
ブルーノという修道僧は、このコペルニクスが提唱した地動説を熱烈に支持し、自分が正しいと信じる世界の考え方を広めようといたるところで講演をしたが、これは当時の法王の天動説的常識や、聖書の教えに著しくそむくものだと考えられたので、1600年2月17日、ローマのカムポ・ディ・フィオリという広場で、火あぶりにされてしまった。
これに続いてガリレオは、コペルニクスの説の正しさを確信して意見を主張したが、宗教裁判にかけられ、無知な裁判官の前にひざまずかなければならなかった。これはキリスト教が『不完全なもの(完全一致はできていないもの)』であるということの確固たる証拠である。
『部分一致』は出来たが、『完全一致』は出来なかった。この考え方なら、『全てが平等に、正しくもあり、不完全である可能性がある』という考え方が通用することになる。それが『黄金律』に書いた、『人間には責任があり、真理には責任がない』ということの意味なのだ。
『真理=愛=神』だ。つまり、これらは全て同じものの可能性が高いのだ。何よりこれらは三つとも、『ここから逸れれば虚無に陥り、近づくと心に充足を覚える』という共通点をもっている。特定の人がそこに神様の存在を感じる(神様という支配者に『救われた』と感じる)と思うのは、まるで奇跡を体験した(間違いなく自分たちが考えられるようなものではない、自分たち以外の何かの力が働いた)かのように、心が充足する(温まる)のを覚えるからなのだ。
しかし恐らくそれは『神様の仕業』ではない。なぜなら、特定の人物の利益を満たす為だけに存在する神様など、人間の創り出した虚像だからだ。もし神様という人格神がいると仮定した場合でも、その人は絶対に人間(特にその特定の人物)だけの味方ではない。人が食べるため、着るために殺生され、人のために実験される動物、踏みつぶし、埋め立てて殺す昆虫、伐採する植物、目に見えない小さな生命を含めた、生きとし生けるものすべての味方であることはもちろん、
それ以外の万物すべての味方であり、決して人間だけのために存在しているのではない。この決定的な事実を直視できない視野の狭い人間本位な人間には、どちらにせよ『神(創造者)』の名を語る資格はない。
我々は、この『法則』に触れるか、触れないかということで、心が『充足』したり、あるいは『虚無』に陥るようになっているのだ。『神様』がいるのではない。まるで、暖炉に近づけば暖まり、離れれば冷えていくように、人間がそこに近づけば心は『充足』し、そこから逸れれば心は『虚無』になるのだ。
その法則は目に見えない故、人々はそれを各自で独自解釈し、『真理』と言ったり、『愛』と言ったり、『神』と言ったりしている。しかし実際には、人々はこれらが『何であるか』を正確に言い当てることができないし、未だにその全容も理解できていない。何しろこれらは目に見えないし、形をもっていないからだ。それにこれらは全て、人間が創り出した言葉であり、だとしたらその信憑性は低い。したがって、これら三つの『異なった的を射たはずの言葉』が指し示すものは、もしかしたら『同じもの』の可能性がある、ということは否定できない。
ゴッホは言った。
『真理=愛=神』。この三つの共通点はこうだ。
もちろんこれらが同じものであるという確率は100%ではない。だが、ここまでこれらの共通点が一致するものは他にはなかなかないのだ。この法則に触れ、
[16世紀に描かれた、風呂に入ったアルキメデスのイラスト]
前述した偉人たちは、『神様』ではなかった。『それ』を会得し、あるいは一体化した、天才だった。だから『部分一致』しかできなかった。だから傍から見たり、とてつもない時間をかけるとボロが出てしまうのだ。だが、彼らがやったのは極めて完成度の高い部分一致だった。だからこそ彼らは、とてつもない時間をかけても、未だに凄まじい威厳を発揮しているのである。
そしてこの『蘇った』という事実だが、
この記事の最下部に私は、『四つ目の解釈』の存在の可能性があると記載した。
の三つの他に、もう一つ考えられるシナリオが存在すると見たのだ。
それは、『比喩』だ。モーセの『海を割った話』が比喩であったと推測するならば、当然こちらにも同じ考え方を当てはめることが出来る。これは単なる『比喩』であり、
『イエスが死んでも、神(真理・愛)は生き返る。いや、イエスを殺しても、神(真理・愛)が死ぬことはない。なぜなら神(真理・愛)は、一時的に一体化していた人物が死のうが、永久不変としてこの世に存在しているからである。』
ということを言いたいのではないかと解釈したいのだ。
目の前で、許されてはならない不正が力づくで押し通され、光が闇に覆われた(例えば、ユダヤ教の教えを否定し、ユダヤ人にとって脅威的である、という理由だけで、イエスを犯罪者とみなし、磔にして処刑してしまった)。するとそこには、偏った人間たちの心の安堵だけが広がり、力づくでねじ伏せられた者の心には虚無が訪れた。
という人間の発想が、そうした闇を生み出してしまった。
だが、それでも神(真理・愛)は消えてなくなることはない。ブッダが、『ダルマ(真理、法)は、そこにあるもの、宇宙の構成原理、宇宙の普遍法則で、永遠不変だ』と言ったように、ムハンマドが、『アッラー(神、真理)の言葉は永遠不滅だ』と言った様に、彼が死んでも、彼の説いた教えは永久不変としてこの世に君臨し続けるのだ。つまり、彼(神(真理・愛)は、蘇るのだ。
…こういうことが言いたい、『比喩』なのではないかと、考えるのだ。それで『イエスの復活』の話に、つじつまが合うのである。
まるで、この世に人間が二人しかいないとき、『1+1=2だ。』と言った人間に、
と言ってこの世からその人間を抹殺してしまい、真実を一時的に歪曲させようとするが、しかし、そんなことをしても『1+1=2』という真理はこの世に残り続ける、というようなイメージで、この話を解釈したいのである。
つまり、『人間イエスが物理的に蘇った』のではなく、『神(真理・愛)が蘇った』のだ。『神(真理・愛)が、それと一体化していたイエスと共に抹殺されたと思った』が、この世にはまだイエスが説いた教えが残っていた。神(真理・愛)は死ななかった。それで『イエスの復活』の話に、つじつまが合うのである。
エルヴィス・プレスリーは言った。
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