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さて、このページでは前ページで説明したように、プラシーボ効果(思い込み効果)による観点から、『イエスの奇跡』を分析していく。間違ってはならないのは、私はこれらの文献に影響されてこの節を主張しているのではないということだ。自分が自力で考えていった延長線上に、これらの文献があったのだ。
『四人の教師』にはこうある。
一つの推測として、イエスが伝道の過程で示した数々の医療行為から彼はどこかで医学を学んだのではないかということが考えられます。頭がよく、向学心のあるイエスなら医学を学んだとしてもおかしくありません。当時、医学が盛んであったのはアラビア、ギリシア、エジプトでした。アテネやアレキサンドリアはおそらくその先端を担っていたでしょう。古代から、宗教徒医療は近親関係にありました。宗教が容共する現世利益に医療が応えるというわけです。
しかし、アテネやアレキサンドリアの医学は宗教に奉仕するためのものではありません。この頃すでに自然学は科学の様相を見せ始めていました。そして、その成果は王侯貴族、富裕な商人のために使われていたのです。貧しい人々は昔ながらの呪(まじな)いに頼っていました。もし、イエスが若い医学徒としてこういったことを見て、世の中の不条理に気が付いたとしたらでしょう。
確かに、こういう解釈も出来る。単純に、医学の勉強をしていたと考えてもいい。だが、よく考えたいのは以下のような内容だ。
『面白いほどよくわかる聖書のすべて』にはこうある。
広まるイエスの噂と奇跡
その後、イエスは当時まん延していたハンセン氏病や中風など多くの民衆の病をいやしてまわる。さらに悪霊に取り憑かれた狂人を正気に戻し、湖で突然起きた嵐を鎮めたりするなど、驚くべき奇跡を次々に起こすのである。
(中略)イエスと神を信じた者に奇跡は起きた
カファルナウムで、イエスは長老からある百人隊長が中風で死にかかっている部下を助けて欲しいと嘆願していると聞かされる。イエスがその家に近づくと、百人隊長が出迎えてこう言った。
『主よ、わたしはあなたを自分の家にお迎えできるような者ではありません。ただ、あなたが一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされるのですから』
『イスラエルのなかでさえ、わたしはこれほど強い信仰を見たことがない』
とイエスは感心して彼の望む言葉をあたえた。そして、イエスが百人隊長に、
『あなたは信じたようになるから、しもべのところに帰るように』
と言うと、その言葉どおり、僕の病気はすっかりいやされていたのである。イエスは、異邦人であり、イスラエルを統治し、イスラエルの民の敵であるローマの軍人にさえも奇跡を起こしている。しかし、イエスのこの奇跡はだれの上にも起こったのではない。真に『イエスと神』を信じた人だけにもたらされたのだった。
(中略)各地でさまざまな奇跡を見せたイエスだが、故郷のナザレでは奇跡を行わなかった。イエスとその家族をよく知る地元の人々が、
『この人は大工の息子ではないか。どうしてこんな知恵と奇跡を行う力を得たのだろう。』
と怪しんだからだ。つまりイエスは故郷では神の子でもなんでもなかったのだ。イエスがこうした人々の不信仰さを、
『預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである』
と嘆いたのは有名な話である。
栄誉ある賞を多々受賞し、卓球選手としてオリンピックにも2度出場し、オックスフォード大学を首席で卒業したマシュー・サイドの著書、『非才』にはこうある。
プラシーボ効果
第二次世界大戦中、連合軍は1944年のはじめにイタリア北部のアンツィオに急襲をけしかけた。この作戦は破滅的な結果になり、アメリカ軍はポッツォーリの洞窟に一週間以上こもるはめになった。ハーバード出身の若手医師ヘンリー・ビーチャーは、上陸拠点に設けた仮説の野戦病院で、つぎつぎとやってくる負傷兵たちの治療の指揮に当たった。
だが負傷者の数はあまりにも多く、ビーチャーのものにあった麻酔薬はすぐに尽きてしまった。傷口の開いた兵士を前に、処置を急ぐ必要があったビーチャーは、看護婦に銘じてモルヒネの代わりに食塩水を注射させた。投与された麻酔薬がちゃんと効いたと思い込んだ患者は、横たわって手術を待っていた。それから起こったことは、のちに医学界を揺るがすことになる。
兵士は食塩水の注射で楽になっただけでなく、『本物』の麻酔薬を投与されたかのように、手術の苦痛にも耐えられたのだ。それから数週間、ビーチャーは数十人の負傷兵で結果を再現することになった。どの兵士も、血管を流れるのはただの食塩水だったが、奇跡のような克己心と見受けられるものをもって手術のショックを耐え抜いた。帰還したビーチャーは『強力なプラシーボ』と題した論文を書いた。
また本にはこうもある。
プラシーボとしての宗教?
1960年代におこなわれた一連の画期的な研究で、信仰心の篤い人々は一般人より心臓病がはるかに少ないことがわかった。当初これはタバコなど不健康な習慣をつつしむ宗教様式や、支えになるコミュニティに加わってストレスが軽減されるメリットなど、宗教と関係ない要素のせいだと思われていた。
だがさらなる研究でこれらの影響を補正してみたところ、信仰心の篤い人々の健康アウトカムは相変わらず非常に良いままだった。科学界はいささか驚くべきこの結果を受け入れざるを得なかった。信仰はそれ自体が、現実の具体的な健康便益をもたらすのだ。無理もないことだが、キリスト教徒たちはたちまちこの現象を持ち上げて、神は選ばれた人々の健康面での恵みを積極的に分け与えているのだと声高にふれまわった。ただ一つ困ったことに、志納の影響は宗派を超えて見受けられたのだった。キリスト教だけでなく、聖書の教えに矛盾する信仰をもった人々ー仏教徒やヒンズー教徒ーも、宗教的信念から医学的に恩恵を受けている。
ハーバート・ベンソンは著書『リメンバー・ウェルネス 医学がとらえた癒しの法則)で、こう述べている。
『本書では神をGodと大文字で表記する。しかしながらこの言葉はユダヤ・キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教の神仏から神々、女神、そして世界中で歴史的に崇拝され、愛されてきた精霊たちも指していることを読者には理解していただきたい。科学的観察の結果、崇拝の対象である絶対的な存在をどう呼ぼうと、どんな神学理論を持っていようとGodを信仰した結果は同じである。』
前節の主張をもとにすれば、なにが起こっているのか読み取るのは容易だ。ここにもやはりプラシーボ効果が働いている。だがここで結果をもたらしているのは、偽薬の効用にたいするまちがった思い込みではない。正しくは神(God)の癒しの力を信じる気持ちだ。そして偽薬の場合と同じく、もっとも熱心に信じる者が恩恵を受けるのである。
(中略)さらに、多くの宗教はその神学理論のなかでプラシーボ効果を積極的に引き起こしている。たとえばマルコによる福音書の第9章では、一人の父親が病気の息子を癒してもらおうとイエスのもとに連れてきて、こう言う。
『できることなら、わたしたちをあわれんでお助けください』。
イエスは答える。
『できることなら?信じる者にはあらゆることが可能だ』。
イエスはマタイによる福音書でも同じように述べている。
『あなたがたの信仰の度合いに応じて、それが実現しますように。』
つまり、神は祈る人の価値に応じて行動するのではなくて、神がそうしてくれると信じる祈る人の思いに応じて行動すると、聖書は述べているらしい。この文章の『神』を『偽薬』に代えれば、プラシーボ定義のできあがりだ。ハーバード大学で医学誌を教えるアン・ハリントン教授はこう述べている。
『(身体が)本来もっている(治癒)能力をなによりも促進するのは、神の癒しの能力に対する信仰です。』
カール・マルクスは宗教を、
と呼んだ。それはほぼ正しかった。宗教は民衆の偽薬なのだ。
この記事はまさしく私が言いたいことと同じ的を射ている。
聖書を徹底的に読む中で、 歴史の切迫した事情によって意図的に除外された重要な真実に気づき、 宗教学者として、キリスト教が発足する前のイエスの実像に迫る研究を20年近く続けた、 レザー・アスランの著書『イエス・キリストは実在したのか?(Zealot the life and times of jesus of nazareth)』にはこうある。
イエスの時代に悪魔祓いがこれほど一般的だった理由は、ユダヤ人が病気を神の審判もしくは悪魔の仕業の顕われと見ていた為である。悪魔に憑りつかれた状態を身体の病気もしくは精神病、癲癇や総合失調症のような精神疾患といくら定義しようとも、パレスチナの人々がこうした問題を何かに憑りつかれたしるしと解釈し、彼らがイエスを、そうした憑りつかれた人々を癒す力を持った大勢の職業的な祈祷師の一人と見ていたという事実は変わらない。
(中略)二世紀から三世紀にかけて、ユダヤ人やローマ人の教会中傷者たちは、イエスが人々の心を奪う為に魔術を使い、彼らをだまして自分に従わせたと非難する多くの論文を書いている。(中略)だが、こうした教会の敵とされる人々も、イエスが不思議な行為を行ったことは否定していない点に注目してほしい。彼らはそうした行為を『魔術』だと決めつけているにすぎない。
(中略)イエスの奇跡行為と普通の魔術師のそれとの違いは、イエスがまさにそのような魔術師の道具を使わなかったことにある。エイレナイオスの言葉を借りれば、イエスは、『加持祈祷の威力を借りず、香草や薬草の汁も使わず、生贄や献酒、薬味の効果を期待もせず』それらの行為を行ったという。
(中略)ある時、デカポリス地方で、村人の一団が、耳が聞こえず舌の回らない人をイエスのところへ連れてきて、助けを求めた。イエスはこの人だけを群集の中から連れ出し、その男の両耳に指を差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れた。
そして、天を仰いで『聞け』という意味のアラム語『エッファタ』と唱えるなど、古代の魔術師のマニュアルからそっくり借用したかのような一風変わった儀式めいた行動を行った。すると、たちまちその男の耳が開き、下のもつれが解けた。
(マルコ:7章 31-35節)
ここで出てきたキーワードは、
というものである。では次に、
『第4の黄金律』から以下の内容を見てみよう。
世界的に著名なアメリカの細胞生物学者であり、ウィスコンシン大学医学部やスタンフォード大学医学部で教鞭をとる、ブルース・リプトン博士の著書、『思考のすごい力』にはこうある。
1952年、イギリスで、ある掛け出し医師がミスをした。そのおかげで、医師アルバート・メイソンは、短い間ながら学界でもてはやされることになる。
メイソンは15歳の少年のイボを催眠療法で治そうとした。イボの治療に催眠療法が適用されることがあり、かつ成功率も高く、メイソンもそれまで経験を積んできた。 (訳註:イボはウイルスの感染によるものだが、催眠によるイボの治療は当時広く行われており、治癒率はかなり高かったという。だが、なぜ催眠によってイボが治癒するのかは解明されていない。)
ただし今回は厄介なケースである。肌がごわごわになっていて、人間の肌というより、まるでゾウの皮膚のようなありさま。しかも全身がその状態で、まともなのは胸だけ。 ある外科医が皮膚移植で治療をしようとして断念し、メイソンに少年を任せたのだ。
最初の治療で、メイソンは片方の腕に焦点を絞ることにした。少年を催眠状態に導き、この腕はイボが治って健康なピンクの肌になる、と暗示を与えた。一週間たって再びやってきたとき、治療を施した腕はかなり良好な状態になっていた。メイソンは喜び、少年を外科医のところに連れていった。だがそこで、メイソンは自分が医学上のミスを犯していたのを悟った。
腕が治ったのを見て、外科医はびっくり仰天した。メイソンには伝えてなかったのだが、少年の腕はイボではなく、先天性魚麟癬(ぎょりんせん)という、命にかかわる遺伝病によるものだった。
この病気の症状を精神力『だけ』で治すことなど、とうてい不可能だと考えられていたのだが、メイソンと少年はそれをやってのけたのである。メイソンが引き続き少年に催眠療法を施すと、最初に治療した腕と同じように、肌のほとんどは治癒して、健康的なピンク色に戻った。少年はグロテスクな肌のために、学校で情け容赦ないいじめを受けていたが、その後は普通の生活を送れるようになった。
メイソンが魚麟癬の驚異的治療について、1952年に『英国医学雑誌』に報告すると、大騒ぎになった。 メディアが派手に書きたてたために、致命的で、かつ良療法が見つかっていない、この奇病に悩む患者たちがメイソンのところに押しかけた。だが結局、催眠療法は万能ではなかった。メイソンは何人もの魚麟癬の患者に催眠療法を試みたが、あの少年と同じような結果は、ついぞ得られなかった。
メイソンは、治療に対する確信の無さが失敗の原因だと考えた。少年を治療したときは悪性のイボだと思い込んでいて、必ず治せると自信満々だったのだが、そのあとの患者の治療にはそういう態度で臨む事が出来なかったという。
プラシーボ効果の更なる追加情報として、『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』から抜粋しよう。
ベンソン博士と彼のチームは6つの病院で1802人の、心臓バイパス手術を受けた患者をモニターした。患者は三つのグループに分けられた。グループ1は祈りを受け、そのことを知らなかった。グループ2(対照群)は祈りを受けず、そのことを知らなかった。グループ3は祈りを受け、そのことを知っていた。
グループ1と2を比較するのは、取りなしの祈りの効果をテストするためのものである。グループ3は祈りを受けているのを知っていることから生じるかもしれない、心因性の効果をテストするために設けた。
祈り手は、三つの教会の会衆から派遣された。一つはミネソタ州、一つはマサチューセッツ州、もう一つはミズーリ州で、どれも三つの病院から遠かった。祈り手の個々人は、先に説明したように、祈りを捧げる個人の、姓の頭文字と名前だけを教えられた。できるかぎり標準化するというのがすぐれた実験のやり方で、それゆえ彼らは全員、祈りのなかに『すみやかな健康の回復をともない、厄介な事態を生じない手術の成功のために』という言葉を含めるように言われた。
2006年4月発行の<アメリカ心臓病雑誌>に報告された結果は、一目瞭然だった。祈ってもらった患者と祈ってもらわなかった患者のあいだに差はなかった。驚いたことに、自分が祈られていることを何らかの方法で知っていた人間と知らなかった人間のあいだでは差があった。
しかし、この結果はある意味、期待もしなかったものだった。というのは自分が祈りの受益者であると知っていた人間のほうが、知らなかった人間よりも厄介な事態により多く苦しめられたのである。神がこの馬鹿げた試みそのものに対する不同意を示すために、軽く懲らしめていた、ということだろうか?それよりはむしろ、自分が祈られていることを知った患者が、その結果として余分なストレスに苦しめられたというほうがありそうに思われる。
実験者たちが言う、『パフォーマンス不安』だ。研究者の一人、チャールズ・べテア博士は、
『お祈りチームを呼ばなければならないほど私は重い病気なのだろうかと、不安がらせてしまったのかもしれない』
と述べている。
(追記:ここまで)
治療に対する確信があるとき、『プラシーボ効果』が患者にも、治療者にも完全に働いているとき、この様な奇跡は起きる。つまり、奇跡を起こしたのはイエスだけではない。現代の世でも、この様に普通の医者と少年が、そのような奇跡を起こしているのだ。さらに言えば、『虫歯』は、歯に穴が開いたところに、何か歯に穴をあける不思議な力を仮想したり、ときには悪霊などの仕業だろうと考えていた。
それに対し、アメリカ人のミラーが、ドイツのロベルト・コッホ(1843~1910年)の研究所にいて、結核やコレラのように、何かのバイ菌が虫歯をつくるのだろうと、口腔中のいろいろな菌を調べ、『化学細菌説』という理論を出したのが、虫歯に対する最初の学説である。
『歯医者に虫歯は治せるか?』
これは実に100年やそこらの最近の話だ。では、これが更に1,000年、2,000年も前の話になると、そこに広がっているのは一体どのような世界だと思うか。レザー・アスランの著書にあるように、ユダヤ人は病気を、神の審判もしくは悪魔の仕業の顕われと見ていたわけだ。つまり、かなりの高確率で、精神的なものが病気の発生に深く関係していたのである。
『真理(愛・神)』は、『ある』という解釈であれば、要は、この『プラシーボ効果で病気が治る』という『病は気から』的な発想が事実として存在しているわけで、そこに人間の精神を近づけていけば、病気の治療も可能になる。今よりもうんと精神の在り方も知識も未熟なその時期に、
『大丈夫。必ず治るから。』
と断言されることは、極めて大きな救いとなるだろう。そしてその救われた気持ちが人の心身にポジティブな影響を与え、ひいては病気を治すことに繋がる。それは、魚鱗癬という難病を治した医者と少年の話を考えればつじつまが合うのである。
もしイエスが『神(真理・愛)』と一体化していたとしたなら、それを心底から信じる当時の人間にとってそこにゆるぎない説得力があり、こうした奇跡が起きやすい状態となったはずだ。
また、広がっていた『律法に逆らわなければ病気にもおかされない』、つまり、『ユダヤ人であれば病気とは無縁である』という考え方に対して、『面白いほどよくわかる聖書のすべて』にはこうある。
その当時は、ただひたすら決まりを守っていれば、あとは何をしてもよかった。金、金、金と追い求めてもよかった。また、律法さえ守っていれば、必ずご褒美を貰えたのです。お金持ちになれたのです。律法に逆らわなければ病気にもおかされない。そのような時代に、そのような考え方をする人々に向かい、自由になりなさいとイエスは言いました。『幸いなるかな貧しいもの』と説いたからです。
イエスは、ユダヤ人だけでなく、敵であり、外国人であるサマリア人を含むすべての人々、つまり人種や宗教を超えたすべての人々が隣人であるとしている。イエスの教えが後に全世界に広がるのは、ユダヤ人だけが救われるというユダヤの常識と訣別していた点にある。頑迷に隣人を限定するものではないとイエスは指摘しているのだ。
つまり、当時広がっていた考えは、とにかくユダヤ人だけが過剰評価されるものだった。ユダヤ人として律法を守っていれば、病気にもおかされないという考えが蔓延していた。この、『病気、ユダヤ人』というキーワードは、このイエスの『奇跡の治療』と無関係とは思えない。イエスは治療を通し、自分が『ユダヤ人の考え方を更新できる知性を持っている人物である』ということを証明したかった可能性があるのだ。
イエスはこうして、人間の『プラシーボ効果』を巧みに利用し、奇跡的な治療をしたりして自身の説得力を引き上げ、『神(真理・愛)』を擬人化、一体化して更に説得力を引き上げ、人々の考え方を大きく更新したかった、より公明正大な真理をこの世に説きたかった。と、解釈したいのである。
『真理=愛=神』だ。つまり、これらは全て同じものの可能性が高いのだ。何よりこれらは三つとも、『ここから逸れれば虚無に陥り、近づくと心に充足を覚える』という共通点をもっている。特定の人がそこに神様の存在を感じる(神様という支配者に『救われた』と感じる)と思うのは、まるで奇跡を体験した(間違いなく自分たちが考えられるようなものではない、自分たち以外の何かの力が働いた)かのように、心が充足する(温まる)のを覚えるからなのだ。
しかし恐らくそれは『神様の仕業』ではない。なぜなら、特定の人物の利益を満たす為だけに存在する神様など、人間の創り出した虚像だからだ。もし神様という人格神がいると仮定した場合でも、その人は絶対に人間(特にその特定の人物)だけの味方ではない。人が食べるため、着るために殺生され、人のために実験される動物、踏みつぶし、埋め立てて殺す昆虫、伐採する植物、目に見えない小さな生命を含めた、生きとし生けるものすべての味方であることはもちろん、
それ以外の万物すべての味方であり、決して人間だけのために存在しているのではない。この決定的な事実を直視できない視野の狭い人間本位な人間には、どちらにせよ『神(創造者)』の名を語る資格はない。
我々は、この『法則』に触れるか、触れないかということで、心が『充足』したり、あるいは『虚無』に陥るようになっているのだ。『神様』がいるのではない。まるで、暖炉に近づけば暖まり、離れれば冷えていくように、人間がそこに近づけば心は『充足』し、そこから逸れれば心は『虚無』になるのだ。
その法則は目に見えない故、人々はそれを各自で独自解釈し、『真理』と言ったり、『愛』と言ったり、『神』と言ったりしている。しかし実際には、人々はこれらが『何であるか』を正確に言い当てることができないし、未だにその全容も理解できていない。何しろこれらは目に見えないし、形をもっていないからだ。それにこれらは全て、人間が創り出した言葉であり、だとしたらその信憑性は低い。したがって、これら三つの『異なった的を射たはずの言葉』が指し示すものは、もしかしたら『同じもの』の可能性がある、ということは否定できない。
ゴッホは言った。
『真理=愛=神』。この三つの共通点はこうだ。
もちろんこれらが同じものであるという確率は100%ではない。だが、ここまでこれらの共通点が一致するものは他にはなかなかないのだ。この法則に触れ、
[16世紀に描かれた、風呂に入ったアルキメデスのイラスト]
その時イエスの『奇跡』を目の当たりにした人々は、そこに『神様の存在』を見た。
人間の心が身体に与える影響がどれほど大きいかをさらに掘り下げるなら、『第31』の黄金律を見ると良いだろう。
真理(愛・神)とは、永久不変に、断固としてそこに存在しているものであり、甚大なエネルギーを秘めているものである。人間は、そこに近づくように合わせに行く使命を背負っている可能性が高く、また、未だにその真理の実態を完全に把握出来ていない可能性が高い。
確かなものは『神=愛=真理』だけであり、それを断固として説く者には後光が差し、揺るぎない権威が与えられる。しかしそれは、『彼らが崇高』だからではない。『彼らが説く法則』、つまり『真理(愛・神)』こそが限りなく厳かで揺るぎなく、崇高だからだ。その証拠に、もし彼らがそれ(真理・愛・神))から逸れたとき、彼らの威厳は失われる。
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