・NEXT⇒(『私は、ある』)
更に、この記事を捻出するために踏んだステップをわかりやすく最初にまとめておく。
私は『無宗教』である。
この記事はかなり難しい内容なので、下記に簡潔版の記事も用意した。
また、この記事を読む前に見るべき『序章』的記事はこれだ。『ドラゴンボール』の世界を知らない人は見る必要はない。
ていうか、神ってなんなんだよ?
私がそう強く疑問を抱いたのは、小学校5年生頃だろうか。物心がついたときには両親は食事の前に祈りをささげ、我々は聖書を持って日曜学校なる集会へ行っていた。私の両親はクリスチャンだ。私は、日本で0.8~1%しかいないと言われている、クリスチャンの家庭に生まれた。そして私はクリスチャンではなかった。それはつまり、私の周りには常に、私の理解者が皆無であったことを意味する。
ショーペン・ハウエルはこう言い、
フロイトは言った。
どれほどの衝突があっただろうか。どれほどの葛藤があっただろうか。この問題をスルー(見て見ぬふり)して生きていけるほど私は器用ではない。この記事は、『神』というこの世で最もスケールが大きく、実態のわからないテーマを『求めていないのに(強制的に)』幼少期から突きつけられ、20年以上もの間、頭を抱えさせ、悩ませ、考えさせれた私だからこそ書ける、 魂の力作である。
この記事を理解してから、54番目の最後の記事、
を見る。そうすれば人間は、『世界平和』という最高到達地点への道が一気に開いて見えることになる。この話は、私が未熟であり、人間が恒久的に未熟である以上、未熟な内容であるが、考える価値はあると断言させてもらう。
これは、『8,000の名言から浮かび上がった38の黄金律』同様、私の成長とともに成長していく記事である。もし探究の途中でこの見解が崩れるのであれば、別にそれでもいい。別に私は依存していない。ただ、人生を真剣に生きていたら、本当に自然とこの考え方が浮かび上がってきて、しかもこれがそう簡単には崩れそうにないのだ。私が生きている限りこの記事は常に更新を続ける。この53番目、54番目の記事を書くために、このサイトの残りの全ページが存在していると言ってもいい。
この世にこのテーマ以上に探究しがいのあるものはない。というのが私の個人的な意見だ。黄金律同様、『命を使い切る』ことを念頭に置いた自分の人生の中で、たとえこれ以外のことで私がぞんざいな人生を送ったとしても、これを遺せただけで私が生きた価値はあったと、心底から断言できるのだ。ただし、私は専門家ではないので『具体的な証明』はできないので、あしからず。
具体的ではなく抽象的なので『崩れない』のはある意味当然である。
これらの記事がこのサイト上で最もボリュームのある記事だが、まだまだ未完成だ。初期の記事を見る人は、『ピラミッドの基礎・土台』を見るつもりで見ていただきたい。私が生きてさえいれば、自分の命の日数の間に、必ずこのピラミッドは完成させる。
言っておくが私は『無宗教』だ。そして、『宗教を強要されて育った』。私がこのサイトで何度も何度もこのキーワードを繰り返す理由は、
『私がこう言わなければ、これらの事実が隠蔽されるから』
である。私は『私の弁護士』なのだ。今の私なら大人だからいい。だが、かつての私はまだ子供だった。私はたとえこの世で誰一人『彼』の理解者が現われなくても、私だけは絶対に『彼』の味方であり続ける。
両親の一人、母親はまだ生きている。関係は相変わらずである。ただ、過去と大きく違うのは、私が母に、これらの決定的な事実を20年越しに真正面から突きつけたことにより、以前よりも互いの理解が深まったということである。
…こういう暴言を平気な顔をして淡々と言った母親。彼女のことを悪く言いたくはない。誰だって親に対しては特別な感情を持っている。だが、これは『事実』なのだ。私はただ、事実を書いているだけなのだ。人間はとても、愚かであり、事実はとても、残酷なのである。それだけではない。その後母親は、その事実を『隠蔽』した。
それは、それからたった数日しか経っていないある朝のことだった。そしてその一件は、私と両親との間にあった問題の、氷山の一角に過ぎない。
想像してもらいたい。幼少時代にこうした『理不尽がまかり通る』のを何度も目の当たりにして、あなたの心は本当に歪むことはないだろうか。そしてその想像はもちろん、あなたが『末端冷え性』と『そうでない人』の両方を想像して、その二人が『真冬に冷たい水』に触れたときに感じる、二人の『感想(体感)の差異』についてしっかりと考えたうえで行い、『世の中にはピーナツアレルギーのため、ピーナツを食べた人とキスをしただけで死ぬ人がいる』という事実を熟考したうえで、間違っても偏った意見だけで判断せず、それを正当に評価していただきたい。
私が力強くこれらの事実を連呼する理由、『隠蔽』というキーワードを使う理由、そして、『神の存在』を疑う理由などが分かったはずだ。クリスチャンを装う人間が、自分の都合のいいように事実を捏造し、真実を隠蔽するのを見て、『その人物が崇拝する神』を信じる人間などいないだろう。
私の強いられてきた環境と、そこで形成された人格が少しは見えてきたはずだ。であるからして、私は筋金入りの無宗教者だ。『だからこそ』興味深いのである。私のような人間がこの結論に辿り着いたということが、とても興味深いのである。
私は一応、この世に存在する全ての宗教や信仰(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、儒教、道教、ヒンズー教、神道等)に一通り(30%程度のみ)目を向けた。そしてそこに深入りせず、一歩退いた目線で考えた時、この事実が浮かび上がってきたのだ。一歩退いているのは、私の両親がクリスチャンであり、私はそれを強要されて育てられ、そこに『虚無の心』と『違和感』があったからだ。つまり、『その虚無を感じたまま依存することは、間違いなく悔いの残る人生に繋がっている』という確信があった。
私は『彼』のため、そして両親の名誉のためにも、ここで追求する実態について、書く使命があるのだ。
確かに、各宗教やこの世の教えは、『部分的に見れば』極めて傾聴に値する意見がある。だがそう考えると、全ての宗教にも同じように、目を凝らせば首をかしげる部分があるはずだ。例えば、
ちなみに李元馥の『世界の宗教―ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・ヒンズー教・仏教・儒教・その他』には、
『極楽は他の宗教で考えられているような、いわゆる天国のことではなく、心の中の天国のこと』
だとあった。つまり、
『極楽、地獄という異世界の場所を指示したのではなく、この世にそういう世界があって、戦争のような最悪の環境を強いられている状況を『地獄』と言い、その真逆のような平和な環境を『極楽』と言う』
というわけだ。いわゆる『天国と地獄』の発想の大元はゾロアスター教で、それがユダヤ教、キリスト教らに影響した。終末論(最後の審判)、救世主論(キリスト等のメシア(救世主)が現われる)という発想も、ゾロアスター教が最初である。
ゾロアスター教の創始者ゾロアスター(ツラトゥストラ)は紀元前1600年頃を生きたとされていて、モーセが紀元前1280年頃、ヘブル人をエジプトから脱出させ、シナイ山で神ヤハウェと契約を結んで『十戒』を作ったことがユダヤ教の最初だから、ゾロアスター教の方が最初に存在しているという見方が出来る。
これらの事実は全て、どこか偏りがあって、不明確であるという印象を受けるわけだ。また、『四聖』のページに書いた様に、『一つの信仰を持つことで、その他の信仰を持つ人間との間に隔たりが出来る』という事実もある。従って、それらの教えを突き詰めれば突き詰めるほど虚無にぶち当たることになる。たとえ一つの教えを見極めたとしても、『他の教えの存在やそれとの矛盾』という決定的な事実がある以上、どちらにせよそこには虚無が訪れることになる。(追記:ここまで)
また、ドイツの哲学者、ニーチェなどは、
と呼んでいるわけだが、一つの宗教を認めることで、世界に存在する(した)宗教に首を傾げたあらゆる賢明な魂も、『無知な馬鹿』ということになってしまう。 それはいささか、賢明な判断とはいえそうもない。
9.11を経て、宗教についての疑問を爆発させた、『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』にはこうある。
ジョン・レノンとともに、宗教のない世界を想像(イマジン)してみてほしい。
- 自爆テロリスト
- 9.11(世界貿易センタービルの飛行機テロ)
- 7.7(ロンドン同時多発テロ)
- 十字軍
- 魔女狩り
- 火薬陰謀事件(1605年に英国でカトリック教徒が起こした政府転覆未遂事件)
- インド分割(イスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立に起因する)
- イスラエル/パレスチナ戦争
- セルビア人/クロアチア人/イスラム教徒の大虐殺(旧ユーゴスラビアにおける)
- キリスト殺しのユダヤ人迫害
- 北アイルランド紛争
- 名誉殺人(一族の名誉を怪我した人間を殺すというイスラム教圏の風習)
- ふっくらさせた髪型でキンキラの服を着て、騙されやすい人々から金を巻き上げるテレビ伝道師
それらすべてが存在しない世界を想像してみてほしい。太古の仏像を破壊するタリバンのいない、冒涜者を後悔斬首することのない、女性が肌をほんのわずか見せたという罪で鞭打たれることのない世界を想像してみてほしい。
リチャード・ドーキンスは私と同じように、『各宗教の違和感』について語っている。(追記:ここまで)
しかし、それぞれにはもちろん素晴らしい一面もある。全てを挙げればきりがないが、例えば『ユダヤ人』の話で言えば、世界で一番ノーベル賞を取っている人種は、ユダヤ人だ。
彼らは皆、ユダヤ人であり、彼らがした偉業は誰もが認めるものである。
それならば、『全てが平等に、正しくもあり、不完全である可能性がある』という事実を原則に置き、これらの教えや、その根幹にあるもの、起因、そしてその存在意義等についての共通点を見つけ出そうと考えた。どうすればこの『正しくもあり、不完全である事実』につじつまが合うのか、ということを考え抜いたのだ。
そして、『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』という考え方があれば、『何教が正しい』ということにはならず、全人間がそこから逸れれば間違い、近づけば正しくなり、威厳を得る、ということになる。ユダヤ人、ムスリム、クリスチャン、仏教徒らの中にも全てに等しく、正しい人とそうでない人がいる、という事実にもつじつまが合う。
私は深入りせず、一歩退いているからこそ無宗教であり、偏っていたり依存していない。だからこそそれぞれの視点から見て『未熟』であるが、その未熟である人間にしか見えない景色もある。私は72億人、いや、この世で息をする全人間に通用する話を見極めたいのである。それは、偏った宗教を強要された人間としての使命でもあるのだ。
そして、もしこの話が本当なのであれば、私は『無宗教者』だとしても、『無神論者』ではないということになる。(先ほど挙げたリチャード・ドーキンスは断固とした無神論者であり、私が言いたいことをスバリ言ってくれている部分はあるが、私と彼が違うところは、私は『無宗教者』だとしても、『無神論者』ではないということだ。)
ではここで、簡単に専門用語を再確認しよう。
一般に創造者としての神は認めるが、神を人格的存在とは認めず啓示を否定する哲学・神学説。神の活動性は宇宙の創造に限られ、それ以後の宇宙は自己発展する力を持つとされる。人間理性の存在をその説の前提とし、奇跡・予言などによる神の介入はあり得ないとして排斥される。ーWikipedia
神と宇宙、または神と自然とは同一であるとみなす哲学的・宗教的立場である。ーWikipedia 『神は妄想である』から引用して付け加えると、『超自然的(自然界の法則を超えたこと、理性では説明のつかない神秘的なものごと)な神をまったく信じないが、神という単語を、超自然的なものではない<自然>、あるいは宇宙、あるいは宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語として使う。
世界観の説明に神の存在、意思の介在などが存在しない、または不要と主張する考え方である。ーWikipedia
「神は存在する」という主張のこと。対義語は無神論。多くの宗教は、その教義の中に有神論を含んでおり、その宗教が信仰する神が唯一なのか複数なのかによって一神教、多神教などに分けられる。ーWikipedia
ものごとの本質は人には認識することが不可能である、とする立場のこと。ーWikipedia
『神は妄想である』にはこうある。
『理神論者は、彼らの神が祈りに応えず、罪や懺悔に関心をもたず、私たちの考えを読み取ったりせず、気まぐれな奇跡によって干渉したりしないという点で、有神論者とは異なる。
理神論者は、彼らの神が、汎神論者の神のように宇宙の法則の比喩的あるいは詩的な『同義語』ではなく、ある種の宇宙的な知性である点で汎神論者とは異なる。汎神論は潤色された無神論であり、理神論は薄めた有神論なのである。
(中略)『神は老獪なれど、悪意はない』や、『神はサイコロを振らない』や、『宇宙を創造するとき神に選択肢はあったのか?』といった有名なアインシュタイン語録は、どう考えても、理神論的ではなく汎神論的であり、間違っても有神論ではない。
『神はサイコロを振らない』は『すべての事柄の核心に偶然性が横たわっているわけではない』と翻訳されるべきである。『宇宙を想像するとき神に選択肢はあったのか?』は『宇宙は今ある形以外のやり方で始まることができただろうか?』という意味である。アインシュタインは、『神』を純粋に比喩的、詩的な意味で使っていたのである。スティーブン・ホーキングもそうだし、ときどきうっかり宗教的な比喩を口にしてしまう物理学者のほとんどもそうである。
私はこうして考えてみると、『アインシュタイン(汎神論者)よりの発想』を持っているわけだが、しかし、『神がビッグバンを起こした』等の、考えても絶対にわからない問題は考えないことにしているので、『理神論』と『無神論』的ではないとは断言できない。理神論の、『神の活動性は宇宙の創造に限られ、それ以後の宇宙は自己発展する力を持つとされる。』という考え方は面白いと思うし、この記事を見ればわかるが、私は無神論者である、ということは断言できない。
つまりまとめると私は、
ということになる。(追記:ここまで)
アインシュタインが亡くなったとき、生前の希望に従い、公の葬儀は行われず、プリンストンの葬儀パーラーにはわずか12人が集まった。無信仰ゆえに牧師の説教もなく、花や音楽も控えられた。遺体は茶毘(だび。火葬)に付され、墓を残すことを望まない遺言のとおり、遺灰は近くのデラウェア川に流された。
私はこの考え方にとても強く共感を覚える。私は『あなたへ』が公開されるとき、(高倉健の映画を観れるのは、もしかしたらこれが最後になるかもしれない)と思って、映画館でその作品を観た。そこで初めて私は高倉健の奥深さを知り、作中で描かれていた『散骨(海に遺灰をまく)』の具体的な想像をした。
私は、(別にこれでもいい)と思った。墓を作るといっても、家族と一緒のキリスト教系のものにするのか、あるいは、私が一度も行ったことがなく、多くの日本人にとってなじみ深い、『霊園』や『墓地』などの場所に、自分の墓を作るのか。そう考えた時、(別にこれでもいい)と思った。むしろ、『エネルギー不変の法則』を考えたとき、それが自然な姿なのではないかと思った。
私は『キリスト教徒ではない』という決定的な理由から、愛する実の妹の結婚式(キリスト教式で行われた)に参加しなかった。そして当然、自分の結婚式も葬式も、あらゆる宗教的な儀式を取り入れない覚悟を持っている。そんな筋金入りの『無宗教者』である。33歳の私はまだ具体的に死後のことは決めていないが、(恐らくこうなるだろう)というおおよその流れは、今の時点でも見えている。(追記:ここまで)
ではここで、ニーチェの言う『永劫回帰』という事実を考えてみる。意味は、
「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。
ということ。つまり、
ビッグバン(破壊&宇宙創造)⇒宇宙が誕生⇒人間が誕生⇒ビッグバン(破壊&宇宙創造)⇒宇宙が誕生⇒人間が誕生⇒
というループを無限に繰り返すということ。
これは私も考えたことがある。なぜなら、人間のこの技術の進歩は、ある種感動的である。このたった20年で考えただけでも、けた違いの進歩を見せている。例えば、Windows95で感動していた死んだ父親は、この現代の技術力のすごさを知らないのだ。白黒テレビが登場したとき、人々はそのテレビに群がった。だが今はスマホでテレビが見れても、人々はそれが『当たり前だ』と口をそろえる。白黒テレビでさえ数千年前に生きた人々からすれば『当たり前』ではない大偉業だ。このようにして、人間の技術は未来に行けば行くほど、過去の人間の度肝を抜くのがセオリーである。
しかしおかしい。どう考えてもこの先に行けば行くほど、過去の人間が大きく上を見上げるべく圧倒的な技術がそこにある。だがその道の中で、その数千年という時間よりも遥かに長い時間、例えば、今から1,000万年ほどの時間をかければ、『我々過去の人間が度肝を抜くはずの 』、タイムマシンが発明されてもおかしくはない。だが、その未来の人間が過去である今我々が生きている現在にやってこないことがおかしい。
タイムパトロールのような人間が過去の人間との接触を阻止しているとしても、人間である以上、何らかのミスがあるはず。そして何らかのミスがあるのであれば、それが現在に何かの『現象』として起こるが、いわゆる『心霊現象』などをそう考えたとしても、私は別にそういう現象を見たことがない。テレビ番組で観るだけだ(つまり、演出がされている)。
そう考えると、明らかにこの先に待っているのは『SFで空想される発展した世界』というよりは、『虚無』と考える方が合理的である。ということは、
『人間が研鑚した技術はこの先に行けばもっともっと優れていく一方になる』
という考え方ではなく、
『おそらくどこかで一度虚無になり、リセットされる(例えば、他の銀河と衝突したり、宇宙が膨張⇒収縮というアコーディオン的な動きをして、また最初の爆発(ビッグバン)に戻る)。だから過去である現在に何も影響がない』
という考え方の方が、納得がいくのである。
そうなると『ビッグバン』ではなく、収縮のときの爆発は『ビッグクランチ(粉砕)』となる。ビッグバン⇒膨張⇒収縮⇒ビッグクランチというアコーディオン形式。
そう考えたとき、
実は今の我々は、そういう無限ループを繰り返しているのではないか?
という風に考えたのだ。つまり、人間の進歩は、タイムマシンを発明するほどの能力に達する前に、尽きてしまう。これがニーチェの言うこの『永劫回帰』の意味とほぼ同じ発想だろう。(アコーディオンという発想はリチャード・ドーキンスの本に書いてあったものだ。)
それを書いたのは、コペルニクスのこの記事だ。
ニーチェの生まれる10年前に他界した、近代哲学の完成者、ゲオルク・ヘーゲルの言う『弁証法』とは、
『ある一つの主張(テーゼ)があれば、必ず反対意見(アンチテーゼ)が存在する。これを否定せず、お互いの良いところを取り入れて、統一(アウフヘーベン)し、新たな考えを創り出せば、一つ高い次元の知識が完成する。これを繰り返していけば、人間がいつか絶対的な真理である『絶対知』を手に入れることができる。この『絶対知』を手にするまでの一連の手法が弁証法だ。弁証法は人間の思考や進化だけではなく、自然や社会など世の中すべての進化の原理原則だ。』
ということ。だがこれはニーチェの言う『永劫回帰』が事実なのだとしたら、人間はこの『絶対知』を手に入れる前に、あるいは手に入れたとしても、またリセットされてしまう。
しかしそれでもニーチェは、この永劫回帰を前向きに受け入れ、既存の価値に囚われずに新しい価値を生み出すべきだと説き、そしてそれが出来る人間を『超人』と呼んだ。ニーチェにとって超人とは、真の意味で自由な存在なのである。そして私はその『超人』になれと主張するニーチェの意見に、心から賛同できる。そしてその永劫回帰たる考え方も、50%ほどの高確率で、あり得ると考えている。(無知であるが故)(追記:ここまで)
とにかく私は、これらの記事では、『世界(ミクロからマクロまで)のデザイナー(設計者・創造者)としての神』とは隔離して考えている。つまり、ビッグバンを起こしたのが『誰』か、あるいは『何』か、またその想像できる神(創造主)の上に、さらなる神が『いない』と断定する根拠はどこにあるか、創造論、進化論のどちらが正しいか、等というような問題とは切り離して考えている。
もちろん、『死後の世界』についても同じだ。切り離して考えている。というか、
という問題は、今までこの世を生きた全ての人がそうだったように、自分の寿命の間にも100%に近い確率で答えは出ない。とくに『死後の世界』に関しては、生きている人間なら全員、何人たりとも知ることは絶対にできない。確かに『予想』したり、各々で『確信』を持つことはできる。だが、イギリスの哲学者、ジョン・ロックが言った様に、
のである。それ故、『(私が)考えても絶対に答えがわからないこと』は考えず、『(私が)わかっていること、確かにそう感じること』のみに焦点を当てて考えている。
もしかしたらそうなんじゃないか?
という『一つの見解』として解釈するべきである。従って、『何かしらのヒント』にはなっても、『誰かの心が著しく傷つく』ということには絶対にならない。
ではいよいよ本題に入ろう。
この記事の続きだ。まず私が思いついたのは、この記事に書いたような事実と、そして『呼称の差異』についてである。例えば、『リンゴ』がある。
だが、
と言うこともできる。国によって言い方が違ったり、リンゴではなく『果物』と言うこともできるわけだ。『呼称の差異』があるのだ。私はどうもこの事実に改めて注目したとき、妙な違和感を覚えた。
『同じもの』なのに呼称が違う…?
『最初からあるもの』に人々が独自に名称をつけた…?
では一体、『どれ』が正しい名称なのか…?
そしてその後、『超訳ニーチェの言葉』の著者、白鳥晴彦の『超訳聖書の言葉』にこう書いてあるのを見た。
聖書の主題を一言にまとめてしまうならば、それは『愛』というしかないだろう。あらゆる文章形式において、神の愛の多彩な様相が描かれているのが聖書だと私は思う。
かつては、旧約聖書の神は恐れる神であり、一方の新約聖書の神はやさしい神である、などと説明されることがあった。私も若いときはそう感じていたが、聖書を40年読んできて、どちらも愛の神だという印象を今は持っている。しかし、愛の神という言い方はあまりにも詩的かもしれない。また、『神』というこの日本語の響きと語の由来は正確な理解を妨げるだろう。なぜならば、日本語の神とはつまるところ『お上』である将軍や天皇を指しているからだ。だから、神棚や神社にまつられている神は暴力的な支配力を持った人間のことになる。
では、聖書における神とは何か。それは人格を持った存在であり、いっさいを想像する者のことだ。しかし、この説明も詩的、抽象的であることには変わりはない。言語表現はすべて抽象的なものだということをさしおいてもだ。
すると、神についてどのように表現できるのか。おそらく、不可能だろう。もし神が本当に世界を想像した存在であるならば、その被創造物の一つである人が神を言い表すことはできない。また、言い表すことができるのだとしたら、言い表されたものは神ではないことになるだろう。おそらく、聖書全体によって神が語られている。にもかかわらず、新約聖書に修められているいくつかの手紙類については、神は愛だと述べている。神の別称が愛なのである。それは性愛をも含んだ大きな意味の愛である。
その意味で、天国も神の国も愛ある場所の言い換えとして描かれている。人間が二人以上そこにいて愛があるならば、そこは天国であり神の国なのだ。天の国というのは空想的な概念ではないし、物理的に空高くにある見えない場所でもないのだ。よって聖書では、罪とは互いに愛し合わないことだといえる。愛し合わないのは神の意思にそむくことだからだ。信仰とは神を拝むことではなく、人が互いに愛し合うことなのだ。そうなったときのことを、神の国の到来と呼んでいるのだ。
つまり、『神=愛』であるという図式を見たのだ。そしてこの図式は、他の様々な文献でも見ることが出来た。両親からクリスチャンになることを強要され、宗教を死ぬほど嫌いになっていた私にとって、このような言い回しかつ表現は、有難いくらいに腑に落ちた。
そうか。別に、『神』という言葉は単なる言葉で、かつ日本語で、その言葉自体に意味があるわけではないんだ。
たとえばリンゴやアップルのように、人によって言い回しが変わる。『神』という言葉はたかだがその程度のものであり、重要なのは、『その言葉が指し示すもの』の方なんだ。
『神』と『愛』が指し示すものは、同じなのかもしれない。
『神』には不信感しかない。それが人間なのかも、天地を創造したのかも、何もかもが不明だし、2、3,000年前にしかよく出現しなかったという事実もきな臭いとしか言いようがない。どこかの神を信じたら、違うどこかの神と対立するような気配も気に食わない。だが、『愛』であれば私のような人間でもハッキリと認識することができる。その概念が極めて高潔かつ崇高で、最も大事にしなければならないものであるという認識が、ハッキリとあるのだ。
従って、もし『神=愛』なのであれば、私はその『神』が好きになれるかもしれない。それだったら、全ての人間が重視するべきものであるということが納得できる。私の頭に、ふとそういう発想がよぎった。
この場合、『愛している』が『神している』ということにはならない。そもそも『愛している』も人間が勝手に作り出した言葉であり、日本人だけが使う言葉である。そうではなく、『愛がある』ところには『神がある』という考え方になる。前述した『汎神論』的な考え方を思い出せばわかるように、ここでいう『神・愛』というものは、『法則』のような概念を指す。
つまり、我々が『愛』だと認識しているものは、我々が『神』と言っているものと同じものである可能性があるということ。我々が『愛』だと認識しているその崇高な法則のようなものの威厳は、我々が『神』と言っているものと同じものである可能性があるということ。(詳しくは下記の記事参照)
例えば、『人を愛す』ということの説明はこうだ。『人を愛し過ぎて、虐待をした』、『人を愛し過ぎて殺してしまった』ということがあるだろう。また、『人を愛し過ぎて、嫉妬に心を支配され、復讐や嫌がらせをしてしまった』ということがある。しかし、それは結局その人のことを愛してはいない。愛の意味を勘違いしているからこそ、道を逸れてしまい、自分の心が虚無に陥ったのだ。詳しくは今上に張った記事を確認したい。
だが、まだこの探究は続いた。
本当に『神=愛』だけか?もっとほかに呼称はないか?
すると、まだあったのだ。これらの言葉に匹敵するほどの、甚大なエネルギーを秘めた言葉がまだあった。それは、『真理』である。
いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。
そう考えると、『真理』とは、『神』と『愛』という言葉が指し示すものと同じものを指し示している可能性が高いとにらんだ。そしてここがポイントだが、この『真理が神(愛)と等しいものである』という事実は、私が自力で辿り着いたということである。後で書くが、この自力で辿り着いたということが、極めて重要になってくる。
ブッダは言った。
時間は流れ、宇宙はうごめき、命の火は消え、物質は分かれる。風は吹き荒れ、大地は鳴り響き、海は揺らいで、炎は燃え盛る。
この、諸行無常の世界の中で、『真理』という存在は、極めて異彩を放っている。
フランスの人文主義者、フランソワ・ラブレーは言った。
真理は、変えることは出来ない。例えば時間はその代表的な概念であり、同じく、変えることは出来ない(時間の感じる感覚が相対的かどうかは置いておいて)。というか、『諸行無常』自体が真理なのだが、ここにあるのは圧倒的な力だ。およそ人間が太刀打ちできるような力ではない。
例えば自分の人生を何よりも真理(Satya)探究という目的のために捧げ、輪廻(生まれ変わり)等の価値観を信じるヒンズー教の指導者ガンジーは、自分の理念をまとめ、初めは『神は真理である』と述べていたが、後になると『真理は神である』という言葉に変えている。(Wikipedia)
つまり、『神が真理である』だと、『(特定の)神様こそが絶対なのだ』ということになるが、『真理は神である』だと、『真理という絶対不変のものがあるのだ』ということになり、そして、その真理の探究に人生を捧げたガンジーは、その生涯で『真理の全て』を突きとめたかどうかは、定かではないのだ。むしろ、その様に心や言葉に変化が見られていることからも、常にそれを模索し、探究していた可能性が高い。だとすると、傍から見ると首をかしげざるを得ない、『輪廻』や『カースト制度』は、真理かもしれないし、真理かどうかの断定はできないということになる。
ガンジーは、その真理探究の人生の中で、『神は真理である』から『真理は神である』という言葉に変えたわけだ。これは、前述したように、 『真理という絶対不変のものがあるのだ』ということを訴えたかったのである。
ここからは、『神』という言葉を過信するのではなく、『その言葉が指し示すもの』に目を向けるべきであるというメッセージが伝わってくるはずだ。もしそうではなく、『神を盛大に評価せよ』ということなのであれば、言葉を言い換える必要はなく、そのまま
と言っておけばよかった。だが、そうはしなかった。それはつまり、『神』という言葉自体に依存することが『逸れている』という事実に気付いたからなのだ。
もう一度言おう。私は、このガンジーの『真理は神である』という言葉を見てから『神=真理』の図式を想像したのではない。私が自力で想像した図式に『神=真理』というものがあり、その考え方を強化していく途中でガンジーの言葉に出合ったのである。
つまり、『神=真理』という図式がここで浮上するようになる。それならば、
『神=愛』
なのだから、おのずとこれらの図式はこうまとめられるようになる。
『神=愛=真理』
これらは全て、同じものを指し示した言葉である可能性が高いのだ。※追記テキストの情報で考えれば、アインシュタインは『神=真理』という考え方で認知していただろう。また、
の記事に書いた様に、イスラム教の『聖戦(ジ・ハード)』における、『神の為に奮闘する』という意味も、この説明でつじつまが合うことになる。『神の為に奮闘する』というのは、『神・真理・愛の為に奮闘する』という意味で解釈するわけだから、『真理の為に奮闘する』で解釈すれば、『正義は勝たなければならない』ということになり、『愛の為に奮闘する』で解釈すれば、『良心が優位であるべきである』ということになる。
それなのに、『聖戦だ』と言って不和を起こし、あるいは殺人をし、『聖戦(内なる戦い)に負ける』のだから、そこにいるのは、正義が負け、良心が打ち砕かれた、心を闇に支配された、虚無に陥った人間となるのだ。
ドストエフスキーは言った。
それを阻止するために自分の心で闘う。これこそが『聖戦(ジ・ハード)』の真の意味なのである。これで、
『神=愛=真理』
という図式の信憑性が増した。確かにこれなら、『神』という言葉に拒絶反応を示す人間でも、『愛、真理』という言葉の多様性があることによって、それに対する斜に構えた態度が激減することになる。特定の人間だけではなく、この世を生きる全ての人間が、これらの図式によって救われることになるのだ。
私がそうだったのだから。親から宗教を強要されて死ぬほど宗教の存在を嫌いになったこの私が、この図式を理解することによって、心底から納得できたのだから。
そして何より注目すべきなのは、この三つの共通点だ。これらは三つとも、『ここから逸れれば虚無に陥り、近づくと心に充足を覚える』という共通点をもっている。その詳細は、
に書いた。
『黄金律』に書いたのはこうだ。
真理(愛・神)とは、永久不変に、断固としてそこに存在しているものであり、甚大なエネルギーを秘めているものである。人間は、そこに近づくように合わせに行く使命を背負っている可能性が高く、また、未だにその真理の実態を完全に把握出来ていない可能性が高い。
確かなものは『神=愛=真理』だけであり、それを断固として説く者には後光が差し、揺るぎない権威が与えられる。しかしそれは、『彼らが崇高』だからではない。『彼らが説く法則』、つまり『真理(愛・神)』こそが限りなく厳かで揺るぎなく、崇高だからだ。その証拠に、もし彼らがそれ(真理・愛・神)から逸れたとき、彼らの威厳は失われる。
私はブッダのこの記事で、
こう書いた。
私は確信した。私のような人間でも、信仰に敬虔な人間でも、 辿り着く場所が同じだという事実に直面して、一見すると混沌として無秩序な、虚しくも儚いこの世に、この人生に、確かに光る、一本の道があるということを。『それ』を教えて、決してぶれなかったのが、ブッダやキリストたちであるということ。そして、『それ』の名を、『真理』と呼び、ときに『神』と呼ぶのだと。それを教わり、重んじることこそ、『宗教』なのだと。
宗教が死ぬほど嫌いだった私が、『高潔な人生』を自力で模索していたら、この考え方にぶつかったのだ。辿り着く場所が同じだった。これは、『宗教、神様、偽善』などが虫唾が走るほど嫌いだった私にとって、極めて興味深い事実だったのだ。
『神』というのは、『神様』ではなく、『人間の姿をした者』でもなく、『断固としてそこにあるもの』であり、『規範』であり、『道しるべ』である可能性が高い。
にも書いた様に、『神は、ある』のだ。『いる』のではなく、『ある』。何しろ、『愛は、ある』、『真理は、ある』と表現するだろう。同じように神も、『ある』と表現する可能性が高いのだ。そして、目には見えず、人の姿をしておらず、ミクロからマクロの規模に特定されることなく、人間の認識の範囲を超えていて、しかし確かに人間も感じ取ることが出来る圧倒的なもの、ということを考えた時、
あれらが発する威厳は、どうも等しく、ただならぬものを感じる。つまり、あの威厳の正体は、全て同じものの可能性が高いのだ。何よりこれらは三つとも、『ここから逸れれば虚無に陥り、近づくと心に充足を覚える』という共通点をもっている。
特定の人がそこに神様の存在を感じる(神様という支配者に『救われた』と感じる)と思うのは、まるで奇跡を体験した(間違いなく自分たちが考えられるようなものではない、自分たち以外の何かの力が働いた)かのように、心が充足する(温まる)のを覚えるからなのだ。
しかし恐らくそれは『神様の仕業』ではない。なぜなら、特定の人物の利益を満たす為だけに存在する神様など、人間の創り出した虚像だからだ。もし神様という人格神がいると仮定した場合でも、その人は絶対に人間(特にその特定の人物)だけの味方ではない。人が食べるため、着るために殺生され、人のために実験される動物、踏みつぶし、埋め立てて殺す昆虫、伐採する植物、目に見えない小さな生命を含めた、生きとし生けるものすべての味方であることはもちろん、
それ以外の万物すべての味方であり、決して人間だけのために存在しているのではない。この決定的な事実を直視できない視野の狭い人間本位な人間には、どちらにせよ『神(創造者)』の名を語る資格はない。
我々は、この『法則』に触れるか、触れないかということで、心が『充足』したり、あるいは『虚無』に陥るようになっているのだ。『神様』がいるのではない。まるで、暖炉に近づけば暖まり、離れれば冷えていくように、人間がそこに近づけば心は『充足』し、そこから逸れれば心は『虚無』になるのだ。
その法則は目に見えない故、人々はそれを各自で独自解釈し、『真理』と言ったり、『愛』と言ったり、『神』と言ったりしている。しかし実際には、人々はこれらが『何であるか』を正確に言い当てることができないし、未だにその全容も理解できていない。何しろこれらは目に見えないし、形をもっていないからだ。それにこれらは全て、人間が創り出した言葉であり、だとしたらその信憑性は低い。したがって、これら三つの『異なった的を射たはずの言葉』が指し示すものは、もしかしたら『同じもの』の可能性がある、ということは否定できない。
ゴッホは言った。
『真理=愛=神』。この三つの共通点はこうだ。
もちろんこれらが同じものであるという確率は100%ではない。だが、ここまでこれらの共通点が一致するものは他にはなかなかないのだ。この法則に触れ、
[16世紀に描かれた、風呂に入ったアルキメデスのイラスト]
そして、もしそうだと仮定した場合、様々な疑問に説明を付けることができる。
※こういう絵を載せているが、私は神を『神様』という人格神として考えないことは、前述の『汎神論』のくだりで説明済みである。このイエスの絵についての更なる詳細は、『もしイエスが神(真理・愛)と一体化していたなら』に書いたが、これはこの記事を順々に見ていけばその記事に辿り着くようになっている。そもそも、この『神様の想像図』も『ハート=愛』のイメージも人間が勝手に作り出したものである。しかし、『法則』だけは、人間がこの世に生まれる前に存在していた。人間がそれを『カスタマイズ解釈』して、それぞれが全て独立していると誤解している、と考えるのである。
私はガンジーのこの言葉の記事にも書いている。
『神=真理=愛』
という図式なのである。『=』なのだ。我々が勝手に『それ』に対して様々な呼称の差異をつけているだけで、これらはすべて、同じものを指している可能性がある。
この発想があれば、『神はいるんだ!絶対にいるんだ!』という『執着』に繋がらない。『神というものは執着するものでも崇拝するものでもなく、そういう一切の人間の発想を超越した、厳かなもの』という発想になり、そこに残るのは、『真理(愛)への忠誠心』。
『神への忠誠心』だけしかなければ、その神を冒涜されたとき、激昂し、憤慨し、あるいは人を殺すこともあるが、『真理への忠誠心』がある人間は、激昂も憤慨も、怠惰も嫉妬も執着も、そして殺人もしない。そしてもちろん『真理への忠誠心』だけではなく、『愛への忠誠心』があった場合にも同じことなのである。
『神への忠誠心』を示す為、あるいは『個人的な殉教への憧れとその目的の達成』のために、罪のない人の命を奪うテロリズムは、この図式によって強く否定されることになるのだ。
何しろ『愛』とは、トルストイがこう言い、
あるいはこうも言ったように、
『没我(ぼつが。自分のことを一番最後に考え、利他を貫く心構え)』だからだ。『神の一部分しか見ていない』のでは不完全だ。そして、もしこの話が本当なのであれば、私は『無宗教者』だとしても、『無神論者』ではないということになる。私はそれ(神・愛・真理)を、信用しているからだ。
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