・NEXT⇒(解釈する人間)
この記事はかなり難しい内容なので、下記に簡潔版の記事も用意した。
Contents|目次
意味
『真理(愛・神)』は、『ある』
私は『無宗教』である。
『私が『神』という言葉を抵抗なく使えるようになったのは、その言葉自体に何の意味も無いことを理解したからだ。』
『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』
この記事の続きだ。私が書く、このサイトの中で最も重要な内容だと考えているのが、この記事に書く内容だ。だが、この記事を理解するために必要なのは、上記を含めたいくつかのリンクする記事だ。その記事に書いた様にこの記事も、私の成長とともに成長していく記事である。また私は専門家ではないので『具体的な証明』はできないので、あしからず。
我々人間は、この事実を絶対軸にして人生を生きるべきである可能性が極めて高いのだ。まず、上の記事の様に、
『神=愛=真理』
という図式を理解する。すると、
ああなんだ。神というのは単なる『日本語』であり、人間が勝手につけた『言葉』であり、あるいは、人間の姿をしているわけではなく、
真理とか愛といったように、目に見えるものではなく、例えば法律や常識などのように『目には見えないが確かにそこに存在しているもの』といったような解釈でいいんだ。
ということがわかってくるわけである。
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
そしてこの言葉を考えてみる。すると、『真理(愛・神)』は、『ある』のであり、そして人間は、そこに寄っていくことで充足し、逸れれば逸れるほど虚無に陥るようになっていることを思い知ることになる。
『神=愛=真理』だ。つまり、これらは全て同じものの可能性が高いのだ。何よりこれらは三つとも、『ここから逸れれば虚無に陥り、近づくと心に充足を覚える』という共通点をもっている。だからこそ人は、心が温まったときにそこに神様の存在を感じる(神様という支配者に救われたと感じる)のだ。
逸れると訪れる虚無
『黄金律』に書いたのはこうだ。
真理(愛・神)とは、永久不変に、断固としてそこに存在しているものであり、甚大なエネルギーを秘めているものである。人間は、そこに近づくように合わせに行く使命を背負っている可能性が高く、また、未だにその真理の実態を完全に把握出来ていない可能性が高い。
確かなものは『神=愛=真理』だけであり、それを断固として説く者には後光が差し、揺るぎない権威が与えられる。しかしそれは、『彼らが崇高』だからではない。『彼らが説く法則』、つまり『真理(愛・神)』こそが限りなく厳かで揺るぎなく、崇高だからだ。その証拠に、もし彼らがそれ(真理・愛・神)から逸れたとき、彼らの威厳は失われる。
『逸れると虚無になる』ということは、その逆で、『近づけると充足する』ということだ。つまり、『人を愛する』ということは、『法則(愛・真理・神と人が呼んでいるもの)に心を近づける』という解釈になる。だから愛するときに人の心はその法則に近づくので、心が充足することを覚えるのだ。(この『心の持っていき方』については、下記に記載する新旧7つの大罪の項目で説明する。)
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
『真理=愛=神』だ。つまり、これらは全て同じものの可能性が高いのだ。何よりこれらは三つとも、『ここから逸れれば虚無に陥り、近づくと心に充足を覚える』という共通点をもっている。特定の人がそこに神様の存在を感じる(神様という支配者に『救われた』と感じる)と思うのは、まるで奇跡を体験した(間違いなく自分たちが考えられるようなものではない、自分たち以外の何かの力が働いた)かのように、心が充足する(温まる)のを覚えるからなのだ。
しかし恐らくそれは『神様の仕業』ではない。なぜなら、特定の人物の利益を満たす為だけに存在する神様など、人間の創り出した虚像だからだ。もし神様という人格神がいると仮定した場合でも、その人は絶対に人間(特にその特定の人物)だけの味方ではない。人が食べるため、着るために殺生され、人のために実験される動物、踏みつぶし、埋め立てて殺す昆虫、伐採する植物、目に見えない小さな生命を含めた、生きとし生けるものすべての味方であることはもちろん、
それ以外の万物すべての味方であり、決して人間だけのために存在しているのではない。この決定的な事実を直視できない視野の狭い人間本位な人間には、どちらにせよ『神(創造者)』の名を語る資格はない。
我々は、この『法則』に触れるか、触れないかということで、心が『充足』したり、あるいは『虚無』に陥るようになっているのだ。『神様』がいるのではない。まるで、暖炉に近づけば暖まり、離れれば冷えていくように、人間がそこに近づけば心は『充足』し、そこから逸れれば心は『虚無』になるのだ。
その法則は目に見えない故、人々はそれを各自で独自解釈し、『真理』と言ったり、『愛』と言ったり、『神』と言ったりしている。しかし実際には、人々はこれらが『何であるか』を正確に言い当てることができないし、未だにその全容も理解できていない。何しろこれらは目に見えないし、形をもっていないからだ。それにこれらは全て、人間が創り出した言葉であり、だとしたらその信憑性は低い。したがって、これら三つの『異なった的を射たはずの言葉』が指し示すものは、もしかしたら『同じもの』の可能性がある、ということは否定できない。
ゴッホは言った。
『真理=愛=神』。この三つの共通点はこうだ。
- 人の目に見えない
- 何ものにも支配されない
- 永久不変である
- 極めて厳かで尊い
- 圧倒的な威厳と力を持つ
- 未だに全容を理解できていない
- 逸れると虚無に近づく
- 近づくと充足を覚える
もちろんこれらが同じものであるという確率は100%ではない。だが、ここまでこれらの共通点が一致するものは他にはなかなかないのだ。この法則に触れ、
- それを『愛』だと認識した人は『愛っていいなあ。』と感じ、
- それを『神』だと認識した人は『神様、ありがとうございます…』と祈り、
- それを『真理』だと認識した人は『ユリイカ!』と叫ぶ。
[16世紀に描かれた、風呂に入ったアルキメデスのイラスト]
例えば『愛』ということで考えたとき、人を愛すれば気持ちが温かくなり、その気持ちに反すれば反するほど、心が荒んでいく。例えば子供の頭をなでて、子供が満面の笑みを浮かべて抱きついてくる。そこには間違いなく『愛』があり、二人の心は充足することを覚える
しかし、その子供を(愛でたい)という気持ちに反して、思い切りひっぱたき、泣きわめいたところをすかさず頭を足で踏んづけ、熱湯をかけるなどのひどいことをしたとする。そうすると、まず間違いなく子供の心身に深い深い傷ができ、そしてそれをした大人も(愛でたい)という気持ちに反しているのだから、心は虚無に侵されることになる。ここまでは誰にでもわかるはずだ。
そして重要なポイントは、『では、愛でたいと思っていない冷酷無比な人間であれば、気持ちに反することにはならないから、子供の方だけが虚無になり、大人の方は目的が達成でき、むしろ満たされるのではないか?』という疑問についてである。
そこで登場するのが、『神=愛=真理』の図式だ。
別に、『自分の気持ちに反したら、虚無に近づく』などということは言っていない。ここで言っているのは、
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
ということなのだ。自分の気持ちに反することももちろんそこに含まれるが、最も重要なのは、この図式への理解だ。その時二人は、間違いなく『真理(愛・神)』から逸れてしまった。だから二人の心は虚無に陥ることになる。
冷酷無比の人間の場合だろうと関係ない。もし、その場その瞬間でその人間の心が快楽に包まれたとしても、それは『一時的』なものだ。酒を飲み、麻薬をやったとき、人は意識が酩酊し、後悔する結末に至ることがある。例えばその状態で車を運転し、事故を起こして人の命を奪ってしまったらどうだ。
ストーカー行為も、ストーカー殺人もそうだ。例えば、こういうニュースがあった。
元交際相手の女性に、「このままじゃ貴女を殺してしまいそうで怖いんです」などとメールを送り、 女性を脅したとして、21歳の大学生の男が逮捕された。
だが、そこに『愛 』があるなら、そういうことにはならない。彼は『愛』の意味をはき違え、そしてそこから逸れたことにより、虚無に陥った。
『恋』は奪うもの。『愛』は与えるもの。
『恋』、『酒』、『麻薬』というものは一括りに出来ないと思うかもしれないが、実は脳科学者は知っている。恋愛中の脳とヘロイン使用時に、『テグメンタ』という部位が活性化する共通点があるということを。
ろくに調べもせずに詳しくは書けないが、彼は実際には相手を殺すことはなかった。だから自分の心の中に、彼女への『愛』が残っていたのかもしれない。
浮気も不倫もそうだ。彼ら曰く、『魔が刺した(差した)』というのだ。それが原因で離婚になったらどうなる。その時の精神的なダメージはどうだ。そして何より子供がいた場合、彼ら(彼女ら)のトラウマ(精神的外傷)にはならないのか。
嘘をついたり、誤魔化しをしたり、人が大勢いて、見栄や虚勢を張ってしまい一線を越えてしまったときも同じである。隠蔽も捏造も当然同じことだ。ということは、彼らはその時、『一時的に満たされた』事実があっても、それは単なる勘違いであり、後になって我を取り戻すと、その行為が間違っていたということに気づく。ということは、彼らは後で虚無に陥る。どれだけ時間稼ぎに躍起になろうとも無駄だ。彼らは後で必ず虚無に陥る。
ここにある『二つの人格』についての詳細は、
『人間には聖性と魔性の両面がある。聖性を優位にし、魔性を劣位にする、という闘いこそがジ・ハード(聖戦)なのである。』
ここに書いた。
それに、そうした『一時的な酩酊と後悔』という事実に該当しない場合であっても、例えばその場で射殺されることもあるし、射殺までいかなくても逮捕されることになるだろう。その様な卑劣極まりない行為をしたら、普通は周りの人間が黙っていない。また、逮捕自体が人間の心に虚無を与える。懲役中は常に事件のことを強制的に考えさせられ、更には、そういうレッテルがついてまわり、逮捕された後に刑務所で迫害を受けることもある。出所した後もついて回ることになる。
被害者とその家族、友人、知人たちからの目はどうだ。そこから長期的に受ける視線を本当に『快楽』だと思うことがあるだろうか。もし少しでも『煩わしい』と思うなら、異常犯罪者のふりをしていても、そこにあるのは『虚無』である。
では、テロリストはどうだろうか。爆弾で自爆したり、銃を乱射した後に自殺し、車を暴走させて追突死し、飛行機をジャックして墜落死するような人々はどうだろうか。彼らは『射殺』ではなく、自分の意志で死に、目的を達成したことで、達成感に満ち溢れたまま死ぬことになるだろうか。
いや、まず、自分に最愛の家族がいて、その家族の未来の幸せを願っているような人がそういうことはしない。また、
にも書いた様に、『神だけへの忠誠心』を示す為、あるいは『個人的な殉教への憧れとその目的の達成』のために、罪のない人の命を奪うテロリズムは、この図式によって強く否定されることになるのだ。
つまり、彼らの心に『愛』はなく、あるのは心の『虚無』だけだ。心にあった虚無を晴らすためにテロ行為を行ったのである。そしてもちろん、その犠牲になった人やその遺族、ニュースを聞いた全ての人の心は虚無に陥る。
ブッダが見極めた執着という罪
事故や天災はどうだろうか。病気や老いはどうだろうか。この場合、心に『愛』があったとしても関係なく、時にそれによって命は奪われる。そして人間側に『虚無』が訪れる。暗く、深い闇の底に突き落とされることになる。
だがその場合、『執着』をしなければ、そこに虚無は訪れない。これに関しては、『ブッダ』ほどこのことについて強く説いた人間はいない。ブッダは遥か2,500年前にこのような事実への対処の仕方、人間の在り方について悟っている。
- 諸行無常(しょぎょうむじょう)
- 生老病死(しょうろうびょうし)
- 諸法無我(しょほうむが)
- 五蘊盛苦(ごうんじょうく)
- 求不得苦(ぐふとくく)
- 愛別離苦(あいべつりく)
- 怨憎会苦(おんぞうえく)
- 一切行苦(いっさいぎょうく)
これらは全て、『執着』という罪を犯さなければ達することが出来る考え方(境地)だ。そもそも『動物の肉』を食べていないか(殺生戒は守れているか)。『道路埋立の際に殺された生命』の為に涙を流したか(人間本位な排他的価値観に支配されていないか)。『遠い異国に住む人間の命』が失われたニュースについて熟考したか(自分本位で無責任な生き方をしていないか)。
していないなら、それは自分の身の周りの人間の命だけを棚に上げる行為であり、そうした心の在り方は、あまり『真理(愛・神)』に近いものだとは思えないはずである。
[仏教の開祖 釈迦(画像)]
新旧7つの大罪
キリスト教の『7つの大罪』も同じだ。
- 傲慢
- 強欲
- 怠惰
- 嫉妬
- 憤怒
- 暴食
- 色欲
罪という言葉をを紐解くと、『的を外す』という言葉にたどり着く(『罪』という言葉は、過ちを意味するラテン語の『peccatum』の訳語である。これは、聖書のギリシャ語『hamartia』の訳語である。これは不足や誤りを意味するが、元々はヘブライ語の『hatta’t』の訳語である。これを忠実に訳すと『的を外す』となる)。『罪を犯す』とは『的を取り違える』、『自分の欲望を間違った方向に持っていくこと』である。我々人間は、このような試練を課せられ、どう生き貫くのかを求められる。
また、2008年3月、ローマ教皇庁は新たな七つの大罪を発表した。それは、
- 遺伝子改造
- 人体実験
- 環境汚染
- 社会的不公正
- 貧困
- 過度な裕福さ
- 麻薬中毒
である。この新旧両方ともの7つの大罪で挙げられている人間の心の在り方は、全て『真理(愛・神)』から逸れる行為だ。その証拠に、
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
『真理(愛・神)』から逸れてしまったからこそ、人間の心は虚無に陥ったのだ。つまり、この様なサインをヒントにして、心を正しい方向にもっていくことが、人間に与えられている試練(ノルマ、責任)なのである。
モーセの十戒の根幹
『モーセの十戒』の根幹にあるものとて同じだ。
[モーセの十戒(レンブラントの絵画)]
- 『わたしのほかに神があってはならない。』
- 『あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。』
- 『主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。』
- 『あなたの父母を敬え。』
- 『殺してはならない。』
- 『姦淫してはならない。』
- 『盗んではならない。』
- 『隣人に関して偽証してはならない。』
- 『隣人の妻を欲してはならない。』
- 『隣人の財産を欲してはならない。』
- 『偶像を作ってはならない。』
※モーセの十戒。ここには異なった訳を入れて11個掲載。
- 父母を敬わない
- 殺す
- 姦淫する
- 盗む
- 偽証する
- 不倫をする
- 妬む
ということをして、人は本当に『虚無』に陥らないだろうか。いや、陥る。また、
- 『ほかに神があってはならない』
- 『偶像崇拝』
に関しては、
『神の偶像崇拝が禁止されている、唯一とされているのは、神が人間ではなく、見えるものでもなく、真理だからであり、真理が2つあっていいわけがないからだ。』
ここで書いた通り、あるいは、『第18』の黄金律、
に書いた様に、その行為自体が『アウトサイド・イン(真理から逸れている行為)』だからだ。そして『安息日』に関しては後で記述する。
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
『真理(愛・神)』から逸れてしまったからこそ、人間の心は虚無に陥ったのだ。
聖戦(ジ・ハード)の正体
また、イスラム教の『聖戦(ジ・ハード)』における、『神の為に奮闘する』という意味も、この説明でつじつまが合うことになる。要は、その聖戦に負けてしまうということは、光が負け、闇が勝つわけだから、心が虚無に近づくことになる。『神の為に奮闘する』というのは、『神・真理・愛の為に奮闘する』という意味で解釈するわけだから、真理で解釈すれば、『正義は勝たなければならない』ということであり、愛で解釈すれば、『良心が優位であるべきである』ということになる。
それなのに、『聖戦(内なる戦い)に負ける』のだから、そこにいるのは、心を闇に支配された、虚無に陥った人間となるのだ。
ドストエフスキーは言った。
人間は心の中の戦いに打ち勝ち、虚無に陥ることを防がなければならない。その戦いのことを『聖戦(ジ・ハード)』というのだ。
9.11を経て、宗教についての疑問を爆発させた、『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』にはこうある。
わが西側の政治家たちはR(宗教)という単語に言及するのを避け、その代わりに、自分たちの戦争を『テロ』との戦いとして性格づけており、まるでテロが独自の意志や心をもつ一種の、霊(スピリット)ないし力(フォース)であるかのようである。あるいは、テロリストを純粋な『悪 』に衝き動かされた人間として性格づける。
しかし彼らは悪によって衝き動かされているわけではない。そう考えるようどれほど誤って導かれていようとも、彼らは中絶医を殺すキリスト教徒の殺人犯と同じように、自分たちが正義であり、彼らの宗教が語りかけることを忠実に追及しているのだと感じることによって、衝き動かされているのである。
前述に、『テロは結局虚無を生む』と書いたが、彼らは『復讐<殉教へのあこがれ』という図式を強く抱いている。だが、それも『世界がわかる宗教社会学入門』にあるように、
宗教には、テロリズムのイメージがある。宗教とテロは関係性が強いのか。これはもちろん誤解で、実際はテロリストが宗教を口実にしているだけ。
ということなのであり、彼らが『真理を曲解した』だけで、イギリスの哲学者、ジョン・ロックが言った様に、
ということであり、彼らは『聖戦を行った』というよりは、『聖戦に負けた』のである。世界にいる『本当のイスラム教徒』たちは、彼らと自分らを同じ扱いをしてほしくないと懇願している。(『イスラム国』の名前も、イスラムという名称を使ってほしくないと願い出て、それで『ISIS、ISIL』への変更となった。)(追記:ここまで)
また例えば、『真理(愛・神)などない!』と言ったとする。だが、『ある』ので、その人物の心は虚無に陥ることになる。まるで、テストで『×』を貰ったときのような、1円玉でレストランでディナーを食べられる、と思い込もうとするときのような、決して清々しくはない気分に陥ることになる。『妄語』という考え方でもそうだ。嘘をつく、真実とは違うことを言う、覚った人間であると吹聴する、ということをしたところで、心底には必ず虚無があるはずである。
人間と暖炉
これはとても不思議な現象である。この現象が勘違いでないのなら、まるで、『暖炉に近づくと体が温まり、離れると冷えていく』ように、この世には間違いなくそういう不思議な法則が働いていることになる。
また例えば、『第13の黄金律』、
にも書いた、聖書の『伝道者の書 5章』にあるこの一文を見てみよう。
『見よ。 私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。 これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。』
つまりここにあるのは『限界効用の逓減』という概念である。それは例えば、仕事終わりのビールは美味いが、二杯目、三杯目と味が落ちていく現象のことである。私は『無職時代』を経験したこともあるし、『美味しいはずの焼肉を毎日食べていた』ことも経験しているからよくわかっているが、人間は、ここにある『真理』から逸れれば逸れるほど、心が虚無に陥る。
例えば無職なら、毎日が本当につまらないし、生きる喜びを全く感じない。また、焼肉であれば、あれほど好きだったはずなのに、3日ほどでもう食べるのがうんざりになっている。いや、更に厳密に言うなら、食べ放題などの一口目は美味しいが、後半になるにつれ、どんどん味が落ち、挙句の果てには、
私
などという言葉を吐いているのだ。これは間違いなく、私が『何らかの法則から逸れた』ことによって、『罰を受けた』ような状態に陥っていると考えることができるわけだ。
しかし、無宗教の私は、『神様から罰を受けた』とか、『罰が当たる』というような、そういう言い回しをすることは決してないため、単純に首をかしげるだけで終わっていた。
なんでそうなるのかなあ。
しかし、もし
『神=愛=真理』
という図式があり、
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
と説明した場合、今までの半生で私の身に起きた、全ての『虚無の原因』につじつまが合うことになるのだ。
例えば前述したような真理を、『限界効用の逓減の真理』としたとしよう。すると、そこに『合わせにいけば』、私の心はいつも充足を覚える。例えば、たくさん働いて、たくさん運動して、たくさん我慢して、食事を摂るのだ。すると、心底からその食事を
美味しい!
と味わうことができ、心は満たされる。
だが、それに『逆らい』、仕事も運動もしないで自堕落な生活を過ごす。そして、お腹も空いていないのに時間的な感覚だけで、出前か何かで楽をして食事を用意して、同じものを毎日食べる。すると、みるみるその食事から得られる効用が薄まっていくことを思い知り、得られるはずの恩恵を得られないため、心が枯渇していくのを覚え、それが虚無へと変わっていく。これが『モーセの十戒』のときに言った、『安息日』についてのからくりである。
この『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』という事実は、人間にとって極めて重要な事実の可能性が高いのだ。
絶対軸に相応しい存在
なぜなら、例えばこの法則に従って法律を作れば、限りなく有意義な法律が完成し、この法則に従って裁判をすれば、限りなく正義に近い審判を下すことができる。人と人とが問題を解決するとき、この法則に従って話を進めれば、話は必ず和解の方向に傾けることができる。国や企業とて同じだ。この法則に従うことにより、必ず妥協案や『潤滑油』が何かを見出すことができ、スムーズに事が運ぶのだ。
例えば人が人にものを教えるとき、
『迷惑を掛けちゃいけないよ』、『人の物を盗ってはいけないよ』、『人を殺してはいけないよ』
という事実だけを教えるよりも、
女性
という話を原則に置きながら説いた方が、
それなら逆に、真理(愛・神)に近づくような行動を取ることが模範的で、かつ心が幸せになるんだ!
という発想にもつなげることができ、そしてその正確性は極めて高い。『何教を準拠せよ』という教え方よりも、極めて真理に近い教育となるのだ。
ただし、この『真理・神・愛』という言葉が厳かすぎて、人々がこれを使いこなす日が来ることは考えにくい。
9.11を経て、宗教についての疑問を爆発させた、『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』にはこうある。
『あなたは本気で、自分が善人であろうとつとめる唯一の理由が神の賛同と褒美を得ること、あるいは非難や罰を避けることだとおっしゃるのですか?そんなものは独特ではなく、単なるご機嫌取りかゴマすりであり、空にある巨大な監視カメラを肩越しにうかがったり、あるいはあなたの頭のなかにあって、あなたのあらゆる動きを、あらゆる卑しい考えさえ監視しているように、
『もし人々が、罰を恐れ、褒美を期待するというだけの理由で善人であるならば、私たちはまったく実に惨めなものではないか』。
マイケル・シャーマーは『善悪の化学』において、これを論争ストッパーと呼んだ。もしあなたが、神が不在であれば自分は『泥棒、強姦、殺人』を犯すだろうということに同意するのなら、あなたは自分が不道徳なことを暴露しているのであり、『それはいいことを聞いたから、私たちは、あなたのことは大きくよけて通らせていただく』。
反対に、もしあなたが、たとえ神の監視のもとになくとも自分は善人でありつづけると認めるのであれば、私たちが善人であるためには神が必要だというあなたの主張は、致命的に突き崩されてしまったことになる。私は思うのだが、非常に多くの信仰心のある人間が、自らを善人たらしめるように衝き動かしているのが宗教であると本気で考えているのではないか。個人的な罪の意識を組織的に悪用しているような宗教に所属している場合、とりわけそうではないだろうか。
このドーキンスの『神』の考え方は、前章で何度も説明しているように『彼(主にヤハウェ)』のことだ。しかし私が言っている『神』は、アインシュタインらと同様の『汎神論的な神』であり、宇宙の法則性と同義語という意味を持つ。
従って、人が善人であるために(一線を超えない為に)必要なのが『神(愛・真理)』という境界線(法則)である、という発想と、ドーキンスの言う『神様の目を気にする』という発想は、一線を画している。ドーキンスは、ヒトラーやスターリンも無神論者だった、という逸話が例に挙がっていることに言及しながら、『だから』、
- 『無神論者=犯罪者が多い』
- 『有神論者=犯罪者が少ない』
という『妄想』を、決定的な現実を突きつけ、打破している。
1969年10月17日の午前8時、モントリオール警察がストライキに入ったときに正否をためされることになった。午前11時20分には最初の銀行に強盗が入った。正午までにダウンタウンのほとんどの商品は略奪を受けて店を閉めた。それから2,3時間のうちに、タクシー運転手たちは空港からの客をめぐって競合していたリムジン・サービスのガレージに放火し、車の屋根にのぼった男が銃で現地の警察官一人を射殺し、暴徒がいくつものホテルやレストランを破壊し、一人の医師は郊外の自宅で押し込み強盗を射殺した。
その日の終わりには、6つの銀行に強盗が入り、100ほどの商店が略奪され、12件の放火があり、貨車40車両分の商店のフロントガラスが割られ、市当局が軍隊、ならびにもちろん騎馬警官も招集して秩序を回復するまでに、300万ドルの損害を受けた。この有無を言わさぬ実証テストは、私の政治信念をずたずたに引き裂いた。
ひょっとしたら私もまた、神によって見張られ、取り締まられることがなくとも人々は前任のままいとどまるだろうと信じる、極度の楽観主義者なのかもしれない。一方で、モントリオールの住民の大多数はおそらく神を信じていたはずである。現世の警察官がすべて一時的にその職務を離れたときに、なぜ神への怖れが住民たちを抑えなかったのだろう?モントリオールのストライキは、神への信仰が私たちを善人にするという仮説を検証するにはおあつらえむきの、自然の実験ではなかったのだろうか?
(中略)米国における党派関係は、宗教性の完璧な指標ではないが、『赤い(共和党の)州)は、もっぱら保守的なキリスト教徒が圧倒的な政治的影響力をもっているおかげで赤いのである。
(中略)実際に、米国でもっとも危険な5つの都市のうちの3つは敬虔なテキサス州にある。押し込み強盗のもっとも高い発生率をもつ12の州はどれも赤である。窃盗の発生率がもっとも高い29州のうち24州が赤である。もっとも高い殺人の発生率をもつ22州のうちで17州が赤である。
また、ドーキンスは、想像上の宗教擁護者がいたとしたらと仮定して、彼がこう言うだろうと言っている。
『もしあなたが神を信じないのであれば、道徳についての何らかの絶対的な基準が存在することを信じないことになる。あなたは善人になろうとあらゆる努力を傾けるかもしれない。しかしあなたは何が善くて何が悪いかをどうやって決めるのですか?
つまるところ、宗教だけがあなたに善悪の基準を提供できるのです。宗教がなければ試行錯誤しながら自分でこしらえなければならない。それではルールのない道徳ができあがるだけだろう。計器に頼らず勘で飛ぶような道徳だ。もし道徳が単なる選択の問題であれば、ヒトラーは優生学的な着想にもどつく自らの基準によって、道徳的であると主張でき、そして無神論者にできるのは、さまざまな知識によって、個人的に生きるための選択をすることだけである。
それに対いて、キリスト教徒、ユダヤ教徒、あるいはイスラム教徒は、悪が絶対的な意味をもち、それはあらゆる時間、あらゆる場所において真理であると主張することができ、それに従えば、ヒトラーは絶対的に悪なのである。』
私たちが道徳的であるために神を必要とするというのが、たとえ真実であったとしても、それで神が存在する可能性がより高くなるわけではなく、単により望ましくなるだけのことにすぎない(多くの人はこの違いがわからない)。
このドーキンスの想像上の宗教擁護者は、『人間が善人であるために、神様という絶対者の支配が必要だ』と言っているわけだが、ドーキンスは、『それが神様という人格神の存在を決定づける理由にはならない』と言っている。しかし私が言っている『神=愛=真理』の図式の考え方は『汎神論的な神』であり、宇宙の法則性と同義語という意味を持つ。したがって、別に無宗教者であっても善人になることが可能なのである。
ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者スティーブン・ワインバーグがこう言い、
『宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である。』
フランスの数学者、パスカルが言うように、
『人間は、宗教的な確信をもっておこなっているとき以上に、完璧かつ快活に悪をなすことはできない。』
『宗教さえあれば、それだけでいい』という考え方は、完全に歪曲している。
本書は、いかに好意的な見方で臨もうとも、私たちがー宗教を信じる人間でさえー道徳上の判断を下す根拠は聖書からは得られないと示すことから始まった。それならば、私たちは何が正しくて何が間違っているかを、どのようにして判定するのだろう?
この疑問にどうこたえるかにかかわらず、私たちが事実の問題として、正しいあるいは間違っているとみなすものについては意見の一致が、驚くほどひろく行き渡った見解の一致が存在する。この見解の一致は、宗教とは明白な結びつきを持たない。けれどもそれは、本人たちが自らの道徳が聖書に由来すると考えていようといまいと、信仰を持つ人々にまで及んでいる。
アフガニスタンのタリバンや、アメリカでそれに相当するキリスト教原理主知者という顕著な例外はあるが、大部分の人間は、倫理上の原則に関する、同様に幅広く行き渡ったリベラルな見解の一致に対して、口先だけの同意はする。
私たちの大多数は、不必要な災禍を引き起こそうとは思わない。私たちは言論の自由を信じ、たとえ家われていている内容に同意できない場合でも擁護する。税金を払い、人をだまさず、人を殺さず、近親相姦に走らず、自分がしてほしくないことは他人にしない。こうした善行に関する原則の一部は聖書に見出だすことができるが、それはまともな人間なら従いたくないと思うようなことと一緒に埋め込まれている。そして聖書は、善行に関する原則を悪行に関する原則と区別するためのいかなり基準も提供していない。
『宗教を語る人間は嘘くさいが、宗教を語らない人間に、人間を語る資格はない。』
だが、正しいのは宗教ではない。『宗教が説く、ある教え』なのだ。(追記:ここまで)
『神=愛=真理』
という図式があり、
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
全ての人がこれを理解し、それを重んじれば、そこにあるのは『世界平和』だ。
『全ての人間が自分のやるべきことをやらないと、世界平和は実現しないのだ。 』
にも書いたように、その『自分のやるべきこと』というのは、この図式とこの言葉を理解することである可能性が高いのだ。また、
『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』
の記事に書いた様に、『ガンジーとヒンズー教の教え』についてもこの法則と照らし合わせて考えることが出来る。
人生を何よりも真理(Satya)探究という目的のために捧げ、輪廻(生まれ変わり)等の価値観を信じるヒンズー教の指導者ガンジーは、自分の理念をまとめ、初めは『神は真理である』と述べていたが、後になると『真理は神である』という言葉に変えている。(Wikipedia)
ガンジー
『神が真理である』だと、『(特定の)神様こそが絶対なのだ』ということになるが、『真理は神である』だと、『真理という絶対不変のものがあるのだ』ということになり、そして、その真理の探究に人生を捧げたガンジーは、その生涯で『真理の全て』を突きとめたかどうかは、定かではないのだ。むしろ、その様に心や言葉に変化が見られていることからも、常にそれを模索し、探究していた可能性が高い。だとすると、傍から見ると首をかしげざるを得ない、『輪廻』や『カースト制度』は、真理かもしれないし、真理かどうかの断定はできないということになる。
もし、『輪廻、カースト制度』を押し通したとき、そこにいる誰かに『虚無が訪れた』なら、そこにあるのは真理ではないということになるのだ。
何らかの引力
に書いたのはこうだ。
この黄金律はまるで、『核』のようです。
(画像)
地球のどの場所から、どの時代から、誰が、どのような掘り方で地面を掘っても、絶対に最終的に、この『核』に到達する。この様なイメージが強く頭に浮かびます。
そしてまたその事実は、この地球で『偉人』と呼ばれるような人間は、往々にして自分が信じた道(カテゴリー)を突き詰めた人間であることが多く、必然的に掘る深さは深いわけで、彼らの意見が一致し、また、例えば刹那的に生きたかつての私のように、浅くしか掘らない人々がここに辿り着かず、黄金律から逸れて『後悔』して生きてしまっている事実ともつじつまが合う。
宗教が違う。時代が違う。国家が違う。立場が違う。それなのに、なぜこの世を生きた様々な差異ある偉人たちは、同じ場所に目を向けることになったのか。
この『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく』という不思議な法則は、『引力』のそれにどこか様相が似ているという印象を受ける。2000年以上前から考えられていたこの引力という事実については、今の常識が当たり前になる前、アリストテレスの考え方が根付いていた。
『石を手に取って離す。すると地面に落ちる。地面は土や石で出来ているから、そこに戻る。つまり、本来ある場所に戻ろうとするのだ。』
という考えだ。人間も家を出るが、また必ず家に戻る。動物も巣に戻る。それと同じだ。そういう発想が根付いていたのである。
また、『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある。
喜劇作家であるアリストパネスは演説でこう言った。
『かつて人間は二つの肉体が背中合わせとなった存在であった。』
一体となっている二つの肉体のどちらも男である場合、どちらも女である場合、そして男と女である場合(両性具有=アンドロギュロス)があった。残念なことに、ゼウスの決定により、彼らの肉体は二つに分断された。それ以来、私たちは分離されてしまった片割れを求めている。元の肉体の組み合わせにより、求める片割れは男もしくは女である。
アリストパネスによると、この探究こそが私たちが愛と呼ぶものである。愛とは、失われた原初の結合を回復しようとする欲求である。愛によって自分と一体であるべき片割れを見つけ出し、私たちの本来の姿を完全に回復できた時、私たちは最高の幸せを手に入れることが出来る。
これらの真偽については問題ではない。考えたいのは、遥か数千年も前の時代から、人間は『引力』のようなエネルギーに気づいていたということなのだ。そしてこの『引力』のようなエネルギーは、『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』 という今回取り上げる考え方と密接な関係性にある。
責任があるのは人間側
人は、どうもこの『真理(愛・神)』に『引力』を感じていて、無意識にそこに引き寄せられている印象を得るのだ。まるで磁石のように、人間の心に磁極があり、例えば『真理(愛・神)』が『S極』であるなら、自分の心が『S極』である以上、それと交わることが出来ないようなイメージで、その場合、心を『N極』にすることを、求められるのだ。
例えばこのSとNで考えるのであれば、普通、『真理(愛・神)』と同じSの方が合致しやすいと思いがちだが、そうではなく、『S側は永久にその様相を変えることは出来ない。だから合わない場合は人間がこちらに合わせよ。そうすれば互いは合致することになる。』という解釈をしたいのだ。だからこの場合は、どっちがSで、どっちがNでも別に関係なく、言いたいのは『人間次第で『真理(愛・神)』と合致することもできるし、逸れることもできる』ということなのである。
それは、『断固としてこの世に存在するものと人間の関係』にも書いた、『パラダイム転換とは』の『戦艦の話』を見るとわかりやすいだろう。
更にこの話を裏打ちする内容がある。東京大学、及び東京大学大学院を出た、ひろさちや氏の著書、『面白いほどよくわかる聖書のすべて』にはこうある。
旧約聖書と新約聖書の違いは何か?
『わたしは熱情の神である。わたしを拒む者には父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える』
これが聖書の伝える神の本質である。日本人にはわかりにくいとされる聖書だが、冒頭に述べた神の本質さえ理解していれば聖書には強くなれるのである。
わたしを拒むのか?それとも愛するのか?じつは聖書全体を通じて流れているのは神のこの問いかけなのだ。だからこそ、二者択一を迫る神とそれに答える人間との間に契約が必要とされるわけだ。拒むのか?愛するのか?という契約である。その中間などありえない。そして愛すると契約したその時点から、熱情の神は文字通り情熱的にその人を愛しはじめるのだ。まずここを押さえてから聖書の扉を開いてみよう。
聖書には旧約と新約があることはすでに皆さんご存知だろう。では旧約と新約はどう違うのか。一言で言えば旧約とは『旧い契約』であり、新約とは『新しい契約』のことである。
さて、旧い契約とは紀元前1250年頃、それまでエジプトで奴隷として虐げられてきたイスラエル民族がエジプト脱出後、シナイ山の山麓で大預言者モーセを介して唯一神ヤハウェとの間に結んだ契約のことを指す。つまりイスラエル民族が神の与えた立法を守るなら、彼らは神ヤハウェの民となり、同時に神もイスラエル民族を守ろうというのだ。したがって、他の神々を信じるようなことがあれば、この契約は破棄されることになる。
しかもその時、神はイスラエル民族の前から消えるだけではなく、冒頭述べたように、『わたしを拒む者には、 父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う』ぐらいだから恐ろしい。
では、『新しい契約』とは何だろうか。その意味をイエスの使途パウロは、『人間が救済を得る為には『律法』を守る必要はない。信仰だけで十分である』と解説している。もう少し詳しく説明しよう。
1世紀初頭にパレスチナのガリラヤ地方で宣教活動を行ったイエスは『神の国』に入るためにはユダヤ教の頑迷で煩雑な律法を守る必要はない。『神の愛』を信じればそれで足りるのであると語り、さらに貧しい人々を救うためにユダヤ教の生命線ともいうべき安息日や食事などの関する儀礼的な立法を大胆不敵に破ってみせたのだ。
つまり旧い契約を『神の罰』を恐れ、『神の律法』という行動規範を守っていさえすれば救済が来ると位置づけるならば、新しい契約とは神の愛、ひいては神そのものを心の内で信じるようにしようではないか、という新たなる約束事を呼び掛けたものと考えられるのである。
わたしを拒むのか?それとも愛するのか?じつは聖書全体を通じて流れているのは神のこの問いかけなのだ。だからこそ、二者択一を迫る神とそれに答える人間との間に契約が必要とされるわけだ。拒むのか?愛するのか?という契約である。
という部分に注目したい。まさにこれは、『S側は永久にその様相を変えることは出来ない。だから合わない場合は人間がこちらに合わせよ。そうすれば互いは合致することになる。』と書いた私の見解と全く同じものなのである。その話は『黄金律』の『人間には責任があり、真理には責任がない』にも書いていることである。
この世界に確かに存在する『不思議な引力』。その正体は『真理(愛・神)』なのかもしれない。そう考えると、
『この世には、命よりも大事なものがある。しかし、それは『上』にあるのではない。だから、『命よりも上』という表現は相応ではない。『中心』にあるのだ。』
ここで書いた『上ではなく、中心にそれはある』という表現も、つじつまが合うことになる。
虚無というサイン
目には見えないが、中心にそれがあり、そこには引力が働いている。そして人間はそこから逸れることが出来るが、しかし逸れると間違いなく心に『虚無というサイン』が現われて、(それ以上逸れるな)というメッセージを受け取る。そしてそこに近づくと、まるで暖炉に近づくと体が温まるイメージで、心が温まり、充足を覚え、幸せな気持ちになる。ここまで考えると、
『神の偶像崇拝が禁止されている、唯一とされているのは、神が人間ではなく、見えるものでもなく、真理だからであり、真理が2つあっていいわけがないからだ。』
ここに書いた様に、『神が唯一である』という事実や、『目には見えない。真理だからだ』という事実の理解が容易になってくる。そしてそこに書いた、『神は、”ある”』という事実と繋がってくることになる。『真理(愛・神)』は、『ある』のだ。そして人間は、そこに寄っていくことで充足し、逸れれば逸れるほど虚無に陥るようになっている。
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