・NEXT⇒(ブラックボックスが生んだ虚無)
・⇐BACK(各宗教やこの世に存在する教訓の根幹にあるもの)
Contents|目次
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
『真理=愛=神』だ。つまり、これらは全て同じものの可能性が高いのだ。何よりこれらは三つとも、『ここから逸れれば虚無に陥り、近づくと心に充足を覚える』という共通点をもっている。特定の人がそこに神様の存在を感じる(神様という支配者に『救われた』と感じる)と思うのは、まるで奇跡を体験した(間違いなく自分たちが考えられるようなものではない、自分たち以外の何かの力が働いた)かのように、心が充足する(温まる)のを覚えるからなのだ。
しかし恐らくそれは『神様の仕業』ではない。なぜなら、特定の人物の利益を満たす為だけに存在する神様など、人間の創り出した虚像だからだ。もし神様という人格神がいると仮定した場合でも、その人は絶対に人間(特にその特定の人物)だけの味方ではない。人が食べるため、着るために殺生され、人のために実験される動物、踏みつぶし、埋め立てて殺す昆虫、伐採する植物、目に見えない小さな生命を含めた、生きとし生けるものすべての味方であることはもちろん、
それ以外の万物すべての味方であり、決して人間だけのために存在しているのではない。この決定的な事実を直視できない視野の狭い人間本位な人間には、どちらにせよ『神(創造者)』の名を語る資格はない。
我々は、この『法則』に触れるか、触れないかということで、心が『充足』したり、あるいは『虚無』に陥るようになっているのだ。『神様』がいるのではない。まるで、暖炉に近づけば暖まり、離れれば冷えていくように、人間がそこに近づけば心は『充足』し、そこから逸れれば心は『虚無』になるのだ。
その法則は目に見えない故、人々はそれを各自で独自解釈し、『真理』と言ったり、『愛』と言ったり、『神』と言ったりしている。しかし実際には、人々はこれらが『何であるか』を正確に言い当てることができないし、未だにその全容も理解できていない。何しろこれらは目に見えないし、形をもっていないからだ。それにこれらは全て、人間が創り出した言葉であり、だとしたらその信憑性は低い。したがって、これら三つの『異なった的を射たはずの言葉』が指し示すものは、もしかしたら『同じもの』の可能性がある、ということは否定できない。
ゴッホは言った。
『真理=愛=神』。この三つの共通点はこうだ。
もちろんこれらが同じものであるという確率は100%ではない。だが、ここまでこれらの共通点が一致するものは他にはなかなかないのだ。この法則に触れ、
[16世紀に描かれた、風呂に入ったアルキメデスのイラスト]
ではここでは、イエスの『たとえ話』から、この図式がどれだけ異彩を放っているかを確認していこう。『面白いほどよくわかる聖書のすべて』にはこうある。
ユダヤの常識を超えたイエスの愛
ある律法学者が、イエスを試すために『どうしたら永遠の命を得ることができるでしょうか』と質問をしたときのこと。イエスが、律法ではなんと言っているのかと問い返すと、
『神を愛し、また、隣人を自分のように愛さなければならない』
と言う。『それは正しい答えだ。』とイエスは答えたが、
『では、わたしの隣人とは誰ですか』
と律法学者はくいさがった。そこでイエスは次のようなたとえ話をした。
ある旅人が、旅の途中、おいはぎに襲われて、重傷を負ってしまった。道端に倒れた旅人は、血まみれで瀕死の様態だった。そこへ1人の祭司が通りかかった。だが、彼は旅人を避け、道の反対側を歩いていった。
次に通りかかったのはレビ人だった。彼も一瞥をくれただけで旅人の脇を通り過ぎていった。
3番目に現れたのは異邦人のサマリア人だった。彼は旅人を深く憐れみ、油とぶどう酒で傷口の手当てをし、ロバに乗せて近くの宿まで連れていき、一晩中介抱した。翌朝、宿の主人に銀貨を渡して世話を依頼し、もし、この銀貨で不足ならば、帰りに宿へ立ち寄って支払うと約束した。
イエスが、律法学者に、
『さて、この3人のなかで、誰が本当の隣人であったか』
と逆に質問をすると、律法学者は、
『サマリア人です』
と素直に答えた。
『もちろんそのとおりだ』
とイエスもうなずくのである。
このたとえ話を解くカギは、彼ら3人の境遇にある。当時のユダヤ社会では、神に仕える祭司がいちばん崇高な職業であった。レビ人もまた、神殿に従事する仕事を司っていた。しかし、サマリア人は、神聖な職業とは無縁で、ユダヤ人とは長年敵対関係にあり、嫌われ、軽蔑されていた外国人だった。
イエスは、ユダヤ人だけでなく、敵であり、外国人であるサマリア人を含むすべての人々、つまり人種や宗教を超えたすべての人々が隣人であるとしている。イエスの教えが後に全世界に広がるのは、ユダヤ人だけが救われるというユダヤの常識と訣別していた点にある。頑迷に隣人を限定するものではないとイエスは指摘しているのだ。
イエスの教えがとても高潔であることがわかる話だ。偏りがない。こうした排他的ではない発想は、極めて『真理(愛・神)』に近い。だからこの話を聞いても心に虚無は生まれない。むしろその真逆で、気持ちが温かくなる。愛に包まれる。
貧しき者の死後の行き先
イエスは、たとえ話のなかで神の裁きについて、神の国(天国)へ行った者と、陰府(よみ)の国へ行った者を登場させている。あるところに、莫大な富を象徴する上等の紫の衣をまとった金持ちがいた。彼は、毎日、ぜいたくな食事をし、高価なぶどう酒を飲み、遊んで暮らしていた。
さて、その金持ちの門前に、ラザロという名の貧しい者がいた。ラザロはやせて、全身を皮膚病におかされていた。犬がやってきて、その腫れ物をなめる始末だった。ラザロは、一度でいいから金持ちの食卓から落ちたもので腹を満たしたいと願っていた。
時が経ち、ラザロは死に、天使たちによって神の国に連れていかれた。一方の金持ちも死に、彼は陰府の国へ落ち、炎に焼かれ苦しんでいた。彼は、神の国のラザロを見つけると、民族の父、アブラハムに行った。
『助けてください。ラザロをよこして、指先に水を浸し私の舌を冷やさせてください。』
アブラハムは答えた。
『ラザロはあなたのもとへは行かない。お前は生前、良いものを受け、ラザロは悪いものを受けてきた。ここで、彼が祝福を受け、お前が罰を受けるのは、正しいことだ。』
それを聞いた金持ちの男はねばった。
『では、ラザロを遣わせて、わたしの兄弟たちに、死後、何が待ち構えているか知らせてください。彼らも悔い改めるでしょう。』
『それは無駄なことだ。彼らは預言者の言葉を聞けばよい。預言者の言葉を聞かないのであれば、死の世界から蘇った者の言葉も聞き入れないだろう。』
不遇の身であったラザロは、生前に悪いものを、金持ちは良いものを受けている。ラザロは金持ちをねたむことなく、神に対して呪う言葉をはかずに一生を終える。一方、金持ちは、神への感謝もなく、安息日を守ることなく、毎日を遊んで暮らした。
イエスは、死後の行き先は、生前の信仰によって決定すると言う。預言者や神の言葉を聞く耳を持ち、おごり高ぶることなくへりくだる心があるかどうかで、神の国へ行けるかは決まるのだ、と言っているのである。
この話で重要なのは、金持ちの男が『7つの大罪』に支配されていて、ラザロは支配されていなかったことだ。
この7つの大罪は全て、『真理(愛・神)』から逸れた人間の心の在り方である。ラザロは、こうした間違った感情に心を支配されることがなかった。従って、そういう人物の心は虚無に陥らない。
アメリカの作家、ヘンリー・デイヴィッド・ソローはこう言っている。
むしろ、清々しい心でこの世を去ることが出来るのだ。
豊かな収穫をもたらす人は?
毎年、秋になると畑で大麦や小麦の種をまいている人がいる。振りまかれた種のいくつかは、農夫たちに、踏み固められた道に落ちてしまった。すると、すかさず鳥が飛んできて、種を食べてしまった。
また種のいくつかは、柔らかい土の上に落ちた。すぐに芽が出て伸び始めたが、土が浅かったために深く根を張ることができなかった。そして、根が貧弱だったため、栄養をとることができず、日照りの後は、みな枯れてしまった。また種のいくつかは、いばらの上にまかれ、いばらの間に入り込んで一番下に落ちていった。落ちた種は、成長したいばらに空を塞がれてしまった。
しかし、ある種は肥えた土に落ちた。これらの種は、実って、豊かな収穫をもたらした。
このたとえ話では、道にまかれた種は、悟らない人をたとえている。神の言葉に耳を傾けない人である。このような者は信仰がないため、悪い者にダマされてしまう。浅い土の種は、神の言葉をうわべだけで解釈する人である。一時的に共鳴しても、困難に直面すると、確信を失い挫折してしまう。
いばらに落ちた種は、神の言葉に耳を傾けても、富の追及に心を奪われ、自己の欲望に負けてしまう人である。
最後の種は、悟っている人のたとえである。悟りとは、神やイエスと言葉を交わして得た知識やその蓄積ではない。神の言葉がもたらす力を、自分の中に取りいれて、日々、生活の中で実践する人のことである。
このイエスのたとえ話は、『成長の教え』ととらえることができる。成長の過程で大切なのは、神の福音の言葉が、一人一人の心にしっかりと根付いてはじめて、豊かな収穫をもたらすというのである。
この話を聞いて私は驚いた。私が17歳の頃に、ある有名登山家に対してお礼の言葉を言う時、その場で思いついた『たとえ話』と似ているのだ。私はその時『園芸科』に属していたため、それも関係させながらお礼を言おうと思った。
私は、血気盛んな人間300人ほどの代表としてその言葉を言った。つまり、その300人全員が、彼の話を素直に聞き、すぐに自分の人生に活かせるわけではない、という事実を私は直視していた。だが、間違いなく届いた人には届いた。その登山家に、どのようにその事実を伝え、そして感謝の気持ちが伝わるかということを考えた結果、私は『心にまかれた種』というテーマで、話をまとめたのだ。
『確かに今日、あなたの話を皆は聞いた。そして、すぐにその話を自分のものとして、今日この後すぐにでもエネルギーに満ち溢れる人もいるだろう。だが、そうではない人もいる。人それぞれには理由があって、心に深い闇を持っている者や、心を固く閉ざした者もいる。
しかし、間違いなくあなたが蒔いた種は、我々の心に植え付けられた。土壌が豊かな人であれば、すぐに花が咲き、その花を見て勇気づけられることだろう。そうではない人も、いつか土壌が耕されたとき、その種が開花することになる。そう考えると、今日のあなたの話は無駄ではない。必ずここにいる全ての人にとって、有意義な話となる。』
私はその様なことをその人に伝えたかった。どこまで上手く話せたかはわからないが、私は本当にそういうことを伝えたかった。そしてあれから16年の月日が経ち、今回この『種をまく人』の話を見た。私はこの話と自分のしたあの話が、決して無関係ではないと確信した。
何が言いたいかというと、『私のような普通の人間でもこの真理に自力で近づけた』ということを言いたいのだ。ここが極めて重要なポイントである。
神の言葉をうわべだけで解釈する人、あるいは、神の言葉に耳を傾けても、富の追及に心を奪われ、自己の欲望に負けてしまう人。これはまるで、
にも書いた、『スポットライト 世紀のスクープ』のカトリック神父だ。彼の周囲への認識は、『敬虔で高潔な、由緒あるクリスチャン』だ。だが、彼の心の土壌は荒れ果てていた。だからこそそうした不正行為を行っていたのだ。そして転落し、威厳を失い、淘汰された。
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
その時彼の心には、虚無が襲った。彼も立場上『真理(愛・神)』に近づくことは多々あっただろう。だが、それが『頑迷に陥ったユダヤ人』のように、
我々は選ばれし人間なのだ。我々にはある種の権力が与えられているのだ。
という過信に繋がり、 『それ』から逸れてしまった。越権行為、特権の乱用に繋がり、そして威厳は失われた。
そして聖書には前述したような『正しい教え』だけではなく、『闇』の部分もある。9.11を経て、宗教についての疑問を爆発させた、『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』にはこうある。(追記テキスト:2016年11月18日)
ノアの箱舟に匹敵する大事件といえる、ソドムとゴモラの破壊において、格別に正義漢だという理由で選ばれて家族ともども許されたのが、アブラハムの甥ロトであった。二人の男の使いがソドムに遣わされ、ロトに向かって地獄の業火がやってくる前に町を出るように警告した。ロトは使いを家に招き入れてもてなしたが、ソドムじゅうの男が家のまわりに集まり、使いの者を強姦(ソドマイズ)してやるから(ソドムだけに当然か?)その男たちをさしだせ、とロトに迫った。
『今夜おまえのところにきた男たちはどこにいるのか?そいつらをここに出せ。われわれはその者を知ることになるだろう』(創世記 第19章5節)
そうなのだ。『知る』というのは欽定訳聖書でいつも使われる婉曲な意味(性交する)をもっており、この文脈では非常に可笑しいものである。ロトがこの要求をはねつける勇気をもっていたことから考えて、彼がソドムでただ一人の善人として神によって選び出されたとき、神は何か知るところがあったのかもしれない。しかし、ロトの勇敢さは彼が要求をはねつけるときにつけた条件で色あせてしまう。
『どうかみなさん、乱暴なことはしないでください。実は私には、まだ男を知らない二人の娘がおります。あなたがたに娘たちを差し出しますから、好きなふうにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから』(創世記 第19章7~8節)
この奇妙な物語がほかにどんな意味をもつにせよ、聖書に描かれた著しく宗教的な文化において、女性に払われる敬意について何事かを語っているかは確かである。
(中略)このロトとソドムの人々の物語は、『士師記』第19章において奇妙な形で再現されることになる。こちらの物語では、名のないレビ人が側女(妾)と一緒にギブアに向かって旅をしている。彼らは親切な老人の家で一夜を過ごした。彼らが夕食を食べているとき、町の人々がやってきて家の戸を叩き、老人にその男の客を渡すことを要求した。
『そうすれば、われわれがその者を知るであろう。』
老人は、ロトとほとんど同じ言葉でこう言う。
『兄弟たちよ、それはいけない。悪いことをしないでください。この人がわたし家に入った後で、そのような非道なふるまいは許されない。ここに処女であるわたしの娘と、あの人の側女がいいる。この二人を連れだすから、辱め、思い通りにするがよい。だがあの人には非道なふるまいをしてはならない。』(士師記 第19章23~24節)
ここでまたしても、女性蔑視的な精神を声高に、明瞭に表明されている。私の娘と司祭の側女はどうぞ存分に辱め、強姦していただいて結構ですが、結局のところ、男である私の客には相応の敬意を払っていただきたい、というわけだ。この二つの物語はよく類似してはいるが、結末はレビ人の側女のほうがロトの娘たちよりも不幸せだった。
レビ人は側女を群衆に差し出し、彼らは一晩中彼女を集団で暴行した。
『彼らは彼女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が射すころようやく彼女を放した。朝になるころ、女は主人のいる家の入口までたどりつき、明るくなるまでそこに倒れていた。』(士師記 第19章25~26節)
朝になって、レビ人は自分の側女が戸口の階段でうつぶせになって倒れているのを見つけてー現代の私たちなら冷酷なそっけなさとみなすような態度でーこう言った。
『起きろ、さあいくぞ。』
しかし女は動かなかった。女は死んでいたのだ。(中略)聖書は道徳の根拠や手本ではないということにほかならない。あるいは、もし聖書を道徳の手本としたいというのなら、聖書のなかからいい断片だけを拾い上げて選別し、悪い断片は捨てるということになる。
しかしそういうことなら私たちは、どれが道徳的な断片であるかを判断する何らかの独立した基準をもっていなければならない。その基準は、どこに由来にするにせよ、聖書そのものからつくることはありえず、おそらくは、信仰心のある人間であるかどうかにかかわらず、私たちすべてが利用できるような規律だろう。
私の両親たちの『クリスチャンの集い』では、この『聖書のなかからいい断片だけを拾い上げて選別し、悪い断片は捨てる』をやっているような印象を得る。彼らの集会全てに私が顔を出したわけではないので断言できないが、少なくとも私の両親は、まずまちがいなく『見たくないものは見ない(見たいものだけを見る)人間』という評価を与えて、正当である可能性が極めて高い。それはカエサルの、
この記事に書いたとおりだ。
従って、『キリスト教徒だから』とか、『聖書だから』という理由で、問答無用で絶対的な規範である、という考え方は、完全なる盲信である。キリスト教や聖書には、正しいものもあれば、間違っているものもある。それが決定的な事実だ。だが、前述した『いい話』が、2000年以上の歳月を経ても、いまもなおその輝きを失わない『真理』だったことから、
『だから』、ほかの教えも全て崇高に違いない
という曲解が生まれた。そしてそこにある『盲点』が『歪み』を生み出し、キリスト教徒に対する価値を引き下げてしまっている。
・NEXT⇒(ブラックボックスが生んだ虚無)
・⇐BACK(各宗教やこの世に存在する教訓の根幹にあるもの)