この記事は、このサイトで最も重要かつ複雑な内容の下記の記事を、『誰にでもわかるように簡単に説明』する記事だ。下記の記事が合わせて10万文字を超える中、今回の記事はその40分の1。2,500文字で終わる。
『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』
この記事を書く理由は、下記の黄金律が存在するからである。
アインシュタインはこう言ったが、
この記事を誰にでもわかる記事に書き直すことにも、意味があるのである。しかし実際にはまだこの記事では、6歳ではわからず、12歳が限界だろう。いずれまた6歳向けの記事を書くことにする。
さて、その二つの記事では結局何が言いたいかを説明しよう。
『[神]という言葉は人間が勝手に作った言葉であり、しかもこんなものは日本語。だとしたら、この言葉も、この言葉が指し示すものの正確性も疑わしい』
という考え方を軸にして、
もしかしたら[神・真理・愛]って同じものを指し示しているんじゃないのか?
と仮定した。例えば、これらの言葉を辞書で開いたとき、
- 真理=永久不変としてそこにあるもの。
- 神=永久不変としてそこにあるもの。
- 愛=永久不変としてそこにあるもの。(愛が永久不変であることについてのイメージ)
とそれぞれに同じ説明が記載してあっても、つじつまが合うという事実に気づいたのだ。
そして、その見解で本当につじつまが合うのかどうか、主に儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』の四名の歴史的賢人の言葉と照らし合わせながら、分析したのである。
そして、『人間の最高到達地点』である『世界平和』が、彼らが生きていた過去数千年以上前に遡っても一度も成し遂げられたことがないという決定的な事実と、この考え方を照らし合わせて、つじつまが合うかどうかも分析した。
すると、『つじつまが合った』のである。
つまり私は、遥か昔から現在に至るまでこの世に存在する、
- 言語
- 文化
- 宗教
- 考え方
- 倫理
- 道徳
の違いが『人間の最終到達地点』ではないという考え方をしたのだ。それにはもちろん以下の黄金律を軸にして考えているところもある。
その違いがあるからこそ、争いを生んでいる事実がある。これが決定的な事実だ。だが、だからといって人間の思想を統一するとなると、これはまた違う問題が出て来る。個性だ。多様性だ。それを重んじない世の中は窮屈であり、間違っている印象がある。それは、下記の黄金律を軸にしているということもある。
色々な人がいていい。それも決定的な事実だ。
では一体どうすればいいのか。考え方の違いを認めてしまった延長線上に戦争やテロもあっていいというのか。
- キリスト教
- イスラム教
- 仏教
- 道教
- ヒンズー教
- ユダヤ教
- 儒教
どの教えや、宗教が一番正しいのか。一つの信仰を持つことで、その他の信仰を持つ人間との間に隔たりが出来ることの事実は、どう解釈したらいいのだろうか。誰かが一つの考え方に固執するからこそ、違う誰かの他の考え方と対立し、それが争いの原因となるのではないだろうか。
…私は考え抜いた。前述した権威ある偉人たちの教えに目を向けた。すると、
- 世界平和がいまだに訪れていない決定的な事実
- 乱立する宗教や価値観が存在する決定的な事実
- 異なった考え方から争いが悪化する決定的な事実
これらの決定的な事実は、なぜ存在し、そしてどうしたら解決するのかということについての『答え』が浮かび上がってきたのだ。それは、全員が真理に目を向けて、そこから逸れないようにするということである。
例えば、
- 人は死ぬ
- 人を殺してはいけない
これは真理である。また、黄金律はほとんどが真理だが、例えば、
『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』
が分かりやすい例として挙げられるだろう。つまり、
『みんなが足りると思えば、みんなは幸せになる』
『みんなが自分の責任だと思えば、争いは起きなくなる』
『みんながそれぞれの命が唯一無二だと理解すれば、命をもっと大事にする』
という具合に、おのずと世界平和が訪れるようになるのである。つまり、『誰かが何とかしてくれる』のではない。『神様が助けてくれる』のでもない。生きている人間全員が、真理から逸れる行動を取らなければ、そこにあるのは世界平和になるのだ。
『~教が正しい』のではない。正しいのは『真理だけ』だ。生き残っている各宗教は、生き残っているだけあって確かに優れている。私は教えを見た。そして確かに真理を説いている教えが多かった。
だが、完璧ではない。この世で完璧なものというものは、真理をおいて、他にない。
そして、真理という言葉は、[愛・神]という言葉と『同義語』である可能性が高いのである(※アインシュタインも同じ考え方を持っていた)。こんなものはただの言葉だ。これらの言葉が持つ威厳は全て等しく、とてつもないエネルギーを秘めている。宗教とは、この真理(神・愛)という圧倒的なエネルギーをそれぞれで独自解釈した、人間の考え方のモデルの一つに過ぎない。
皆が自分を愛し、人を愛すれば、世界平和は訪れる。そこにある厳かさは、まるで人々が『神』と言って怖れ敬う、その厳かさに似ている。真理(神・愛)だけがこの世を救うカギを握っているのだ。
人間の多様性が認められるのは、人間がこの真理(神・愛)から逸れないことが条件だ。人間が目指すべく最終到達地点、『世界平和』がいまだに成し遂げられていない理由は、人々がこの考え方に辿り着いていないから。そして、未だにその真理(神・愛)の全容が理解できていないからだ。
ノーベル平和賞を受賞したとき、インタビューで、
記者
と尋ねられたときに、マザー・テレサは言った。
世界平和を実現させるためのたった一つの方法。それは、この世を生きる人間全員が、この決定的な事実に目を向けることだ。それ以外に世界平和が訪れることはない。今までがそうだったように。そしてこの世に、
- 未熟者
- 考え方が歪んだ者
が存在する以上は、人間の世界に世界平和が実現することはない。子供も未熟者に入る。だから子供が大人の見えないところで同級生をいじめ、その相手を死に追いやってしまったのであれば、そこにあるのは決して『平和』ではなく、平和でないことが一つでも起きるのであれば、それは『世界平和』とは言えない。
この記事で書くのはまずはここまでだ。この決定的な事実を簡潔に、かつ断固として書くことが次に繋がるはずだ。一つ言えるのは、上に挙げた、
- 未熟者
- 考え方が歪んだ者
を『そう評価する』基準となるものこそが、『真理』だということだ。
ちなみに、この話ついて感覚的に理解したい人は、『チェンジング・レーン』という映画を観るといいだろう。『ゴーン・ガール』、『アルゴ』等で主演・監督を務めたベン・アフレックと、『スターウォーズ』、『アベンジャーズ』等の数々の有名な作品に出演する、サミュエル・L・ジャクソンが主演を務めるこの映画は、極めて教訓性が高く、見ごたえがある。
この映画のポイントはこうだ。
- 1時間半で終わる
- 宗教的な話はほぼない
- 彼らは(あるいはスタッフも)『その力』を意識していない
難しい話を考えたくない人も、気軽に見ることができるのがこの映画の魅力だ。彼らは最初、『その力』に逆らった行動をとり、そして必ず虚無と悪循環に陥る。しかし、無意識に『その力』を味方につけるような行動をとるようになり、しだいに状況が変わっていく。後は映画を観てのお楽しみである。
という『彼の独断と偏見による一時的な解釈』にも注目だ。